「終身禁錮の男が、板を肩に担いで要塞の門から歩いて出た」およそ6年半後に皇帝ナポレオン3世となる囚人は、見張りの前をどう通り抜けたのか…?

「終身禁錮の男が、板を肩に担いで要塞の門から歩いて出た」およそ6年半後に皇帝ナポレオン3世となる囚人は、見張りの前をどう通り抜けたのか…? 歴史

1846年5月、フランス北部のアム要塞で、終身禁錮の刑に服していた男が、改修工事の作業員に変装し、顔を隠すための板を肩に担いで、門から歩いて出ていきました。男の名はルイ=ナポレオン・ボナパルト。あのナポレオンの甥で、脱走からおよそ6年半後に皇帝ナポレオン3世となる人物です。海外掲示板では「作業着と脚立があれば、たいていの場所には入れる」と、身に覚えのある人たちの体験談が次々に寄せられていました。

※注:ここでいう「ナポレオン」は、19世紀はじめにフランス皇帝となったナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)のことです。ルイ=ナポレオンはその弟ルイの息子で、甥にあたります。当時のフランスは政体が何度も入れ替わりました。1815年にナポレオン1世の帝政が終わると王政が復活し、1830年からは国王ルイ=フィリップの「七月王政」、1848年の二月革命のあとは「第二共和政」、1852年からはナポレオン3世の「第二帝政」と続きます。

※注:元スレッドのタイトルは「6年後にフランス皇帝になった」としていますが、脱走は1846年5月、皇帝への即位は1852年12月なので、正確にはおよそ6年半後です。

今日の知ってた?

🏰 ルイ=ナポレオン・ボナパルト(のちのナポレオン3世、1808〜1873年)は、1840年に蜂起に失敗して終身禁錮の判決を受け、フランス北部ソンム県のアム要塞に入れられた。

🚪 1846年5月25日、住まいの改修工事に来ていた作業員に変装し、板を肩に担いで顔を隠しながら、門を歩いて出た。収監からおよそ5年半後のこと。

🚂 馬車と鉄道でベルギーへ抜け、2日後の5月27日にロンドンに着いた。

🗳️ 1848年の二月革命のあとフランスに戻り、同年12月の大統領選挙で、投じられた票のおよそ4分の3を得て当選した。

👑 1851年12月2日にクーデタを起こし、1852年12月2日に皇帝ナポレオン3世となった。脱走からおよそ6年半後のこと。

背景:ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンとは

ルイ=ナポレオン・ボナパルトは1808年、パリで生まれました。父はナポレオン1世の弟でオランダ王だったルイ・ボナパルト、母はオルタンス・ド・ボアルネです。1815年に伯父の帝政が倒れると一家はフランスを離れ、彼は母とともに亡命先のスイスなどで育ちました。1832年、ナポレオン1世の息子(ナポレオン2世)がウィーンで若くして亡くなります。これ以降、ルイ=ナポレオンは自分こそボナパルト家の大義を継ぐ者だと考え、帝政の復活を目指して動きはじめました。

最初の試みは1836年10月、フランス東部のストラスブールでした。駐屯する砲兵連隊を味方につけてパリへ進軍するつもりでしたが、蜂起は2時間ほどで鎮圧され、本人も捕まります。国王ルイ=フィリップは公開の裁判を避け、彼を船でアメリカへ送り出しました。その後ヨーロッパに戻ったルイ=ナポレオンは、1838年からロンドンで暮らします。

2度目は1840年8月です。この年、ナポレオン1世の遺骸をセントヘレナ島からフランスへ迎える計画が発表され、国内でナポレオンの人気が高まっていました。ルイ=ナポレオンはロンドンで蒸気船を借り、武器と制服、印刷した宣言文を積み込んで、50〜60人ほどの仲間と英仏海峡を渡ります(人数は資料によって異なります)。港町ブローニュの近くに上陸し、駐屯する連隊に蜂起を呼びかけましたが、応じる兵士はいませんでした。一行は取り囲まれて捕まり、死傷者も出ています。英仏の新聞はこの企てを笑いものにしました。

裁判は貴族院(当時の上院)で、1840年9月28日から10月6日まで開かれました。ルイ=ナポレオンは法廷で「私はあなたがたの前で、ひとつの原理、ひとつの大義、ひとつの敗北を代表しています。原理とは国民主権、大義とは帝国、敗北とはワーテルローです」と述べたと伝えられます。判決は終身禁錮。10月7日、彼はパリの北、ソンム県アムの要塞に入れられました。32歳のときです。

