「イベリアから中国まで」広がったのに14世紀ごろ消えた宗教…マニ教の絵は日本で「六道図」と呼ばれ、奈良に残っていた

「イベリアから中国まで」広がったのに14世紀ごろ消えた宗教…マニ教の絵は日本で「六道図」と呼ばれ、奈良に残っていた 歴史

西はイベリア半島から東は中国まで、3世紀に生まれてユーラシアの端から端へ広がった宗教がありました。マニ教です。信者は14世紀ごろまでに姿を消しましたが、その絵は海を渡って日本に伝わり、仏教の絵として長く受け継がれていました。正体が分かってきたのは、ここ20年ほどのことです。

今日の知ってた?

📏 マニ教は、3世紀のイラン系の宗教家マニが開いた宗教。ゾロアスター教・キリスト教・仏教・グノーシス主義の要素をあわせ持ち、イベリアから中国まで教会と経典が広がった

🕯️ 西方では5〜6世紀にほぼ消え、中国でも1370年に明が禁止。14世紀の終わりまでに仏教や道教に溶け込んだとされる

🇯🇵 中国南部で描かれたマニ教の絵が少なくとも8点、日本に残っていた。奈良・大和文華館の「六道図」や、山梨・棲雲寺の十字架を持つマニ像など

背景:マニ教とはどんな宗教だったのか

開祖のマニは216年、当時のペルシャの都クテシフォン(現在のイラク)の周辺に生まれたイラン系の人物で、亡くなったのは276〜277年ごろとされます。マニが説いたのは、世界を光と闇の二つの原理の争いとしてとらえる教えでした。信者は、修道者にあたる男女の「選ばれた者」と、それを支える在家の「聞く者」に分かれていました。選ばれた者には、酒と肉を口にすること、作物を収穫すること、食事を作ることが禁じられていました。

この宗教の大きな特徴は、広がる先々の言葉と宗教の衣をまとったことです。ローマ帝国の側ではキリスト教に近い姿で語られ、東へ進むと仏教や道教の言葉で語られました。中央アジアでは、シルクロードの商人の言葉でもあったソグド語が聖職者の主な言葉となり、のちに教団の拠点はサマルカンドに移ります。

ローマ帝国では、302年にディオクレティアヌス帝がマニ教を取り締まる法令を出しています。キリスト教の大教父アウグスティヌス(354〜430年)も、もとはマニ教の信者で、387年にキリスト教へ改宗しました。ただし「キリスト教のライバル」という言い方には、少し注意が要ります。西ヨーロッパでは5世紀にほぼ姿を消し、東ローマの領内でも6世紀に消えました。ヨーロッパで長く張り合い続けたわけではなく、この宗教が本当に長く生きたのは、むしろ東方でした。

東では、763年に遊牧国家ウイグルの国教になるという大きな転機を迎えます。中国には6世紀後半にはすでに知られていたとされ、唐の時代にはウイグルの後ろ盾もありました。しかし840年にウイグルが崩壊すると、ほどなく唐の朝廷に禁じられます。その後は福建など中国南部で命脈を保ち、明の洪武帝が1370年に禁令を出したのち、14世紀の終わりまでに仏教や道教に吸収されていったとみられています。

もう少し詳しく

世界でただ一つとされるマニの石像。福建省泉州市の南15キロほどの丘のふもとに、草庵(そうあん)という寺があります。泉州市の紹介によると、10〜11世紀に草ぶきの小屋として建てられ、1339年に石造りに改められました。同じ年に彫られたマニの像は、市が「世界で唯一現存するマニ像」と説明しているものです。地元では「光の仏」と呼ばれ、蓮の台座に座る姿は一見すると仏像です。1979年には、周辺から「明教会」と記した椀が見つかり、北宋の時代のものと考えられています。マニ教は中国で「明教」とも呼ばれました。金庸の武侠小説に反乱と結びついた形で出てくるのも、この流れです(シックストーンの2021年の記事による)。

