紀元前65年、黒海の南東岸に近い山道で、ローマの将軍ポンペイウスの兵たちが、道に置かれた蜂蜜入りの飲み物を口にしました。まもなく正気を失ったところを、待ち伏せていた山の民に討たれた――古代の地理学者ストラボンは、そう書き残しています。毒の正体は、ツツジの仲間の花の蜜に含まれる「グラヤノトキシン」。じつは日本の野山に咲くレンゲツツジやシャクナゲにも、同じ系統の毒があります。
今日の知ってた?
🍯 紀元前65年、ローマのポンペイウスの軍が黒海の南東岸の山地を抜けようとしたとき、山岳民族ヘプタコメタイが「人を狂わせる蜂蜜」を混ぜた器を道に置いた。それを飲んで正気を失ったローマ兵3個中隊が、たやすく討ち取られたと、ストラボンが『地理誌』に書いている。
🌺 毒の正体は、ツツジ科の植物の花の蜜に含まれるグラヤノトキシン。黒海沿岸ではこの蜂蜜が、今も「デリ・バル(狂った蜂蜜)」の名で地元の市場に並ぶ。
⚔️ 約350年前の紀元前400年ごろには、同じ地方でギリシア人傭兵が蜂蜜を食べて何百人も倒れている。このときは一人も死ななかった。倒れているあいだに、襲ってくる敵がいなかった。
🌸 日本のレンゲツツジ、シャクナゲ、アセビにも同じ系統の毒がある。ただし2012年の食品安全委員会の資料は、こうした蜂蜜による中毒について「日本では報告例はない」としている(厚生労働省の資料に載る蜂蜜の例は、マレーシアから持ち帰ったもの)。
背景:毒使いの王の戦争と、山の民の待ち伏せ
舞台は、今のトルコ北東部にあたる黒海の南東岸です。当時この一帯では、ポントス王国の王ミトリダテス6世が長年ローマと争っていました。この王は毒にまつわる話で知られる人物で、2023年に米医学誌『キュレウス』に載った論文(著者は米陸軍マディガン医療センター所属)は、王の父が紀元前120年に敵に毒殺されたこと、王自身が毒に体を慣らす習慣を続けていたことを紹介しています。紀元前65年には、ローマの将軍ポンペイウスの遠征で、ポントス側は敗北が目前に迫っていました。戦争はその2年後、紀元前63年にミトリダテスの敗北で終わります。
ストラボンの『地理誌』第12巻によると、待ち伏せをしたのは、スキュディセス山に住むヘプタコメタイという山岳民族でした。ストラボンは彼らを、このあたりの山の民の中でもとりわけ荒々しい人々として描いています。木の上や塔のような櫓に住む者もいて、昔の人は「塔に住む人」という意味でモシュノイコイと呼んだこと、通りかかる旅人には櫓から飛び降りて襲いかかったことも書かれています。ポンペイウスの軍が山地を抜けようとしたとき、彼らは「木の枝から採れる、人を狂わせる蜂蜜」を器に混ぜて道に置きました。兵がそれを飲んで正気を失ったところを襲い、3個中隊をたやすく片づけた、というのがストラボンの記述です。
ストラボン自身もポントスの出身です。キュレウスの論文によると、ポンペイウスがこの地方を征服して間もなく生まれ、一族はこの戦争で両方の側について戦いました。論文は、ストラボンが郷土びいきから話を作った可能性にも触れたうえで、それは考えにくいとしています。ただ、私たちが確かめられるのは「ストラボンがそう書いている」というところまでで、待ち伏せそのものは古代の記録が伝える出来事です。
では、その蜂蜜とは何なのか。毒の正体はグラヤノトキシンと呼ばれる一群の物質で、黒海沿岸に多いシャクナゲの一種(学名ロドデンドロン・ポンティクム)など、ツツジ科の植物の花の蜜に含まれています。ミツバチがこの蜜を集めると、毒がそのまま蜂蜜に入ります。論文によると、グラヤノトキシンは細胞の膜にあるナトリウムの通り道(ナトリウムチャネル)の働きを乱す神経毒です。軽ければめまい、だるさ、汗、よだれ、吐き気、嘔吐、手足のしびれ。重くなると脈がひどく遅くなり、意識を失ったり、心臓を動かす信号が途切れたりします。日本の食品安全委員会の資料によると、これまで中毒が報告されてきたのは、トルコの黒海沿岸とネパールの高山地帯で採れた蜂蜜です。黒海沿岸では今も地元の市場で売られていて、胃の不調、高血圧、糖尿病、精力の衰えに効くと信じられている、と論文は書いています。
もう少し詳しく