もう少し詳しく

獄中は「大学」だった。アム要塞での暮らしは、囚人としてはかなり恵まれていました。いくつかの部屋からなる住まいが用意され、外との手紙のやりとりも、面会も、本の取り寄せも認められています。化学の実験をし、馬に乗り、城壁の上で庭いじりもしていたそうです。彼はこの時間を読書と執筆にあて、各地の新聞や雑誌に記事を送りました。1844年には、労働者の貧困とその対策を論じた『貧困の絶滅』を出しています。のちに本人は「アムの監獄は私の大学だった」と語ったとされ、この時期は「アム大学」とも呼ばれます。一方で、1840年12月に伯父ナポレオン1世の遺骸がパリに迎えられ、大勢の人が集まったときも、彼は獄中でそれを読むことしかできませんでした。

なぜ逃げたのか。きっかけは父の病でした。イタリアにいた父ルイ・ボナパルトの死期が近いと知った彼は、一時的な出獄を求めましたが、認められなかったとされます。脱走の直後に、獄中から寄稿していた新聞の編集者に宛てて書いたとされる手紙には、「この世でもう一度父に会いたいという願いが、これまでで最も大胆な企てに私を踏み切らせました」とあります。変装したまま捕まって笑いものになることだけは耐えられなかった、とも書いています。

脱走の一部始終。同じ手紙が、当日の様子を伝えています。要塞には400人の兵がいて、毎日60人が警備に立ち、彼の住まいの扉には看守が詰めていました。ちょうどそのころ、彼の住む建物でいくつかの部屋の改修工事が行われており、作業員の格好をすれば紛れ込めると考えたのです。従者のシャルル・テランが、作業用の上っ張りと木靴を用意しました。ルイ=ナポレオンは口ひげを剃り落とし、板を1枚、肩に担ぎます。この板は自室の本棚の棚板だったとも伝えられます。

1846年5月25日、月曜日の朝。作業員たちが仕事を始めると、テランが彼らに飲み物をふるまって一室に引きつけ、医師のアンリ・コノーが看守の話し相手になって注意をそらしました。ルイ=ナポレオンは部屋を出ます。階段の下で看守と鉢合わせしましたが、板を顔の前にかざしてやり過ごしました。手紙にはこうあります。「最初の歩哨の前を通るとき、パイプを落としてしまったが、立ち止まって破片を拾った」。当直の士官は手紙を読んでいて気づかず、門の兵士たちは彼の身なりを不思議そうに見ていましたが、門は開きました。外に出たところで、向こうから来た2人の作業員にじろじろ見られます。もう逃げきれないと思ったそのとき、2人は「ああ、ベルトゥーか」と声を上げました。仲間の誰かと見間違えたのです。

要塞を出た彼は、サン=カンタンへ向かう街道を歩き、あとから馬車で追いついたテランと合流しました。作業着を脱いで町を抜け、馬車を乗り継いでヴァランシエンヌへ。そこから鉄道でベルギーに入っています。用意していたベルギーの旅券は、一度も見せろと言われなかったそうです。その間、要塞に残ったコノー医師は、ルイ=ナポレオンは病気で寝ていると言って時間を稼ぎました。寝台に人形を置いていたとも伝えられます。ルイ=ナポレオンは5月27日にロンドンに着きましたが、父の最期には間に合いませんでした。父は同じ年の7月に亡くなっています。

「バダンゲ」というあだ名。のちに皇帝となった彼を、反対派は「バダンゲ」と呼んでからかいました。よく言われる由来は、脱走のときに服を借りた作業員の名前だ、というものです。ただし、はっきりしたことは分かっていません。その作業員は資料によって石工とも塗装工とも書かれ、本名はパンゲで「バダンゲ」はそのあだ名だったとする説明や、名前をもじったのは後の風刺画家たちだとする説明があります。作家のゴンクール兄弟は、画家ポール・ガヴァルニが1840年に風刺新聞に載せた、彼とは無関係の漫画の説明文がもとだと書いています。本人の手紙に出てくる名前も、先に見たとおり「ベルトゥー」です。