日本に残っていた「六道図」。奈良市の大和文華館にある絹の掛け軸は、日本で「六道図」と呼ばれてきました。仏教の六道輪廻を描いたものと受け止められたためです。しかし研究が進み、マニの像の前で行われる説法や、死後の裁きに光の乙女が割って入る場面などを描いた、マニ教の絵だと分かりました。京都大学の吉田豊教授の研究課題の概要によれば、日本に伝わる中国絵画のうち少なくとも8点がマニ教のものと判明しています。作風からみて14世紀ごろに華南のマニ教徒が描いたもので、仏教美術として日本にもたらされたと考えられています。制作年代には13世紀とする見方もあり、研究者の間で幅があります。

十字架を持つマニ像が山梨に。山梨県甲州市の棲雲寺には「絹本著色十字架捧持マニ像」が伝わり、2013年に県の文化財に指定されました。蓮華座に座るマニが、正面を向いて十字架を捧げ持つ絵です。県の説明では、十字架はネストリウス派キリスト教のもので、正面向きの礼拝像は現存資料の中で唯一とされています。伝来については二つの可能性が挙げられています。一つは、寺を開いた業海本浄が1326年に元から帰国した際に持ち帰ったという説。もう一つは、キリシタン大名の有馬晴信が九州でキリスト像として入手し、1612年に甲州へ移ったとき持参したという説です。どちらが正しいかはともかく、ユーラシアを渡った宗教の絵が、日本の山あいの寺にたどり着いたことになります。

相次いだ発見。2010年には、日本の個人蔵の絵がマニ教の宇宙を描いた図だと吉田教授らのチームが確認し、新聞でも報じられました。十の天と八層の大地を描いたもので、三つに分かれて残っています。2019年には大阪の藤田美術館が持つ像が、奈良新聞で「マニ教始祖 独尊像 世界で初確認」と報じられ、奈良国立博物館の特別展で公開されました。

キュウリの話はどこから来たのか。海外の反応に出てくる「キュウリには太陽の光が入っている」という話には、下敷きがあります。マニ教では、植物などに閉じ込められた光を、選ばれた者が食べることで解き放つと考えられていました。アウグスティヌスは批判の書で、なぜ黄色いメロンを神の宝とみなすのかと問い、人間よりキュウリに慈悲深いと皮肉っています。ただ、これは信仰を離れた論敵が書いたものなので、信者の実際の考えそのままとして読むには注意が必要です。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
マニ教の文書を翻訳するプロジェクトにいた友人がいてね。「ここの連中、やたらキュウリを食うから隠れマニ教徒じゃないかと思う」って言うんだ。聞けば、マニ教ではキュウリに太陽の光が入っていて体にいいとされていたんだとか。真っ先にスウィフトの『ガリヴァー旅行記』を思い出したよ。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
スウィフトならネタにしていてもおかしくない。あの本は風刺文学の頂点のひとつだし、キュウリから日光を取り出す研究の話も実際に出てくるからね。

3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
じゃあ、あの有名な曲の「太陽の上を歩いてる、いい気分」って、キュウリの上を歩いてる歌だったのか。頭の中が大変なことになった。

4. 海外の名無しさん
聖アウグスティヌスも、キリスト教に改宗する前は十年ほどマニ教の信者だったんだよね。あの大教父の若いころがそれだと知ったときは驚いた。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
彼が持ち込んだ考え方は多いと思う。アウグスティヌスはカトリックの土台だし、宗教改革も彼の神学に戻ろうとした面がある。予定説の「救われる者は最初から決まっている」にマニ教の面影を見る人もいるくらい。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
逆の効果のほうが大きかったと思うな。アウグスティヌスはマニ教への反論としてキリスト教を語った人で、『告白』でもかなり手厳しく書いている。悪を善の欠如とみる彼の考え方は、マニ教の二元論とは正反対だよ。

7. 海外の名無しさん(>>5への返信)
「選ばれた者だけが救われる」という話は新約聖書の手紙にも出てくる。どちらかがどちらかを受け継いだというより、当時の地中海世界に広くあった考えなんじゃないかな。

8. 海外の名無しさん
言葉の話を足すと、スペインでは「マニケオ」がわりと普通の形容詞なんだ。物事を善と悪の二つに単純化する人や議論を批判するときに使う。「いい映画だった。よくある善玉悪玉のマニ教的なやつじゃなくて」みたいに。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
フランス語でも同じ使い方をするよ。論評や社説で「それはマニ教的だ」と書いてあるのをよく見かける。宗教は消えたのに形容詞だけ生き残っているのが面白い。

