1938年3月、銃殺を目前にしたソ連の元最高幹部が、紙と鉛筆を求めてスターリンに短い手紙を書いたと伝えられています。書き出しは「コーバ、なぜ君には私の死が必要なのか」。コーバは、スターリンが若いころから使っていた呼び名です。スターリンはこの手紙を机の引き出しにしまったまま、生涯手元に置いていたといいます。ただし、この有名な一節には、確かめきれていない部分もあります。
※注:ボリシェヴィキは、レーニンが率いたロシアの革命派。1917年の十月革命で政権を取り、のちのソ連共産党になりました。
今日の知ってた?
✉️ ソ連の古参ボリシェヴィキニコライ・ブハーリン(1888〜1938)は、1938年3月の見世物裁判で死刑を言い渡されました。処刑の直前に紙と鉛筆を求めてスターリンに書いた最後の手紙は、「コーバ、なぜ君には私の死が必要なのか」で始まっていたとされます。
🗄️ スターリンはこの手紙を机の引き出しにしまったまま1953年に死に、手紙は死後に机の中から見つかったと伝えられます。
🔎 ただしこの話は、ブハーリンの最期の記録を見たという一人の証言を、歴史家が書き留めた形で伝わっています。一方、前年の1937年12月に獄中から書いた長い手紙は、実物が公文書館に残っています。
背景:レーニンに「全党の寵児」と呼ばれた理論家
ニコライ・ブハーリンは1888年、モスクワに生まれました。経済学を学ぶうちに革命運動に加わり、1906年にロシア社会民主労働党に入党します。1911年に逮捕されて流刑になりましたが、脱走して西ヨーロッパへ渡り、1912年に当時オーストリア領だったクラクフでレーニンと出会って、党の新聞「プラウダ」の仕事を手伝いました。1916年10月にはニューヨークに渡り、ロシア語の新聞「ノーヴイ・ミール(新世界)」を編集しています。1917年の二月革命のあとに帰国し、十月革命でボリシェヴィキが政権を取ると、プラウダの編集長になりました。
レーニンは晩年に口述した党幹部の人物評、いわゆる「レーニンの遺書」で、ブハーリンを「党のもっとも貴重で大きな理論家であるだけでなく、正当にも全党の寵児とみなされている」と書きました。ただし同じ文書で、「その理論的な見解を完全にマルクス主義的なものとみなすには、大いに留保が要る」とも付け加えています。共産主義の入門書『共産主義のABC』(1921年、プレオブラジェンスキーとの共著)などを著し、党を代表する理論家と目されていました。
1924年にレーニンが死ぬと、ブハーリンは政治局の正式なメンバーになります。市場をある程度認め、農民との関係を保ちながら経済をゆっくり立て直すレーニンの「新経済政策(ネップ)」を支持し、急な工業化や農業の強制的な集団化には反対しました。この時期のブハーリンはスターリンと手を組み、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフといった対立派を退けていきます。1926年には、各国の共産党をまとめる国際組織コミンテルンの執行委員会のトップに就きました。元の投稿が「スターリンの親しい盟友」と書いているのは、この時期のことです。
ところが1928年、スターリンは方針を急に転じ、敗れた対立派が唱えていた強制的な集団化を自ら進めはじめ、反対するブハーリンを攻撃します。ブハーリンは1929年4月にコミンテルンの職を、11月には政治局の席を失いました。自己批判して党に一部復帰し、1934年に政府の機関紙イズベスチヤの編集長になり、1936年のソ連憲法の起草にも加わりますが、かつての力は戻りませんでした。それでもスターリンは、クレムリンの祝宴で「我らがブハーリンを、我らがブハルチクを、みな知っていて愛している」と乾杯の音頭を取ったことがあった、と歴史家ロイ・メドヴェージェフは書いています。1936年には、マルクスとエンゲルスの遺稿を買い取る交渉でパリに派遣されました。亡命の可能性を口にする知人もいましたが、ブハーリンは「スターリンはいまや社会主義の象徴だ。戻って杯を最後まで飲み干すしかない」と語って、モスクワに戻ったとされます。