脱走から皇帝まで。ロンドンに戻って2年近くたった1848年2月、パリで革命が起き、七月王政が倒れて第二共和政が生まれます。ルイ=ナポレオンは9月の選挙で議員に選ばれて帰国し、12月10日の大統領選挙に立候補しました。結果は、投じられた票のおよそ4分の3を得る圧勝。脱走から2年半後のことです。ところが当時の憲法では大統領の任期は4年で、続けて再選されることはできません。憲法を改める試みも、議会で必要な賛成に届きませんでした。彼は1851年12月2日、伯父ナポレオン1世の戴冠式とアウステルリッツの勝利の記念日に、クーデタを起こして議会を解散させます。パリなどで起きた抵抗は軍に鎮圧され、多くの死者と逮捕者が出ました。翌1852年11月の国民投票で帝政の復活が賛成多数とされ、クーデタからちょうど1年後の12月2日、彼は「フランス人の皇帝ナポレオン3世」となりました。

第二帝政は1870年まで続きます。その間にパリは大きく作り替えられ、鉄道網も広がりました。しかし1870年、プロイセンとの戦争(普仏戦争)でフランス軍は敗れ、ナポレオン3世自身がセダンで捕虜になります。帝政は倒れ、彼は亡命先のイギリスで1873年に亡くなりました。

アム要塞のその後。中世に築かれたアム要塞は、のちに国の監獄として使われ、名の知れた囚人が何人も収容されてきました。1851年のクーデタのあとには、ルイ=ナポレオンに反対した議員や将軍の一部が、ここに入れられています。要塞は第一次世界大戦中の1917年3月、ドイツ軍によって爆破されました。いまは入口の塔と城壁の一部が残るだけです。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
反射ベストを着て脚立を担げば、たいていの場所には入れる。180年たっても、この手口だけは変わらないんだな。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
大学時代、建物の管理人の助手というアルバイトをしてた。クリップボードと大きな鍵束を持っているだけで、どこで何をしていても誰にも何も言われない。「大きなハンマーで壁を壊しはじめても、何してるのと聞かれて『壁を壊してます』と答えれば納得してもらえるな」と冗談を言ってたくらいだよ。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
そのやりとり、目に浮かぶ。「いや、それは見れば分かるよ」「じゃあなんで聞いたんだよ」で終わるやつだ。

4. 海外の名無しさん(>>1への返信)
これを仕事にしている人たちもいるよ。「侵入テスト」といって、会社や施設から依頼を受けて、部外者がどこまで入り込めるかを実際に試す専門家。サーバー室や浄水場まで対象になる。結局いちばん効くのは「ここにいて当然」という顔とクリップボードなんだそうだ。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
昔その仕事で現場に出てた。オフィスに入り込めたら、社内のIT担当のふりをして、みんなのパソコンの不調を直して回るのが好きだったな。そのついでに、検査用の小さな機器をこっそりパソコンにつなぐわけ。身分証も見せずに直してあげたプリンターの数は、自分でも呆れるくらいある。

6. 海外の名無しさん(>>1への返信)
冗談に聞こえるけど本当なんだよ。自転車レースの手伝いで、交差点に立って旗を振る係をやったことがある。車が来たら選手を止めるだけの役目なのに、車のほうが止まって、窓を開けて話しかけてきて、こっちが手で合図するまで待ってるんだ。反射ベストを着てオレンジの旗を持ってるだけで、何の権限もないのに。

7. 海外の名無しさん
似た話だと、2001年にロサンゼルスの芸術家が作業員に変装して、高速道路の案内標識に足りなかった表示を、真っ昼間に自分で付け足した件があるよね。本物そっくりに作ってあったから、9か月たって本人が明かすまで、当局は気づかなかった。
※ 芸術家リチャード・アンクロムの件。罪には問われず、2009年に標識が新しくなったときも、彼が足した表示は引き継がれた。

8. 海外の名無しさん
皮肉なことに、その179年後、ほぼ同じ手口でフランス王室・皇室ゆかりの宝飾品が盗まれたんだよな。2025年のルーヴル美術館の事件。犯人たちは黄色とオレンジのベストを着て、工事の作業員を装っていた。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
しかも盗まれた中には、ウジェニー皇后のティアラやブローチが入ってる。ナポレオン3世の奥さんだよ。妙なところで話がつながるものだね。

10. 海外の名無しさん(>>8への返信)
あれからほぼ2世紀、ナポレオン3世はいまだに逃走中というわけだ。フランスの司法はいったい何をやってるんだ。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
ルパン三世みたいなものだな。宝石がらみの大仕事のあと、いつまでたっても捕まらない。「三世」はだいたいそうなんだよ。

