降伏した兵士は捕虜収容所へ送られる。いまの感覚ではそれが当たり前だが、18世紀のヨーロッパの戦争では少し事情が違った。捕らえた敵に「逃げません」「交換が決まるまでは戦いません」と名誉にかけて誓わせ、敵地の町で自由に暮らさせたり、そのまま本国へ帰したりすることが珍しくなかったのだ。この誓いを、フランス語で「言葉」を意味する「パロール」と呼ぶ。
今日の知ってた?
🤝 18世紀のヨーロッパでは、降伏した兵士、とくに将校は、捕虜として閉じ込められるとは限らなかった。「逃げない」「正式な捕虜交換が成立するまでは戦わない」と誓えば、敵地の町で比較的自由に暮らしたり、本国へ帰されたりした。これを宣誓釈放(パロール)という。降伏した守備隊がまとめて誓いを立てて引き揚げることもあった。英仏が北米でも争っていた1757年、ウィリアム・ヘンリー砦を明け渡したイギリス軍の守備隊は、「18か月間はフランスとその同盟者に対して軍務に就かない」という条件で、武器と軍旗を持ったまま砦を出ることを認められている。
背景:宣誓釈放(パロール)とは
「言葉」にかけて約束する。パロール(parole)は、フランス語で「言葉」「約束」を意味する。英語では17世紀初めにはすでに、「逃げないと誓った捕虜に、ある程度の自由を許すこと」という意味で使われていた。いま英語でparoleといえば、まず受刑者の「仮釈放」を指すが、こちらはあとから広がった使い方だ。この記事では、戦争での捕虜のパロールを「宣誓釈放」と書く。
根っこにあるのは中世の騎士道。中世ヨーロッパでは、身分の高い捕虜は殺さずに、身代金と引き換えに返すのが慣わしだった。そこで重んじられたのが、捕虜が名誉にかけて立てる約束である。この慣行は17世紀には国どうしの戦争のルールとして認められるようになり、18世紀から19世紀にかけて、もっとも広く行われた。
将校は「紳士」だった。当時の将校の多くは貴族や地主階級の出身で、敵味方に分かれていても、受けた教育や暮らしぶりは似通っていた。紳士が名誉にかけて誓った言葉は守られるもので、破れば戦場の外、つまり社交界での信用を失う。宣誓釈放は、そうした階級の約束事を前提に成り立っていた。
捕虜を抱えるのは高くつく。捕虜を収容すれば、見張りを置き、食べさせ、着せ、病気になれば手当てもしなければならない。数千、数万の敵兵を何年も抱え込むのは、どの国にとっても重い負担だった。誓いひとつで帰ってもらえるなら、それに越したことはない。
もう少し詳しく
「二度と戦わない」には、たいてい続きがあった。誓いの中身は、多くの場合「一生戦わない」ではなく、「正式な捕虜交換が成立するまでは戦わない」というものだった。交換が済めば、晴れて軍務に戻れる。逆に、本国へ帰された将校でも、決められた期限までに交換が成立しなければ捕虜の身に戻らなければならない、という条件がつくこともあった。交戦国どうしは捕虜交換の取り決めを結び、将校1人を兵卒何人分と数える換算表まで用意していた。
「カルテル」の元の意味。英語のcartel(カルテル)は、17世紀末ごろから、こうした交戦国どうしの捕虜交換などの取り決めを指す言葉として使われていた。企業どうしが価格や生産量を示し合わせる、いまの意味で使われるようになったのは1900年ごろからである。
ただし、全員が同じ扱いだったわけではない。将校が宣誓釈放されやすかった一方で、一般の兵士は収容されることも多かった。1781年、アメリカ独立戦争のヨークタウンで降伏したイギリス軍の場合、将校はヨーロッパやイギリス軍の押さえている港へ移ることを認められたが、兵士はバージニア、メリーランド、ペンシルベニアの収容地に留め置かれた。守備隊がまるごと帰された例もあれば、将校だけが帰された例もある。一般の兵士にまでどこまで及んだかは、戦争や場面によってまちまちで、一概には言えない。
約束が守られなかった例もある。1777年、サラトガで降伏したイギリス軍のバーゴイン将軍の部隊およそ5,900人は、「この戦争のあいだは北アメリカで二度と戦わない」という条件でイギリスへ帰されるはずだった。ところが、アメリカ側の議会にあたる大陸会議がこの取り決めの実行を止めてしまい、兵士たちは1783年の終戦まで各地で抑留された。ウィリアム・ヘンリー砦のほうも、撤退する列がフランス側についた先住民の部隊に襲われ、取り決めどおりには終わらなかった。のちに小説『モヒカン族の最後』に描かれた出来事である。
