「一銭五厘」と呼ばれた日本の召集兵…はがき代にたとえられた命、でも赤紙は郵便で届いていなかった

「一銭五厘」と呼ばれた日本の召集兵…はがき代にたとえられた命、でも赤紙は郵便で届いていなかった 歴史

第二次大戦中の日本の軍隊では、召集された兵隊が上官や古参兵から「一銭五厘(いっせんごりん)」と呼ばれることがあった。一銭五厘とは、はがき1枚の料金のこと。「お前らの命は、はがき代で替えがきく」という意味である。この話が海外の掲示板で1,500以上の支持を集めた。ただ、コメント欄には「赤紙は郵便で届いていないし、はがき代も1937年に上がっている」と由来の説明に疑問を挟む声もあった。調べてみると、言葉そのものは確かに使われていたが、「召集令状がはがきで送られてきた」わけではなかった。

※注:「赤紙」は召集令状の通称。赤い用紙に刷られていたことからこう呼ばれた。「銭」と「厘」は円より小さいお金の単位で、1円=100銭、1銭=10厘。

今日の知ってた?

📮 「一銭五厘」はかつての郵便はがきの料金。兵隊の命をはがき代にたとえた言い回しで、英語では「ペニー・ポストカード(1セントはがき)」と訳されている

📅 はがきが1銭5厘だったのは1899年(明治32年)4月1日から1937年(昭和12年)3月まで。1937年4月1日に2銭、1944年に3銭、1945年に5銭へ上がった

📨 召集令状(赤紙)は郵便では届かなかった。連隊区司令部から警察、市町村役場へと渡り、役場の兵事係が本人の家まで届けた

背景:「一銭五厘」とはどんな言葉か

「一銭五厘」は、もともとは郵便はがき1枚の料金をそのまま言ったものだ。日本郵政グループがまとめた郵便料金の年表によると、通常はがきの料金は1899年(明治32年)4月1日に1銭5厘となり、1937年(昭和12年)4月1日に2銭へ改定されるまで、38年にわたって据え置かれた。明治の終わりから大正、昭和の初めまで、日本人にとって「はがき1枚=1銭5厘」は、誰もが知っているごく身近な値段だったことになる。

この値段が、軍隊では兵隊を見下す言い回しになった。上官や古参兵が、新しく入ってきた兵隊に向かって「貴様らの代わりは一銭五厘でいくらでも来る」と怒鳴った、と語り継がれている。はがき1枚出せば次の兵隊が呼び出せる、だからお前らの命などその程度のものだ、という意味である。替えのきく消耗品として扱われていた兵隊の立場を、身近な値段で言い表した言葉だった。

戦後になると、この言葉を、言われた側の庶民の立場から使う人が現れる。命じられるまま戦場へ送られた普通の人びとを、あえて「一銭五厘」と呼んだのだ。よく知られているのが、雑誌『暮しの手帖』の初代編集長、花森安治の著書『一戔五厘の旗』である。この本は1972年(昭和47年)に第23回読売文学賞を受けた。「一銭五厘」という言葉は、軍隊の中の侮辱の言葉から、戦争に駆り出された普通の人びとを指す言葉へと、意味を広げていった。

今回の元の投稿は、英語版ウィキペディアの「一銭五厘」の記事をもとにしたものだ。投稿は大きな支持を集めたが、コメント欄では「言葉が使われたのは確かでも、由来の説明はあやしい」という指摘も同じくらい注目された。指摘は2点ある。赤紙は手渡しで届けられていたこと。そして、はがき代は第二次大戦が始まる前の1937年に、すでに2銭へ上がっていたことだ。どちらも資料で確かめることができた。

もう少し詳しく

赤紙は郵便ではなく「人の手」で届いた。「召集令状をはがきで送れば済む」という説明はわかりやすいが、実際の流れは違った。滋賀県平和祈念館が公開している証言によると、大津連隊区司令部の動員課に勤めた坂啓二さんは、上の師団司令部が示した兵種ごとの人数をもとに、名簿から一人ひとりを選んで割り当てる仕事をしていた。選ばれた人の住所と名前は、赤紙に1枚ずつ書き込まれた。赤紙は司令部から警察に渡され、警察から各市町村の役場へ送られ、そこから本人に届けられた。

