国境まであと180メートルのところで気球が降りてしまい、残された機体は秘密警察に見つかった。それでも彼らはあきらめず、次はその2倍の大きさの気球を縫い上げた——。1979年、東ドイツに暮らす2家族・計8人が、ミシンやバイクのエンジン、プロパンガスのボンベ、自作の火炎放射器を寄せ集めた手作りの熱気球で、西ドイツへの脱出に成功した。
今日の知ってた?
🎈 1979年9月16日、東ドイツの2家族・計8人が、手作りの熱気球で国境を越え、西ドイツへ逃れた。気球の外皮はタフタなどの布およそ1,250平方メートルを縫い合わせたもので、ほかにミシン、送風機を回すバイクのエンジン、プロパンガスのボンベ、そして火炎放射器のような自作のバーナーが使われた。気球が降りたのは西ドイツ・バイエルン州のナイラの近く、国境から約10キロの地点だった。
背景:東西に分かれたドイツと「鉄のカーテン」
第二次世界大戦に敗れたドイツは東西に分けられ、アメリカやイギリスなど西側諸国と結びついた西ドイツと、ソ連の影響下に置かれた東ドイツという2つの国が生まれた。冷戦の時代、ドイツはまさに東西対立の最前線だった。
「鉄のカーテン」とは、冷戦期にヨーロッパを東側と西側に隔てた境界を、下ろされた鉄の幕にたとえた言葉だ。東ドイツでは、国民が西側へ自由に出ていくことは許されていなかった。国境には柵や監視塔が並び、ベルリンでは街を二つに分ける「ベルリンの壁」が築かれた。許可なく国境を越えようとするのは文字どおり命がけで、逃げた本人だけでなく、残された家族が罪に問われることもあった。
国民の暮らしに目を光らせていたのが、東ドイツの秘密警察「シュタージ」(国家保安省)だ。密告者の網を張り巡らせ、市民を細かく監視していたことで知られる。今回の2家族は、そんな国で1年半をかけて、気球での脱出の準備を進めた。ベルリンの壁が崩れる1989年の、ちょうど10年前の出来事である。
もう少し詳しく
1年半がかりの計画。脱出したのは2つの家族の計8人。両家の夫婦と、2歳から15歳までの子ども4人だ。計画の中心になったのは、同じプラスチック工場で働いていた電気技師のペーター・シュトレルツィクと、レンガ職人のギュンター・ヴェッツェルの2人。1978年3月に家族で西へ逃げようと決め、実行までに18か月をかけて準備を進めた。初めはヘリコプターを作ることも考えたが、使えるエンジンが手に入らず、熱気球に切り替えたという。
最初の布は空気が抜けた。布は、東ドイツのあちこちの町で少しずつ買い集めた。大量に買う理由は、キャンプ同好会やヨットクラブで使うのだと説明したという。最初に作った気球は、幅1メートルの綿布を合わせて850メートル分つないだものだった。ところが1978年4月、森の空き地で膨らませようとしても膨らまない。送風機で風を送ってみると、綿の目が粗すぎて空気が抜けてしまうことが分かり、この布は燃やして処分された。元の投稿の「布800メートル」に近い数字は、飛ばなかったこの綿布のものだ。送風機は250ccのバイクのエンジンで長さ1メートルの羽根を回す仕掛けで、音が漏れないよう、東ドイツの国民車トラバントのマフラーが付けてあった。次に空気を通しにくいタフタで作り直すと、今度は布が空気を保ったものの、バーナーの火力が足りない。試行錯誤の末の1979年6月、ペーターはプロパンのボンベを逆さまに取り付けると、12メートルもの炎が出ることを突き止めた。「自作の火炎放射器」とは、このバーナーのことだ。
1回目は国境の180メートル手前で失敗。このころヴェッツェル一家は一度計画から手を引いていて、1979年7月3日の最初の試みに乗ったのは、シュトレルツィク一家の4人だけだった。気球は高度2,000メートル近くまで上がったが、雲の中で布に水滴がついて重くなり、国境まであと約180メートルという地点に降りてしまった。そこは地雷の埋まった国境地帯で、4人は9時間かけて抜け出し、約14キロ歩いて車まで戻った。乗っていた人たちが捕まることはなかったが、置き去りになった気球はその朝のうちにシュタージに見つかり、当局は気球を作った人物を探し始めていたという。
