「大戦の休戦協定が結ばれたその日、北ロシアの村では米兵が赤軍の猛攻を受けていた」約5,000人が送られた“北極グマ遠征”とは?

「大戦の休戦協定が結ばれたその日、北ロシアの村では米兵が赤軍の猛攻を受けていた」約5,000人が送られた“北極グマ遠征”とは? 歴史

第一次世界大戦が終わりに近づいていた1918年9月、約5,000人のアメリカ兵が、ロシア北部の港町アルハンゲリスク(英語ではアークエンジェル)に上陸しました。掲げられた任務は、連合国がロシアへ送り込んでいた軍需物資の警備です。ところが彼らは、凍った川と森のなかで、革命直後のロシアの赤軍と9か月あまり戦うことになります。アメリカでもあまり知られていない「ポーラー・ベア(北極グマ)遠征」の話です。

※注:赤軍は、1917年のロシア革命で政権を握ったボリシェヴィキ(のちのソ連共産党)がつくった軍隊です。

今日の知ってた?

❄️ 1918年9月4日、アメリカ陸軍の約5,000人(主力は第339歩兵連隊)が、ロシア北部の港町アルハンゲリスクに上陸した。

⚔️ 任務は連合国の軍需物資の警備とされていたが、部隊はイギリス軍の指揮下で内陸へ進み、1919年6月に引き揚げが始まるまで赤軍と戦い続けた。

🐻 死者は戦死・病死などを合わせて約190〜240人とされる(資料によって幅がある)。兵士の多くはミシガン州の出身で、のちに「ポーラー・ベア(北極グマ)」の愛称で呼ばれた。

背景:なぜアメリカ兵が北ロシアにいたのか

1917年、ロシアでは革命が起き、同じ年の秋にはボリシェヴィキが政権を握りました。新しい政権は1918年3月、ドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで戦争から抜けます。それまで連合国は、ロシアに戦い続けてもらうため、アルハンゲリスクなど北の港に大量の武器や物資を送り込んでいました。ロシアが抜けたことで、その物資がドイツ側に渡ること、そして東の戦線から手の空いたドイツ軍が西部戦線へ回されることを、連合国は恐れました。

イギリスは1918年3月、北の港ムルマンスクに小部隊を上陸させます。8月2日にはアルハンゲリスクで反ボリシェヴィキ派のクーデターが起き、数日のうちに連合軍が町を押さえました。アメリカのウィルソン大統領は干渉には慎重でしたが、英仏の求めに応じて派兵を認めます。1918年7月の覚書では、アメリカ軍の役割を「のちにロシア側が必要とするかもしれない軍需物資の警備」と「ロシア人自身が受け入れる形での自衛の組織づくりへの協力」などに限り、ロシアの内部の争いには関わらないという立場を示していました。

送り込まれたのは、イギリスに渡っていた第339歩兵連隊を主力に、工兵大隊、野戦病院、救急車中隊を加えた約5,000人です。兵士の多くはミシガン州、とくにデトロイト周辺の出身で、連隊は「デトロイトの部隊(Detroit’s Own)」と呼ばれていました。北ロシアにはほかにもイギリス、フランス、カナダ、イタリア、セルビアなどの兵が送られ、アメリカ軍はイギリス軍のプール将軍が率いる連合軍の指揮下に入ります。部隊はまもなく、鉄道沿いと北ドヴィナ川沿いに、港から数百キロ離れた内陸まで進んでいきました。

もう少し詳しく

休戦の日に始まった激戦。1918年11月11日、ヨーロッパで第一次世界大戦の休戦協定が結ばれたまさにその日、アルハンゲリスクから南に約320キロの北ドヴィナ川沿いの村トゥルガスでは、アメリカ兵の中隊とイギリス兵、カナダの砲兵あわせて約600人の守る陣地に、砲艇の援護を受けた約2,500人の赤軍が攻めかかりました。戦闘は14日まで続き、連合軍側はどうにか陣地を守り切ります。この戦いは「休戦記念日の戦い」とも呼ばれます。ドイツと戦う理由がなくなったあとも、北ロシアでの戦争は終わりませんでした。

氷点下40度を下回る冬。冬になると気温は氷点下40度を下回ることもあり、兵士たちは深い雪と寒さのなかで小さな村々の守りについていました。病死者の多くは、1918年に世界中で大流行したスペイン風邪によるものだったとされます。1919年1月には赤軍の大規模な攻勢を受け、南の拠点シェンクルスクからの撤退を強いられました。