届ける役目を担ったのは、役場の「兵事係」。同じ祈念館には、滋賀県長浜市出身で、1930年(昭和5年)から終戦まで役場の兵事係を務めた西邑仁平さんの資料も残っている。兵事係の仕事は、司令部から届く赤紙を本人に伝えることと、戦死の知らせを遺族に伝えることだった。西邑さんは、届いた赤紙をすぐに配れるよう、演習用の赤紙を使って配達の練習までしていたという。終戦直後、兵事関係の書類を燃やすよう命じられたが、西邑さんは夜中に一人でリヤカーに積んで持ち帰り、約900点を手元に残した。こうした記録からわかるのは、召集が郵便の仕組みではなく、軍・警察・役場をつないだ行政の手で行われていたことだ。「はがき1枚で呼ばれる」というのは、文字どおりの送料ではなく、「それくらい安く替えがきく」というたとえだったと考えるのが自然だろう。

はがき代が上がった後も、言葉は「1銭5厘」のまま残った。日本郵政グループの年表では、はがきの料金は1937年4月1日に2銭、1944年4月1日に3銭、1945年4月1日に5銭へと上がっている。日中戦争が本格的に始まったのは1937年7月で、太平洋戦争の開戦は1941年12月だ。つまり、多くの兵隊が召集された時期には、はがきはもう1銭5厘ではなかった。それでも「一銭五厘」という言い方が使われ続けたのは、38年も続いた値段が「はがき1枚」の代名詞として人びとの頭に染みついていたからだと考えられる。新聞記事でも「一銭五厘とは戦時中のはがき代」と説明されることがあるが、正確に言えば、1銭5厘だったのは日露戦争や第一次大戦をはさむ明治後期から昭和の初めまでである。

花森安治の軍隊体験。厚生労働省が報道発表した、しょうけい館(戦傷病者史料館)の企画展資料によると、花森安治は1937年に東京帝国大学を卒業して化粧品会社に就職した。翌1938年1月、日中戦争の始まりを受けて現役兵として入営し、満洲(現在の中国東北部)の三江省依蘭に送られて警備の任務についた。しかし肺結核と診断されて日本へ戻され、1940年に現役を免除された。2年間の軍隊生活のおよそ半分は入院していたことになる。花森は二等兵のころ、教育係の軍曹から「貴様らの代わりは一銭五厘で来る」と怒鳴られたと書き残している、と紹介されることが多い。花森が入営した1938年には、はがき代はもう2銭になっていた。この話のとおりなら、軍の中では値上げの後も、古い値段のままの言い回しが使われていたことになる。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
第二次大戦のころの日本軍が、下っ端の兵隊をどう扱っていたか。調べれば調べるほど気が滅入る話しか出てこない。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
殴られて育った古参兵が、今度は新兵を殴る。上から順に暴力が下りてくる仕組みだったんだろうな。暴力は次の暴力を生む、っていう見本みたいな話だ。

3. 海外の名無しさん
「お前の価値ははがき1枚分」だって? じゃあ俺がいなくても戦争はできるよね。軍曹殿、今までお世話になりました。帰ります。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
言いたいことは分かるけど、当時の日本で「帰ります」が通じたとは思えない。断れる仕組みじゃなかったからこそ、こんな呼び方がまかり通ったんだと思う。

5. 海外の名無しさん
ひどい呼び名に聞こえるけど、英語圏の軍隊だって新兵を「ウジ虫」呼ばわりするよね。新入りを徹底的に見下すのは、日本だけの話じゃないと思う。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
ただ、元になった記事は由来の説明が怪しい。言葉が使われたのは確かでも、赤紙は郵便じゃなく手渡しで届けられていたし、はがき代は1937年に2銭に上がってる。第二次大戦が始まるより前の話だ。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
手渡しだったなら、「はがき代」は実際にかかった送料じゃなくて、「それくらい安く替えがきく」というたとえなんだな。説明が付け足されるうちに、文字どおりの話にされたのかも。

8. 海外の名無しさん
補足すると、「ペニー・ポストカード」は英語にした意訳で、「一銭五厘」はそのまま当時のはがき代の額のこと。1銭は1円の100分の1、厘はそのさらに10分の1だから、とんでもなく小さい金額だよ。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
なるほど、英語の「ペニー」は「すごく安い」の雰囲気を出すための言い換えか。直訳すると「1.5セン」になって、何のことか分からないもんな。

10. 海外の名無しさん
みんな「新兵の命には価値がないと本気で思っていた」と受け取ってるけど、たぶんちょっと違う。新兵は経験がないから役に立つ場面が少なく、真っ先に死にやすい。古参兵が新入りを軽く見るのは、どこの国の軍隊でも同じだよ。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
イギリスには「キャノン・フォダー(大砲の餌)」って言い方があるしね。兵隊を使い捨てにする言葉は、どの言語にもひとつはあるんだと思う。