2倍の大きさで作り直す。それでも彼らはあきらめなかった。ヴェッツェル一家も再び加わり、1回目の2倍の大きさの気球を作った。容積およそ4,000立方メートル、直径20メートル、高さ25メートル。布は約1,250平方メートルが必要で、タフタが売り切れると寝具用の布地まで使った。縫ったのはギュンターで、休暇を取って1週間ほどで仕上げている。人が乗るゴンドラは、鉄の枠に鉄板の床を張り、側面の囲いを物干しロープで作っただけのものだった。
火がつき、消え、裂ける。1979年9月16日の午前2時32分、この気球がバート・ローベンシュタイン近くの森の空き地から飛び立った。ところが離陸のとき、ゴンドラをつなぐロープが同時に切れずに傾き、炎が布に当たって火がついた。消火器で消し止めたものの、高度2,000メートルではバーナーの火が何度も消えて、そのたびにマッチで点け直すはめになった。気温は氷点下8度で、ゴンドラには屋根もない。気球は西ドイツ側のレーダーにも映ったが、正体までは分からなかった。東側の国境警備隊も見慣れない物体に気づいてサーチライトを向けたが、もう届かない高さだった。最後には気球が裂け、プロパンガスも尽きてしまう。
「ここは西側ですか?」8人が降りたのは午前3時ごろ。飛び立ってから28分後のことで、場所は西ドイツ・バイエルン州のナイラという町の近く、国境から10キロほど入った所だった。女性と子どもたちを茂みに隠し、男2人が歩いて様子を見に行く。近づいてきた車の前に出ると、降りてきたのは西ドイツの警察官2人だった。自分たちは西側にたどり着けたのかと尋ねると、警官たちは驚いて「当たり前だろう、ほかにどこだと言うんだ」と答えたと、ヴェッツェルは自身のサイトに書いている。けがについては資料によって食い違う。英語版ウィキペディアなどは、ギュンターが着地のときに脚を折ったとしているが、本人の手記では、外れた錨が15歳のフランク・シュトレルツィクの頭に当たって顔から血が出たものの軽いけがで、全員が自分の力でゴンドラから降りたとされている。
残された家族への報復。東ドイツに残ったペーターの兄弟エーリッヒは、西ドイツのテレビ局ZDFのニュースで脱出を知り、着陸からわずか3時間後、ポツダムの自宅で逮捕された。亡命者の家族を逮捕するのは、ほかの人に脱出を思いとどまらせるための決まったやり方だった。エーリッヒは「逃亡を手助けした罪」に問われ、ペーターのきょうだいであるマリアとその夫も同じ罪に問われて、2年半の刑を言い渡された。3人はのちに、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの支援を受けて釈放されている。
国境の締めつけと、2家族のその後。この脱出のあと、東ドイツは国境の警備をさらに固め、国境近くの小さな飛行場を閉じた。プロパンガスのボンベは登録制になり、気球が作れるほどの量の布も買えなくなった。2家族は初めナイラに住み、ギュンターは自動車整備士として、ペーターはテレビの修理店を開いて暮らしを立てた。ところが西側に来てもシュタージの密偵がつきまとい、シュトレルツィク一家は1985年にスイスへ移る。東西ドイツが統一された1990年には、東ドイツ時代に住んでいたペスネックへ戻った。ペーターは2017年に74歳で亡くなっている。
気球は博物館に、物語は映画に。8人を運んだ気球はナイラ市に寄贈され、2017年にはレーゲンスブルクに新しく建つバイエルン史博物館(ハウス・デア・バイエリシェン・ゲシヒテ)の常設展に貸し出されることになった。独ゾンタークスブラット紙によると、展示に向けて約1,300平方メートルの外皮が専門家の手で洗浄されたという。この出来事は映画にもなった。1982年にはウォルト・ディズニーのスタジオが『気球の8人』(原題:Night Crossing)を、2018年にはミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督が『バルーン 奇蹟の脱出飛行』を送り出している。ヘルビヒ監督はディズニー版のリメイク権を得て当事者に取材しており、この作品は日本でも2020年7月10日に公開された。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
1年半かけて準備して、1回目は国境まであと180メートルのところで降りてしまう。自分ならそこで完全に心が折れてる。そこから倍の大きさの気球を作り直すんだから、執念がすごい。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