士気の低下と撤退。大戦の休戦で当初の名目が薄れると、兵士たちの士気は目に見えて落ちていきます。本国でも撤兵を求める声が高まり、ウィルソン大統領は1919年2月16日、撤退の準備を陸軍に指示しました。3月末には、アルハンゲリスクで前線への再出動を命じられた中隊が命令に従うのをしぶる騒ぎが起き、本国では「反乱」とも報じられています。白海の氷が解けて船が出せるようになった1919年6月に引き揚げが始まり、兵士たちは夏のあいだに順次アメリカへ帰り着きました。連合軍の撤退は1919年10月までに終わり、翌1920年2月には白軍(反ボリシェヴィキ派)の北部の政府が崩れて、赤軍がアルハンゲリスクに入っています。

帰ってこなかった兵士たち。戦死者の多くは現地に埋葬されたままでした。1929年、元兵士たちの頼みを受けたアメリカの退役軍人団体の一行が、まだ国交のなかったソ連に入り、86人分の遺骨を見つけて持ち帰ります。1934年にはソ連側からさらに14人分が送られましたが、今も30人ほどがロシアの土の下に残っているとされます。1930年5月30日には、ミシガン州トロイの墓地に、白い大理石の北極グマ像を中心とした慰霊碑が建てられ、56人がそこに葬られました。

同じころ、日本はシベリアへ。連合国の干渉は北ロシアだけでなく、極東のシベリアでも行われました。アメリカはウラジオストクなどに約8,000人を送り、1920年4月まで駐留させています。日本もこの共同出兵に加わりました。これが日本の歴史の授業で習う「シベリア出兵」(1918〜1922年、北樺太からの撤兵は1925年)で、日本の兵力はピーク時に7万人を超えたとされます。北ロシアのポーラー・ベア遠征と日本のシベリア出兵は、同じ干渉戦争の、ヨーロッパ側と極東側での出来事でした。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
冷戦のころ、アメリカとソ連で相手への感じ方がずれていた理由のひとつがこれだ、って話を聞いたことがある。ソ連側は「革命のすぐあとに、西側の軍隊が自分たちの国に乗り込んできた」ことをずっと覚えていた。一方のアメリカ人は、軍事史マニア以外ほぼ誰も知らない。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
アメリカ人じゃなくてカナダ人だけど、自分にとっても初耳だった。ソ連があれほど西側を疑ってかかっていた理由、ちょっと見え方が変わる。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
カナダも他人事じゃないぞ。イギリス帝国の一員として、北ロシアにもシベリアにも兵を出してる。休戦の日のトゥルガスの戦いで、アメリカ兵と一緒に陣地を守ったのはカナダの砲兵だった。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
19世紀から20世紀の初めにかけて、イギリスとその自治領が顔を出していない大きな戦争を探すほうが難しいからな。当時の大英帝国は、本当にどこにでもいた。

5. 海外の名無しさん
第一次大戦の終わりごろから連合国がロシアに介入した件は、見事に忘れられている分野だと思う。北ロシアとシベリアを合わせるとアメリカ兵が400人前後亡くなっているのに、自分が学校で使った歴史の教科書には一行も出てこなかった。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
大戦の本筋から外れた脇役の作戦で、しかも失敗に終わってるからね。教科書に載らないのも、まあ分からなくはない。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
脇役とは言うけど、連合国全体で見ればロシアには何万人もの兵が入ってるんだよ。生まれたばかりの革命政権と実際に撃ち合ってるんだから、「大戦のあとのちょっとした小競り合い」で片づけるのは違うと思う。

8. 海外の名無しさん
スレタイの「ドイツを牽制するために行ったのに、結局は赤軍と戦うことになった」は少し言いすぎかな。ウィキペディアの記事にも、目的のひとつとして「アルハンゲリスクの軍需物資をドイツ軍やボリシェヴィキの手に渡さないこと」と最初から書いてある。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
そもそもイギリスとフランスが先に兵を送って作戦を始めていたところに、アメリカ軍があとから合流した形だからね。指揮を執っていたのもイギリス軍。現地で赤軍とぶつかるのは、最初から織り込み済みだったはず。

10. 海外の名無しさん
経緯を読んでいちばん胸にきたのは、1918年11月11日、ヨーロッパで休戦協定が結ばれたまさにその日に、北ドヴィナ川沿いの村が赤軍の大攻勢を受けていたこと。世界中が「戦争が終わった」と祝っているのに、この人たちの戦争はそこからが本番だった。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
しかもそのあと北ロシアの冬が来る。気温は氷点下40度を下回ることもあって、水冷式の機関銃が凍らないように抱えて寝た、なんて話まで残ってる。敵より寒さのほうがよっぽど怖かったんじゃないか。