12. 海外の名無しさん
そもそもなぜ終身禁錮だったかというと、政府を倒そうとしたから。ただし連れていったのは50〜60人ほど。船で海岸に乗りつけたものの、あてにしていた兵隊は誰も味方につかず、取り囲まれてあっさり全員捕まった。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
伯父さんのほうとは大違いだね。初代ナポレオンはエルバ島を抜け出してパリへ向かう途中、自分を止めに来た部隊を次々と味方につけてしまったのに。

14. 海外の名無しさん(>>12への返信)
しかもこれ、2回目なんだよね。その4年ほど前にもストラスブールで軍の部隊を巻き込んで蜂起しようとして、2時間ほどで鎮圧されてる。そのときは裁判にもかけられず、アメリカ行きの船に乗せられただけで済んだ。

15. 海外の名無しさん
「小さいほうのナポレオン」とよく笑いものにされるし、実際そのとおりではあるんだけど、成し遂げたことはかなり多いんだよ。最後の締めくくり方がひどかっただけで。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
内政ではいい仕事をたくさんしてる。いまのパリの街並みは、ほぼこの人の時代に作られたものだし。ただ、戦争で国を率いるとなると…チョコレートでできたティーポットくらいにしか役に立たなかった。
※ 知事オスマンに進めさせたパリの大改造のこと。1870年の普仏戦争では、皇帝自身がセダンで捕虜になった。

17. 海外の名無しさん
ナポレオンに2世と3世がいたこと、いつも忘れてしまう。1世の印象が強すぎるんだよね。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
2世は1世の息子で、皇帝とされたのは1815年のほんの2週間ほど、それも4歳のとき。実際に国を治めたことは一度もないんだ。それでも甥は彼を数に入れて、自分を「3世」と名乗った。

19. 海外の名無しさん
「6年後に皇帝」と書くと静かに待っていたみたいだけど、中身はとんでもない急展開だよ。1846年に脱走してイギリスへ。1848年に革命で王政が倒れて帰国し、その年のうちに大統領選で圧勝。1851年にクーデタで議会を解散。1852年に国民投票を経て皇帝。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
その1852年の国民投票、賛成が97%なんだよね。当局が印刷したのは「賛成」の投票用紙だけで、反対したい人は自分で用紙を用意しなければならなかったそうだ。そりゃそういう数字になる。

21. 海外の名無しさん
みんな忘れがちだけど、フランスは革命のあとも何度も君主制に戻ってるんだよね。皇帝、王様、また王様、そしてまた皇帝。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
まあ、この人だって力ずくで政権を取りに行くこと3回、その3回目でようやく成功したわけだしね。フランスも本人も、粘り強いというか、懲りないというか。

23. 海外の名無しさん
細かいことを言うと、称号は「フランス皇帝」じゃなくて「フランス人の皇帝」。それと、大統領時代は「皇子大統領(プランス・プレジダン)」と呼ばれていた。この肩書き、ちょっと格好いいと思う。

24. 海外の名無しさん
板を1枚担いで顔を隠して門を通るなんて、漫画みたいな話だ。しかも本人の手紙によると、最初の歩哨の前でパイプを落として、わざわざ立ち止まって破片を拾ったらしい。度胸がありすぎる。

25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
この脱走のせいで、皇帝になってからも反対派に「バダンゲ」というあだ名で呼ばれ続けたんだよね。服を借りた作業員の名前だ、とよく言われてる。
※ あだ名の由来には別の説もあり、はっきりしていない。

まとめ

終身禁錮の男が、板を肩に担いで要塞の門から歩いて出た——1846年のこの脱走は、2度の蜂起に失敗して笑いものになっていた人物が、およそ6年半後に皇帝となるまでの出発点でした。コメント欄は「作業着とクリップボードがあればどこにでも入れる」という体験談や、2025年のルーヴル美術館の事件への連想でにぎわい、「小さいほうのナポレオン」をどう評価するかという話にも広がっていました。

元ソース: ナポレオン3世は、終身刑で服役していた要塞から、作業員に変装し、顔を隠すために大きな板を肩に担いで正門を歩いて出るという方法で脱走した。その6年後、彼はフランス皇帝になった

コメント

  1. Reddit名無しさん says:

    ナポレオンがファーストネームなのは何故だろ?
    ナポレオンⅢ世というとパリ大改造、建築史を習わないと知らんか。