12. 海外の名無しさん
兵隊は使い捨て、か。それで戦争に勝てると思ってたのがすごい。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
大きな戦争になると、兵隊はどこの国でも消耗品になる。1813年のナポレオンが「私はひと月に3万人を使える」と言い放った、という話もあるくらいだ。

※ この発言は、オーストリアの外相メッテルニヒが回想録に書き残した会話として知られるもので、ナポレオン本人の記録ではない。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
その前の年にロシアの冬で大軍を失った人の言葉だと思うと、なおさら重いな。

15. 海外の名無しさん
戦争で人が死ぬのは避けられない。でも良い指揮官は、部下の命をできるだけ高く「売る」ものだ。名誉の死のために大隊ごと投げ捨てるのは、ただの浪費だよ。戦争はいつか終わる。死んだ兵士の数だけ、大工も事務員も農家も父親も、戦後の社会から消えるんだ。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
しかも粗末にされたのは下っ端だけじゃない。経験を積んだ士官や艦長まで、艦と運命を共にさせて失っていた。育てるのに何年もかかる人材なのに。

17. 海外の名無しさん
沈没船の調査配信で知ったんだけど、日本の軍艦には兵員用の食堂がなくて、兵は持ち場や居住区で食べていたらしい。食事は大きな鍋で調理場から運んでいたそうだ。信じられなくて、手持ちの艦の図面集で確かめたら、本当に食堂が無かった。

18. 海外の名無しさん
歴史を学ぶ目的は、善か悪かを決めることだけじゃないと思う。その時代を生きた何百万もの普通の人たちが、どうしてそれを受け入れ、仕組みがどうやって回り続けたのか。そこを理解しないと、同じことを防げない。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
「一銭五厘」って言葉が今に伝わっているのも、言われた側の人たちが戦後に書き残したからなんだろうね。言葉ひとつに、当時の空気が詰まってる。

20. 海外の名無しさん
「この記事は出典が弱い」と指摘するのは、当時の軍を擁護することにはならない。言葉が使われていたことと、その由来の説明が正しいかどうかは、別々に確かめるべき話だ。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
言葉は本物、でも「赤紙をはがきで送った」という説明は後付けかもしれない、ってことね。豆知識って、こういうところまで確かめて初めて面白いと思う。

22. 海外の名無しさん
日本では今でも「一銭五厘」で通じるのかな。日本の友人に聞いたら、戦争の本を読む人なら知っているはずで、『暮しの手帖』の編集長だった人の本の題名にもなっていると教えてくれた。

23. 海外の名無しさん
うちの祖父も第二次大戦で徴兵されたけど、軍隊の話は最後まで一言もしなかった。どこの国の兵隊でも、こんなふうに扱われた記憶は人に話したくないものなんだろうな。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
うちの曾祖父もそうだった。戦争の話を振ると、黙って席を立つ人だったって母が言ってた。言葉にしないことで抱えていたものもあったんだと思う。

まとめ

「一銭五厘」は、1899年から1937年まで続いたはがき1枚の料金で、兵隊の命の軽さをたとえた言葉だった。ただ、赤紙は郵便ではなく役場の兵事係が手で届けており、多くの兵隊が召集されたころには、はがき代はもう2銭以上に上がっていた。コメント欄では、兵隊を使い捨てにする言葉はどこの国の軍隊にもあるという声とともに、「言葉が本物であることと、由来の説明が正しいことは別」という冷静な指摘も目立った。

参考資料

元ソース: 今日知った話:第二次大戦中、日本の召集兵は上官や古参兵から「一銭五厘(英語ではペニー・ポストカード)」と呼ばれていた。彼らの命は、召集令状のはがき代より安いとみなされていたからだ

コメント

  1. Reddit名無しさん より:

    当時は1ドル1円
    ペニーと比べてどうすんだよ

  2. Reddit名無しさん より:

    市井で軍隊とは無縁で平和に暮らしていた人間が突然徴兵されるようなイメージがあるけど
    赤紙は正式には「充員召集令状」と呼ばれるもので予備役に対して送られるもの
    20歳で徴兵検査を受けて2割程度が実際に徴兵され現役兵となって2年間兵役を務めて除隊されたあと7年間予備役となる
    つまり兵役経験があり年間何日間か訓練もしている人間に対して送られる
    紛争や戦争が起こり自分の所属する連隊が出征すると当然自分も召集されることを覚悟するもの