「コーバ」は、本名をヨシフ・ジュガシヴィリというスターリンが、故郷ジョージア(グルジア)で地下活動をしていたころから使っていた呼び名です。ジョージアの作家アレクサンドレ・カズベギの小説に出てくる義賊の名から取ったとされます。メドヴェージェフによれば、ブハーリンはスターリンへの手紙をいつも「親愛なるコーバ!」で書き始めていました。
もう少し詳しく
「最後の手紙」の出どころ。この話を書き残したのは、ソ連の歴史家ロイ・メドヴェージェフです。双子の兄弟ジョレスとの共著『知られざるスターリン』に収めた「ブハーリン殺害」の章で、アレクセイ・スネゴフという人物の証言として紹介しました。スネゴフは自身も弾圧を受けた人で、名誉回復のあと内務省(MVD)の要職に就き、1930年代の秘密資料の調査に加わっています。そのスネゴフが「ブハーリンの最期の日々に関する文書を見た」と語ったところでは、囚人は処刑の直前に紙と鉛筆を求め、願いは聞き入れられた。短い手紙は「コーバ、なぜ君には私の死が必要なのか」で始まり、スターリンはそれを机の引き出しにしまったまま生涯を終えた、というのです。英国の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリも『スターリン 赤い皇帝と廷臣たち』の脚注で、スターリンの机の新聞紙の下から意味深な手紙が5通見つかったとされる、とフルシチョフがスネゴフに語り、スネゴフはそのうち3通しか思い出せなかった、と紹介しています。つまり、手紙を見たという人の話が人づてに伝わったものです。メドヴェージェフの本の中でも「なぜ必要なのか」と「なぜ必要だったのか」で文面が揺れていて、2009年にはこの話を作り話だと論じる論文も出ました。その筆者たちは、公文書館から手紙の実物も写しも見つかっていないことを根拠に挙げています。広く引用される一節ですが、「そう伝えられている」と受け止めるのが穏当でしょう。
実物が残る、1937年12月の長い手紙。この短い手紙と混同されやすいのが、獄中のブハーリンが1937年12月10日にスターリンにあてて書いた長い手紙です。こちらはロシア大統領公文書館に残っていて、1993年に歴史雑誌「イストーチニク」で公開されました。「この手紙をスターリンの許可なしに誰も読まないでほしい」と始まり、「おそらくこれが最後の手紙になる」と続きます。取り調べで認めた罪について自分は無実だと書いたうえで、死刑になるなら銃殺ではなく、モルヒネで眠ったまま目覚めないようにさせてほしい、あるいは何年かアメリカに追放してほしい、そのあいだ妻を人質としてソ連に残してもよい、とまで頼んでいます。文中には「許してくれ、コーバ」という呼びかけも出てきます。さらに判決の翌日の1938年3月14日には、最高会議幹部会に助命を求める嘆願書も出しましたが、聞き入れられませんでした。処刑は3月15日です(14日とする事典もあります)。
見世物裁判と「中世の原則」。裁判は1938年3月2日、ソ連最高裁判所の軍事法廷で始まりました。大粛清の時代に開かれた一連の公開裁判「モスクワ裁判」の最後のもので、被告は21人。法廷にはおよそ500人が入り、前の方の席には秘密警察(NKVD)の職員が並んでいたといいます。検事ヴィシンスキーはブハーリンを「狐と豚のいまいましい合いの子」とののしりました。ブハーリンは罪を認めながらも、「被告の自白は必要不可欠なものではない。被告の自白を重んじるのは中世の法の原則だ」と述べるなど、遠回しに裁判そのものを批判しています。この法廷での姿は、アーサー・ケストラーの小説『真昼の暗黒』の着想のもとにもなりました。