ちょっと待って、1回目の気球はシュタージに見つかってるんだよね? あれだけ監視が厳しい国で、秘密警察に気球を押さえられたあと、どうやって2機目を作れたんだろう。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
1回目で本人たちが捕まったわけじゃないよ。見つかったのは置き去りにされた気球だけで、誰が作ったのかまではバレてなかった。ちゃんと読めば書いてある。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
「ちゃんと読め」だって? 悪いけど、ここは何も読まずに好き勝手な憶測を並べて盛り上がる場所なんでね。
5. 海外の名無しさん(>>2への返信)
普段から目はつけられてたと思うよ。でも布もボンベも、何か月もかけて少しずつ集めれば怪しまれにくい。集まるときも人目を避けていただろうし、シュタージだって24時間ずっと張り付いてたわけじゃない。その隙をついて、飛び立つ直前まで隠し通したんだろうね。
6. 海外の名無しさん
材料の最後に「自作の火炎放射器」って出てきた時点で、この話を最後まで読むことが確定した。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
ミシンにバイクのエンジンにプロパンのボンベに火炎放射器。廃品置き場の部品で乗り物を作って競うテレビ番組があったけど、あれの命がけ版だよ。しかもゴンドラの囲いは物干しロープって……。
8. 海外の名無しさん
高度2,000メートルでバーナーの火が消えて、マッチで点け直したっていう一文だけで手に汗握った。自分だったら手が震えて、マッチを箱ごと下に落としてると思う。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
離陸のときには気球に火がつくし、上空では何度も火が消えるし、最後は気球が裂けてプロパンも尽きる。脚を折った人は出たけど、それでも8人そろって西にたどり着けたんだから奇跡に近いよ。
※注:脚の骨折は英語版ウィキペディアなどに書かれている話で、ヴェッツェル本人の手記では、全員が自分の力でゴンドラから降り、けがは錨が当たった少年の軽い傷だけだったとされている。
10. 海外の名無しさん
降りたあとで、警察に「ここは西側ですか?」って確かめたんだよね。返ってきたのは「当たり前だろ、ほかにどこだって言うんだ」だったらしい。わかりきった質問でも、自分だって安心したくて絶対に聞く。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
そもそも全然わかりきってないと思う。夜中に国境を越えて、行ったこともない国の何もない場所に降りたんだから。国境の先に「ようこそ西ドイツへ」なんて大きな看板が立ってるわけじゃない。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
しかも言葉はどっちも同じドイツ語で、暗いから制服の違いもよくわからない。着陸後に身を隠していた2人は、やって来た車が東のものと違うのに気づいて、ようやく出ていったって話だよ。
13. 海外の名無しさん
東ドイツ側はこのあとどう出たんだろう。手作りの気球で2回も国境越えに挑まれたら、布やガスボンベを買うだけで目をつけられるようになりそうだけど。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
売り方がどう変わったかは知らないけど、残された家族への仕打ちは早かった。ペーターの兄弟は西ドイツのテレビで脱出を知って、着陸の3時間後にはポツダムの自宅で逮捕されてる。亡命者の家族を捕まえるのは、ほかの人に真似させないための決まったやり方だったらしい。きょうだいのマリアとその夫も、2年半の刑を言い渡されてる。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
着陸から3時間って早すぎる。脱出した本人たちは、自分たちが逃げたら家族がこうなるってわかってたのかな。そう思うと、痛快な脱出劇ってだけでは済まなくなる。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