12. 海外の名無しさん
ミシガン州の出身だけど、地元ではわりと知られた話なんだ。兵士の多くがデトロイト周辺の出身で、連隊は「デトロイトの部隊」と呼ばれてた。トロイの墓地には白い大理石の北極グマ像が立っていて、その周りに56人が眠ってる。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
遺骨を連れて帰った話もすごいよね。1929年、アメリカとソ連にまだ国交がなかったころに、退役軍人の団体が現地に入って86人分の遺骨を見つけて持ち帰ったらしい。それでも、今もロシアに30人ほどが残されたままなんだとか。

14. 海外の名無しさん
アメリカ軍とロシアの軍隊が正面から撃ち合ったのは、歴史上これが唯一だってよく聞く。冷戦のあいだも、米ソはにらみ合っただけで直接は戦わなかったわけだし。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
「唯一」は言いすぎだと思う。朝鮮戦争では、ソ連の戦闘機パイロットが中国・北朝鮮側として出撃して、アメリカ軍機と空中戦をしてた。ソ連は長いこと公式には認めなかったけど、今ではよく知られた話。ついでに言うと、この北ロシアの件でもアメリカはロシアに宣戦布告していない。

16. 海外の名無しさん
アメリカ人は二つの大戦のあいだの時期を「孤立主義の時代」って呼ぶけど、その間も世界のあちこちに兵を置いて、よその国の政変にもしっかり首を突っ込んでたんだよな。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
中南米でやっていたことは全部数えない、という条件つきの孤立主義な。ニカラグアやハイチには、まさにこの時期にアメリカの海兵隊が何年も駐留してたし。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
モンロー主義ってやつだね。「南北アメリカはうちの縄張りだからヨーロッパは口を出すな、そのかわりこっちもヨーロッパには口を出さない」。その理屈からすると、第一次大戦への参戦もロシアへの出兵も、かなりの例外だったことになる。

19. 海外の名無しさん
1959年にフルシチョフが訪米したとき、ハリウッドの映画会社の昼食会で、ロシアへの出兵の話を持ち出してる。映画会社の社長が「ロシアの飢饉のとき、アメリカは援助をした」とスピーチしたのに対して、援助より前にアメリカは革命をつぶすために軍隊を送ってきたじゃないかと切り返して、「我々の兵士がアメリカの土を踏んだことは一度もないが、あなた方の兵士はロシアの土を踏んだ」と言ったんだ。

※注:フルシチョフは当時のソ連の最高指導者。1959年9月、ソ連の最高指導者として初めてアメリカを訪問しました。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
アメリカ側にとっては「誰も覚えていない昔の寄り道」でも、乗り込まれた側は40年たってもしっかり覚えていた、ってことだね。まさに>>1の話そのもの。

21. 海外の名無しさん
ボリシェヴィキの側も、はじめから世界革命を掲げてたわけでしょ。周りの国が身構えて手を出したくなるのも、当時の感覚からすれば自然な反応だったと思う。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
身構える理由は分かるけど、やり方としては最悪だったと思う。赤軍を倒すには全然足りない兵力で、恨みだけはしっかり買った。アメリカの軍事史の解説でも「赤軍を敵に回すには十分で、白軍を救うにはまるで足りなかった」とまとめられてる。

23. 海外の名無しさん
兵士の側からしたらたまったもんじゃないよね。大戦が終わってもう戦う理由がないのに、凍った森で冬を越せと言われる。1919年3月には、前線に戻るよう命じられた中隊が命令に従うのをしぶる騒ぎまで起きて、本国では「反乱」とまで報じられたらしい。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
本国でも撤兵を求める声が大きくなって、ウィルソン大統領は1919年2月に撤退の準備を指示してる。それでも実際の引き揚げは6月から。アルハンゲリスクの港は冬のあいだ氷に閉ざされるから、帰りたくてもしばらくは帰れなかったんだ。

25. 海外の名無しさん
連合軍が引き揚げてから半年もたたない1920年2月には、北ロシアの白軍の政府が崩れて赤軍がアルハンゲリスクに入ってる。アメリカ兵だけでも200人前後が命を落として、結局なにも残らなかった。こういう話こそ学校で教えるべきだと思うんだけどな。

まとめ

軍需物資の警備を掲げてアルハンゲリスクに上陸した約5,000人のアメリカ兵は、大戦が終わったあとも極寒の北ロシアで赤軍と戦い続けました。コメント欄では「アメリカ人はほとんど知らないのに、ソ連側はずっと覚えていた」という記憶のずれに声が集まり、フルシチョフの言い返しや、今もロシアに眠る兵士たちの話にまで広がりました。乗り込んだ側と乗り込まれた側とで、歴史の残り方はこうも違うようです。

元ソース: 1918〜19年の「ポーラー・ベア遠征」について知った。ドイツを牽制するためロシア北部のアルハンゲリスクへ送られた約5,000人のアメリカ兵は、結局は赤軍と戦うことになった

コメント

  1. Reddit名無しさん says:

    第一次大戦かw