350年前にも、同じ土地で何百人も倒れていた。狂った蜂蜜の記録には、ストラボンよりずっと古いものがあります。ペルシアの王位争いに雇われたものの、雇い主の王子が戦死して敵地に取り残されたギリシア人傭兵、いわゆる「一万人」の退却を、指揮官のひとりクセノポンが書いた『アナバシス』です。紀元前400年ごろ、黒海の近くまで来た一行は、驚くほど蜂の巣の多い村々に宿を取り、その巣を食べました。兵たちは吐いたり下したりして、まっすぐ立てなくなります。少し食べた者はひどく酔ったように、たくさん食べた者は狂ったようになり、死にかけたように倒れる者もいて、何百人もが大敗したあとのように横たわったといいます。ところが翌日、死んだ者は一人もいませんでした。食べたのとほぼ同じ時刻に正気に戻り、3〜4日目には、重い治療を終えた病人のように起き上がりました。一行はそこから2日歩いて、黒海に面したギリシア人の町トラペズス(今のトラブゾン)にたどり着いています。
命取りになったのは、蜂蜜より「そのあと」。キュレウスの論文は、クセノポンの兵にとって幸いだったのは攻めてくる敵がいなかったことだ、と書いています。グラヤノトキシンの中毒は、重い症状でも24時間ほどで峠を越え、早ければ2〜9時間で良くなります。脈が遅くなる症状には、硫酸アトロピンという薬で十分に対処できます。論文によると、1983年以降に死亡例は記録されておらず、1,199件の中毒例をまとめた研究でも死者はいませんでした。つまり蜂蜜は、兵を殺したのではなく、しばらく戦えない体にしたのです。とはいえ、量はわずかでも効きます。重い症状は5〜30グラムで出ることがあり、論文はスプーン1杯の蜂蜜がおよそ15グラムだと書き添えています。症状が出るまでは、数分から2時間あまりです。
「3個中隊」は何人で、仕掛けたのは誰か。論文によると、ローマ軍の中隊(マニプルス)はもともと180人ほどの単位ですが、ポンペイウスの時代には最大600人の大隊(コホルス)にほぼ置き換わっていて、ストラボンがどちらを指したのかは分かりません。そのため、ローマ側の損害は480人から1,800人まで幅をもって見積もられています。この話はよく「ミトリダテス王の策略」として紹介されますが、ストラボンが名指ししているのはヘプタコメタイだけです。論文は、彼らを王の味方としつつ、王がじかに命じたとは限らないとしています。王に仕えた薬草学者カテウアスが発案したとする資料もありますが、ストラボンの記述には出てきません。また、ネットでは「蜂の巣を道に置いた」と紹介されることが多いものの、ストラボンの英訳では、蜂蜜を器に混ぜて道に置き、兵がそれを飲んだことになっています。
日本のツツジやシャクナゲにも、同じ毒がある。食品安全委員会の資料によると、グラヤノトキシンはレンゲツツジ、アセビ、ネジキなど、日本にも生えるツツジ科の植物に含まれます。アセビは漢字で「馬酔木」と書き、東京都建設局の井の頭恩賜公園の花便りは、葉や茎の毒で食べた馬が酔ったようにしびれることが名の由来だと紹介しています。厚生労働省の「自然毒のリスクプロファイル」によると、北海道から九州まで生えるシャクナゲの仲間もグラヤノトキシン類を含み、レンゲツツジについては、欧米で花の蜜を吸った子どもや、馬、羊の中毒が報告されているそうです。同じ資料は、ツツジ科の植物には毒をもつものが多く、蜜に毒が含まれることもあるとして注意を呼びかけています。道ばたのツツジの花を摘んで蜜を吸った覚えのある人には、少しひやりとする話です。国内でも、2008年に北海道で「血圧を下げる」と聞いたハクサンシャクナゲの葉を煎じて500ミリリットル飲んだ人が、血圧が下がってショック状態になり入院し、2015年には自宅で摘んだレンゲツツジの花にドレッシングをかけて食べた人が、視覚の異常と嘔吐で入院しました。蜂蜜では、マレーシアから持ち帰った蜂蜜で視覚の異常や呼吸困難を起こし、病院に運ばれた例が2012年に専門誌で報告されています。一方で食品安全委員会は、毒の量や種類は植物の種によって違うため、健康被害が想定されるのはそうした植物が多く生える地域に限られるとしています。黒海沿岸で「薬」として売られる蜂蜜と、北海道で「血圧の薬」として飲まれた葉の煎じ汁。どちらも、血圧が下がるのは毒が効いたしるしでもあります。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