崩れ始めたのは、フランス革命からナポレオン戦争の時代。1793年から1815年にかけて、英仏間の捕虜交換はほとんど機能しなくなった。それでも宣誓釈放そのものは続き、1814年の時点でイギリスには敵国の将校がおよそ4,000人、各地の小さな町に分かれて暮らしていた。町の境界から1マイル(約1.6km)より先へは出ない、日が暮れたら下宿から出ない、週に2回は係官のもとへ出頭する、といった条件つきである。ただしイギリス側の記録では、1812年6月までの3年間に460人あまりのフランス人将校が誓いを破って逃亡を図り、そのうち150人あまりが連れ戻されている。
そして、静かに消えていった。アメリカ南北戦争の前半には、この習慣がまだ大規模に生きていた。1862年にハーパーズ・フェリーで降伏した北軍の約1万2,000人も、1863年にヴィックスバーグで降伏した南軍のおよそ3万人も、宣誓釈放されている。しかし同じ1863年、南部連合が黒人兵の捕虜を交換の対象から外したことをきっかけに、捕虜交換の協定は停止された。第一次世界大戦のころには宣誓釈放はほとんど使われなくなり、いまもジュネーヴ第三条約(1949年)に規定こそ残っているものの、アメリカ軍の行動規範には逆に「敵からの宣誓釈放も特別な便宜も受け入れない」と定められている。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
さらに面白いのが、「逃げません」と約束すれば剣を取り上げられずに済んだこと。剣は名誉の証だったからね。約束しなければ剣を没収されて、ただの捕虜として扱われる。捕虜交換もしょっちゅう行われてたけど、公平な取引とみなされるのは同じ階級どうしの交換だけだった。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
将校なら、交換を待つあいだは「逃げない」と厳かに誓うだけで、けっこう好きに過ごせたんだよね。問題はフランス革命戦争のころで、フランスの将校はその誓いをあっさり破って逃げるようになった。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
本当にそれが原因かな。騎士道が花盛りだった時代でさえ、捕まった王侯貴族が「あれは脅されてした約束だ」と言って、解放されたとたんに反故にする話は珍しくなかった。昔の将校がそこまで律儀だったとは思えない。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
王が破った約束って、たいてい自分の権力を削られる約束だろ。宣誓釈放で誓うのは「命がけの戦場から降りて、家でおとなしくしてろ」ってことだ。本人にとっても悪い話じゃないんだから、守る理由のほうがずっと大きいよ。
5. 海外の名無しさん(>>2への返信)
面白いのは、あの頃のフランス軍の将校には貴族じゃない人が大勢いて、貴族どうしのしきたりに縛られてる感覚がなかったってこと。革命の熱も大きかった。新しい共和国の将校たちは、使える手はなんでも使って戦うのが共和国への義務だと思ってたんだよ。
6. 海外の名無しさん
階級ごとの交換レートがあったって読んだことがある。中尉1人は兵卒何人分、みたいな。アメリカ南北戦争のときの協定だと、陸軍の大佐1人で兵卒15人分だったらしい。人の値段を表にするって、冷静に考えるとすごい話だ。
7. 海外の名無しさん
捕虜収容所って、だいたい病気と死の温床になるからね。捕まえた側だって、そんなところに金と人手をかけたくない。帰ってもらうほうがよっぽど理にかなってる。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
アメリカの南北戦争がまさにそれ。どっちも捕虜を長く抱える準備なんてできてなくて、最初は交換を盛んにやってた。ところが1863年、北軍が黒人兵とその指揮官にも白人兵と同じ保護を求め、南部連合がそれを拒んだことで交換が止まる。そこから、ただでさえひどかった捕虜の暮らしが人道危機になっていった。いちばん悪名高いのがアンダーソンビルだ。
※注:アンダーソンビルは、南部連合がジョージア州に置いた捕虜収容所。過密と飢え、病気によって、多くの北軍捕虜が命を落とした。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