10. 海外の名無しさん(>>8への返信)
英語でも昔はもっと使われていた。「マニ教的な外交政策」みたいな批判をよく聞いたし、ブッシュ政権に向かってブレジンスキーがそう言ったはず。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
書き言葉でしか見たことがなくて、読み方を調べたら「マニキーアン」だった。ずっと頭の中でチの音で読んでいたので恥ずかしい。

12. 海外の名無しさん(>>10への返信)
今でも白黒でしか物事を見ない態度を指して使っているよ。この言葉自体は廃れてきたけど、二択で人を仕分ける考え方のほうはむしろ全盛期だと思う。

13. 海外の名無しさん
最後の名残は中国南部のいくつかの村で、マニが地元の祖先神のような形でまつられているって話を読んだことがある。あれだけ広がった宗教の終点がそこなのかと思うと、ちょっと感慨深い。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
それは少しロマンを盛りすぎかも。中国の記録では元の末から明の初めに消えていて、教えや儀礼の一部が民間信仰に吸収された程度。泉州の草庵に行ったことがあるけど、地元の人にとっては普通の仏教のお寺だったよ。

15. 海外の名無しさん(>>13への返信)
妻が福建の出身なんだけど、信者が今もいるという証拠はないね。お寺も普通の寺として運営されている。福建の人は、どんな宗教の建物でもとりあえず手を合わせるような、おおらかなところがあるし。

16. 海外の名無しさん(>>13への返信)
マニが仏になったわけだ。考えてみると、それって仏教の目標そのものなのでは。遠回りにもほどがあるけど、最後はちゃんとたどり着いたことになる。

17. 海外の名無しさん
今も信者がいる宗教だと思っていたんだけど、調べたらマンダ教と混同していた。あちらは洗礼者ヨハネを重んじる宗教で、イラクやイランあたりに今も信者がいるんだって。名前が似すぎている。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
マンダ教とマニ教は本当によく間違えられるよね。マンダ教徒はコーランに出てくる「サービア教徒」にあたるという見方もあって、そちらも調べると面白いよ。

19. 海外の名無しさん
ヨーロッパでキリスト教と並ぶ宗教があったなんて、どうやって成り立っていたんだろう。教会はそういう競争にものすごく厳しかったはずなのに。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
地中海ではごく小さな存在だったから、「張り合った」というのは言いすぎだと思う。アジアでは14世紀まで続いたけど、ヨーロッパではずっと早くに消えていて、競争相手と言えた時期はかなり短いよ。

21. 海外の名無しさん(>>19への返信)
教えが難解で段階もあるし、最上位の人たちは結婚も子どもも避ける方向だったとすれば、広がりに限界はあったのかも。とはいえ千年以上続いたんだから、十分に大したものだと思うけどね。

22. 海外の名無しさん
シルクロードそのものみたいな宗教だと思う。行く先々の要素が地層みたいに重なっていて、どの地点の文化を通ったのかがそのまま教えに残っている。地図を見ながら読むと、歴史の授業よりずっと面白い。

まとめ

マニ教はイベリアから中国まで広がり、14世紀ごろに姿を消しました。その足跡は泉州の石像と、日本に伝わった絵に残っています。コメント欄はキュウリの話とアウグスティヌスで盛り上がる一方、「ヨーロッパで張り合ったというのは言いすぎ」「最後の信者の村という話は美化では」と冷静な声も出ていました。宗教が消えたあとも「善か悪か」を表す言葉だけが欧米の言語に残り、絵は別の名前で日本に残っていたというのが、なんとも不思議な話です。

参考資料

元ソース: イベリアから中国まで広がり、14世紀ごろに消えた古代の二元論の宗教「マニ教」を今日知った

コメント

  1. Reddit名無しさん より:

    大和文華館所蔵の「六道図」は、仏教絵画に擬態して密かに守られてきた、世界的に極めて希少な「マニ教」の聖画です。
    一見すると仏教の六道輪廻に見えますが、その中身はマニ教特有の「魂の審判」や「光(天国)と闇(地獄)の世界観」を緻密に描いたものです。
    激しい迫害を逃れるため仏教を装ったこの絵画は、ユーラシア大陸から消え去ったマニ教の生きた信仰を今に伝える、世界に数点しか現存しない第一級の歴史的文化財です。