現存するギリシア文学の中でも指折りの傑作に『アナバシス』がある。ペルシアの内戦に加わった1万人のギリシア軍が、雇い主の側が崩れたせいで敵地から脱出する羽目になった話。紀元前400年ごろ、旅の終わり近くの黒海のそばで腹を空かせた彼らは、蜂の巣をどっさり見つけて蜂蜜を食べ、ひどい目にあった。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
1979年の映画『ウォリアーズ』も、元をたどれば『アナバシス』なんだよね。濡れ衣を着せられたギャングが、ニューヨーク中の敵に追われながら地元まで帰り着こうとする話。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
厳密には、『アナバシス』に着想を得た小説があって、それを映画にしたもの。それにしても、これだけ引き込まれる話なのに、ちゃんとした映画化がまだ無いのが不思議でならない。
4. 海外の名無しさん(>>1への返信)
フィンランドの漫画家ペトリ・ヒルトゥネンが描いたコミック版がすごくいいよ。コナン・ザ・グレートみたいなメタル調の絵で迫力満点。英語版の訳はちょっと物足りないけど、絵で十分おつりがくる。ただ、コミックは黒海に着いたところで終わっちゃう。原作はそのあと沿岸での騒動まで続くのに。
5. 海外の名無しさん
スプーン1杯で気持ちが落ち着き、2杯でぐっすり眠れる。でも3杯目は……!
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
「目を覚まさなきゃだめだ」……って、続きのセリフが勝手に口から出てきた。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
まさかここでフューチュラマが来るとは思わなかった。宇宙の蜂の蜜が出てくる回、今でも覚えてる人がいてうれしい。
※注:『フューチュラマ』は、『ザ・シンプソンズ』の作者マット・グレイニングによる米国のSFアニメ。宇宙の蜂の蜜を扱った回に、このやりとりに似たセリフがある。
8. 海外の名無しさん
ポントスの王ミトリダテス、なかなかの策士だな!ローマ軍はそのせいで、何日もぶっ飛んだままサンダルもまともに履けなかったに違いない。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
それって、毎日少しずつ毒を飲んで、毒が効かない体を作ったっていう王様?どれだけ毒が好きなんだよ。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
その王様で合ってる。ただ、この件を書き残したストラボンによると、蜂蜜を道に置いたのはヘプタコメタイっていう山の民で、王が命じたとは書いてないらしい。それに「何日も」じゃなくて、正気を失ったところをその場で襲われてる。ラリって終わり、じゃ済まなかったんだよ。
11. 海外の名無しさん
毒素で倒してるんだから、生物兵器じゃなくて化学兵器じゃないの?病原体をばらまいたわけじゃないし。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
でも、その毒を作ったのは生き物だからね。生物兵器の定義にも当てはまるし、化学兵器の条件もいくつか満たしてる。ちょうど境目にあるけど、歴史家はふつう生物兵器として扱ってる、って感じかな。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
ちなみに今の生物兵器禁止条約は、正式な名前に「毒素兵器」も入ってて、病原体だけじゃなく生き物由来の毒も対象にしてる。2000年前の蜂蜜作戦も、今なら立派な条約違反ってわけだ。
14. 海外の名無しさん