わかってはいたんだと思う。ただ、1回目の気球が見つかって、当局は作った人間を探してた。このまま待っていても、いずれ自分たちにたどり着かれる。もう選べる道はほとんど残ってなかったんじゃないかな。
17. 海外の名無しさん
昔アメリカ陸軍にいたころ、国境の壁沿いを見学したことがある。西ドイツの人は壁のそばを普通に散歩していて、それがなんだか不思議だった。東側にも壁のすぐ近くに家が建っている場所があって、ある女性が窓の戸を開けて俺たちを見た瞬間、ぎょっとした顔でバタンと閉めたんだ。俺たちが嫌いだったというより、西側の人間と通じていると疑われたくなかったんだと思う。すぐ近くに監視塔があったから。
18. 海外の名無しさん
手作りの気球に家族を乗せてまで国民が逃げ出していく国って、その時点でもうかなりまずい状態だと思う。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
国民を外に出さないために壁まで建てなきゃいけなかった時点で、とっくにその段階は過ぎてたよ。
20. 海外の名無しさん
この話は映画にもなってるよね。ディズニーが1982年に『気球の8人』として映画化してて、2018年にはミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督の『バルーン 奇蹟の脱出飛行』でもう一度映像化されてる。どっちもハラハラしながら観た。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
ドイツ語の授業で映画版を観たよ。冒頭で奥さんがオレンジを買うのをやめる場面があって、東ドイツではオレンジがどれだけ高かったのか、先生がわざわざ説明してくれた。言われなかったら、ただの買い物の場面だと思って見過ごしてた。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
みんなオレンジのない暮らしがどんなものか忘れちゃってるんだよ……と言おうとしたけど、よく考えたら自分はこの25年でオレンジを2個くらいしか食べてない。忘れるどころか現在進行形だった。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
25年でオレンジ2個って、大航海時代の船乗りかよ。壊血病になる前に、何でもいいからビタミンCをとってくれ。
24. 海外の名無しさん
うちの子が寝る前に毎晩「読んで」とせがんでくる『Flight for Freedom』って英語の本が、まさにこの話。子ども向けにわかりやすく書かれていて、歴史好きの子……というより、気球好きの子にはたまらないみたい。
25. 海外の名無しさん
「ここは西側ですか?」と聞いてから答えが返ってくるまでの数秒は、どれだけ長く感じたんだろう。1年半かけて作った気球と、東に残してきた家族のことを考えると、あの質問ひとつの重さがまるで違って見える。
まとめ
1979年、東ドイツの2家族8人は、1年半の準備と一度の失敗を経て、手作りの熱気球で西ドイツへたどり着いた。コメント欄では、布800メートル分と自作の火炎放射器で空へ飛び立った執念や、高度2,000メートルでマッチを擦る場面に驚く声が目立った。一方で、残された家族が着陸の数時間後に逮捕され、刑を言い渡されたことに触れ、痛快な脱出劇の裏側を思う声もあった。
参考資料
- ギュンター・ヴェッツェル(脱出した本人)のサイト「脱出の夜」(ドイツ語)
- ゾンタークスブラット「ナイラの東ドイツ脱出気球、レーゲンスブルクの博物館で展示へ」(2017年・ドイツ語)
- 映画.com「東西冷戦下、手作りの気球で西ドイツへの脱出を試みた家族の実話 7月公開&予告完成」(2020年・日本語)
- 英語版ウィキペディア「東ドイツの気球による脱出」(英語)
元ソース: 1979年、東ドイツの8人が、合成繊維の布800メートル分、ミシン、バイクのエンジン、プロパンガスのボンベ、自作の火炎放射器を寄せ集めて作った手作りの熱気球で、鉄のカーテンを越えて脱出した


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