妻が暗記した遺書と、50年後の名誉回復。逮捕直前の1937年2月末、ブハーリンは自宅で「未来の世代の党指導者へ」と題した手紙を書き、親子ほど年の離れた若い妻アンナ・ラリナに暗記させました。「君は若い。別の人たちが党を率いる時代まで生きられる」と言い、何度も暗唱させて、一字一句覚えたと確かめてから原稿を燃やしたといいます。ラリナもその年のうちに「人民の敵の妻」として逮捕され、1歳になったばかりの息子も、のちに孤児院に送られました。夫の死は、獄中で壁を叩く合図を通じて、相手が誰かを知らない隣の房の囚人から知らされたそうです。流刑と収容所で20年近くを過ごしながら、彼女はこの文章を頭の中で繰り返し、モスクワに戻ってから書き起こして、フルシチョフ以降の歴代の指導者に送り続けました。手紙は1987年に公表され、翌1988年、ブハーリンはゴルバチョフ政権のもとで名誉回復されます。死から50年後のことでした。ラリナはその年、彼の生誕100年の記念集会で演壇に立っています。夫が獄中から彼女にあてて書いた1938年1月15日の長い手紙が、大統領公文書館から彼女の手に渡ったのは、さらに後の1992年。書かれてから55年近くがたっていました。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
スターリンについて一つだけ言わせてくれ。友達にするには最悪の男だ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
あいつが粛清した古参ボリシェヴィキの数は異常だよ。名前で呼び合うような古い仲間を、片っ端から消していったんだから。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
コトキンの分厚いスターリン伝を読みながら、出てくる人物を一人ずつ検索するのが楽しみだったんだ。1930年代を生き延びた人は両手で数えられるくらいしかいなかった。あとは粛清されたか、その前に運よく普通に死んでたか。何十年も付き合ってきた仲間が、次々に殺されていくんだよ。
4. 海外の名無しさん
コーバ、お前もか。シェイクスピアのシーザーの「ブルータス、お前もか」が、ここまでぴったりはまる場面もそうないよな。
5. 海外の名無しさん
待って、『猿の惑星』の新しいシリーズに出てくるボノボのコバって、スターリンから取った名前なの?
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
そう言われてるね。凶暴さも、のし上がり方もスターリンに重ねてあるって解説はよく見かける。知ったうえで観直すと、あのキャラの見え方がだいぶ変わるよ。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
じゃあ主人公のシーザーは、誰から名前を取ったんだよ。まさか……。
8. 海外の名無しさん
ブハーリンはただの幹部じゃない。レーニン亡きあとの党で一番の理論家で、本も論文も山ほど書いて、今でも読む人がいる。それでも、自分が作るのに手を貸した怪物からは逃げられなかった。古参の党員たちが消されていくのを見て、西側の共産主義者や社会主義者の多くが目を覚ましたんだ。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
ケストラーの『真昼の暗黒』は、まさにこの裁判から着想を得た小説だね。党のために、やってもいない罪を認めていく古参党員の話。読んだあとにこの経緯を知ると、ずしりとくる。
10. 海外の名無しさん(>>8への返信)
そもそも、なんでスターリンはブハーリンを処刑しようと思ったんだろう。詳しい人いる?