グラヤノトキシンはナトリウムチャネルを開きっぱなしにして、血圧を下げ、脈を遅くする。……なのに狂った蜂蜜は精力剤として信じられていて、中毒になるのはたいてい中年の男性らしい。この二つ、どう考えても噛み合ってない気がする。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
全身の血圧を下げてまで、一か所にだけ血を集めようってこと?体の予算配分がおかしい。
16. 海外の名無しさん(>>14への返信)
うろ覚えだけど、バイアグラも最初は心臓や血圧の薬として開発されてて、試しているうちに別の効き目に気づいたんじゃなかったっけ。人間の体はそういうところが雑にできてる。
17. 海外の名無しさん
うちの子は早産で生まれて、肺高血圧症の治療でバイアグラを飲んでた。初めて神経科の先生に会ったとき、先生が薬のリストを見て「バイアグラにクロノピンか。この子はパーティーで人気者になるね」って言ったのが最高だった。
※注:バイアグラ(シルデナフィル)は、肺高血圧症の治療にも使われる。クロノピンは、てんかんの発作などに使われる薬(クロナゼパム)の米国での商品名。
18. 海外の名無しさん
この話題が出るたびに、狂った蜂蜜を売りつけようとしたり、ねずみ講に誘い込もうとしたりする新しいアカウントがわらわら湧いてくる。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
ねずみ講って英語だと「ピラミッド・スキーム」っていうけど、ピラミッドなら喜んで入るよ。数千年たっても観光収入を生み続けてる、史上最高の投資だ。
20. 海外の名無しさん
これってシャクナゲの蜜から採れるんだよね?ヨーロッパじゃ庭木として大人気で、うちの近所にも山ほど植わってるし、養蜂家もたくさんいる。それなのに、地元の蜂蜜を食べてラリったなんて事件、一度も聞いたことがない。よっぽど濃くないと効かないのか、特定の花と特定の蜂の組み合わせが要るのか、どっちなんだろう。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
毒の量も種類も、ツツジの仲間の種によってだいぶ違うらしい。問題になるのは、毒の多い種が一面に咲いていて、蜂がほとんどそればかり集めるような土地。トルコの黒海沿岸とかネパールの高地とか。庭木がぽつぽつある程度なら、ほかの花の蜜とも混ざるしね。
22. 海外の名無しさん
キエフのオリガも、敵にこの手の蜂蜜を送りつけて、酔いつぶれたところを皆殺しにしたって話がなかったっけ。
※ オリガは10世紀のキエフ大公妃。夫を殺した部族への復讐として、葬儀の宴で相手を酒に酔わせて討った話が年代記に残る。これを狂った蜂蜜と結びつける説もあるが、一次史料での裏付けは確認されていない。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
オリガが敵に対してやってないことって、もう何か残ってる?あれだけやっておいて、のちに聖人になってるのがまたすごい。
まとめ
紀元前65年、ローマ兵3個中隊を倒した「狂った蜂蜜」の正体は、ツツジの仲間の蜜に含まれるグラヤノトキシンでした。350年前のギリシア兵が一人も死ななかったように、蜂蜜そのものより、倒れたところを襲われたことが命取りだったようです。コメント欄は『ウォリアーズ』から生物兵器の定義、精力剤の矛盾まで脱線続き。身近なレンゲツツジやシャクナゲにも同じ系統の毒がある、というのは覚えておいて損のない話です。
参考資料
- シカゴ大学 LacusCurtius「ストラボン『地理誌』第12巻第3章(ローブ古典叢書の英訳)」(1928年の英訳・英語)
- キュレウス(Cureus)「狂った蜂蜜と毒使いの王――ローマ軍で起きたグラヤノトキシンの集団中毒」(2023年・英語)
- 厚生労働省「自然毒のリスクプロファイル:高等植物:シャクナゲ類」(日本語)
- 食品安全委員会「グラヤノトキシンによる食中毒について」(2012年・日本語・PDF)
元ソース: 紀元前65年、黒海沿岸で「狂った蜂蜜」が初期の生物兵器として使われた。蜂蜜を口にした兵士たちは中毒を起こし、討ち取られた

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