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
自分の支配を脅かしかねない相手だったからだと思う。ブハーリンは農業の集団化をゆっくり進めるべきだと言ってた人で、スターリンの力ずくのやり方とは正反対。担ぎ上げられそうな人間は、生かしておけなかったんだろう。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
ただ、「一国社会主義」(世界革命を待たずにソ連一国で社会主義を建設するという路線)の理屈を支えたのは、むしろブハーリンの方なんだよ。最初から水と油だったわけじゃない。
13. 海外の名無しさん
元の投稿が「スターリンの親しい盟友」って書いてるのは、ちょっと笑った。ブハーリンはレーニンとも何度もやり合ってきた人で、スターリンと組んだのは、トロツキー派と戦うためだったんだから。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
でも本人は友達のつもりだったんじゃないかな。スターリンへの手紙はいつも「親愛なるコーバ!」で書き始めてたらしいし、最後の一通までコーバへの呼びかけなんだから。
15. 海外の名無しさん
水を差すようだけど、この最後の手紙の話って又聞きの又聞きなんだよね。記録を見たという人の証言を、歴史家が書き留めたもの。実物が出てきたって話は聞かないから、本当にあったのか疑う人もいる。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
逆に、実物が残ってる方の手紙がよっぽどつらいよ。前の年の12月に獄中から書いた長い手紙で、銃殺じゃなくてモルヒネで眠らせてくれって頼んでる。「許してくれ、コーバ」とまで書いてるんだ。
17. 海外の名無しさん
一応言っておくと、1937〜38年に消された幹部たちも、それまで20年近く、大勢の人を死に追いやる側にいた。ブハーリンたちに同情する必要はないと思う。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
さすがにそれは雑すぎる。ブハーリンは党内の「右派」の中心で、スターリンの強制的な集団化に反対した側だよ。全員をひとまとめにするのは違う。
19. 海外の名無しさん
この時期にソ連が抱えた問題の多くは、粛清そのものが原因だと思う。違う意見を言える人がいなくなって、残ったのはずる賢い人間か、次は自分じゃないと思い込める傲慢な人間か、最初に狙われないほど目立たない人間だけ。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
でもそれは、ソ連にとっての欠点であって、スターリンにとっての欠点じゃなかったんだよ。国が弱くなっても、自分が権力の座に居座れればそれでよかった。
21. 海外の名無しさん
なんで机にしまっておいたんだろうな。読み返してたのか。それとも、ただガラクタ用の引き出しに放り込んで、そのまま忘れてただけか。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
戦利品として取っておいたんだろ。連続殺人犯がよくやるやつだよ。
23. 海外の名無しさん
ブハーリンの市場社会主義が、1970年代末からの鄧小平の改革開放のヒントになったって話は初めて知った。投稿者ありがとう。
24. 海外の名無しさん
法廷で「被告の自白を重んじるのは中世の法の原則だ」って言ってたの、罪を認める芝居をしながらの、ほとんど命がけの皮肉だよな。あの場でよく言えたと思う。
25. 海外の名無しさん
奥さんのアンナの話の方が泣ける。夫に頼まれた遺書を丸暗記して、紙に残せない収容所暮らしの20年近く、頭の中で繰り返し続けたんだろ。
まとめ
粛清の時代を象徴する一節として広く引用される「コーバ、なぜ君には私の死が必要なのか」。ただ、その出どころは人づての証言で、実物が確かめられているのは前年12月に書かれた長い手紙の方です。コメント欄では「友達にするには最悪」という皮肉から、処刑の理由、ブハーリン自身の責任、粛清がソ連を弱らせたという議論まで広がり、最後は妻が20年近く暗記し続けた遺書の話に行き着きました。
参考資料
- マルクス主義者インターネット・アーカイブ「ブハーリン殺害」(ロイ・メドヴェージェフ著、『知られざるスターリン』所収の章)(2003年・スウェーデン語訳)
- マルクス主義者インターネット・アーカイブ「ブハーリンからスターリンへの手紙(1937年12月10日)」(ロシア大統領公文書館所蔵、1993年に雑誌「イストーチニク」で公開)(フランス語訳)
- ブリタニカ百科事典「ニコライ・ブハーリン」(2026年10月閲覧・英語)
- ジョージ・メイソン大学ロイ・ローゼンツワイグ歴史・ニューメディアセンター「グラーグ:多くの日々、多くの命」アンナ・ラリナの項(英語)
元ソース: ボリシェヴィキの最高幹部でスターリンの盟友だったブハーリンは、1938年の処刑前にスターリンへ「コーバ、なぜ私の死が必要なのか」と書いた。スターリンはその手紙を机にしまい、1953年の死後に見つかった

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