ちなみに「グラント将軍が南軍の兵を減らすために、わざと交換を止めた」ってよく言われるけど、アンダーソンビルの跡地を管理してるアメリカ国立公園局は、それを俗説だとはっきり書いてる。交換が止まった1863年の夏には、グラントはまだ北軍全体の指揮官ですらなかった。
10. 海外の名無しさん
軍隊を食わせるのは金がかかる。どこの国も農業頼みで、数年に一度は不作が来るのが当たり前の時代だ。見ず知らずの敵兵を何万人も養う理由がない。家に帰して、自分で食べてもらえばいい。それに、軍を率いてた貴族が神聖な誓いを破ったら、戦後は上流社会に顔を出せなくなる。当時の戦争は、半分くらいは上流社会での序列争いみたいなもんだった。仲間外れにされるのは戦争に負けるより痛いし、子どもの縁談にまで響くからね。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
選択肢なら他にもあったでしょ。捕まえた兵を始末するとか、二度と戦えない体にしてから帰すとか。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
それをやったら、自分の兵が捕まったときに同じ目に遭うだけだよ。それに、降伏すればまともに扱ってもらえると分かってる相手ほど、早めに降伏してくれる。最後の一人まで死に物狂いで戦われるより、ずっと勝ちやすい。だいたい相手は隣の国なんだから、働けない人間を国境の向こうに量産したって、勝ったあとでその土地を治めるときに困るのは自分たちだ。
13. 海外の名無しさん
将校は紳士として約束を守るものだと思われてた。敵味方に分かれてても、将校どうしは教育も文化も懐具合も似たようなもので、自分の部下の兵士より敵の将校のほうがよっぽど話が合ったりしたんだよ。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
「俺、実は将軍なんだけど」と言い張る二等兵。……まあ無理か。本物の将軍には軍服も副官も家名もあるし、当時の将軍なんて数えるほどしかいない貴族ばかりで、みんな互いの家のことくらい知ってた。すぐバレる。
15. 海外の名無しさん
ひとつ補足しておくと、約束は「『あなたたちとは』二度と戦わない」だったってこと。帰された兵が別の戦線に回されたら、そこにいた部隊が浮いて、結局こっちに来る。宣誓釈放がすたれた理由のひとつがこれ。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
独立戦争のサラトガで降伏したイギリス軍がまさにそれ。本国に帰す約束だったのに、アメリカの大陸会議は「帰した兵の分だけ、向こうの別の部隊がこっちに回されるだけだ」と言って実行を止めた。帰してもらえるはずだった兵からすればたまったもんじゃないけど、理屈としては筋が通ってる。
17. 海外の名無しさん
独立戦争の頃のイギリスにとって、アメリカ側はあくまで反乱を起こした植民地だった。反乱軍に正規の軍隊と同じ礼を尽くせば、相手を独立した国の軍隊だと認めることになる。だから将校が宣誓釈放された例はあっても、兵や水兵の扱いはかなりひどかった。エディンバラ城の地下の牢には、アメリカの私掠船の水兵が「海賊」扱いで入れられてて、交換してもらえる見込みもほとんどなかったらしい。
※注:私掠船は、政府の許可を得て敵国の船を襲う民間の武装船のこと。エディンバラ城の牢の扉には、1780年ごろに捕虜が刻んだとされる初期の星条旗の落書きがいまも残っている。
18. 海外の名無しさん
小説だけど、「ホーンブロワー」シリーズにまさにこういう話がある。スペインの捕虜になった主人公が、難破しかけたスペイン船の乗組員を助けに小舟で出て、そのまま流されてイギリスの軍艦に拾われるんだ。黙っていれば帰れるのに「逃げないと誓ったから」とわざわざスペインの牢に戻って、その態度に感じ入ったスペイン側が釈放してくれる。
※注:イギリスの作家C・S・フォレスターの海洋冒険小説。フランス革命からナポレオン戦争の時代のイギリス海軍士官、ホレイショ・ホーンブロワーの生涯を描く。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
『マスター・アンド・コマンダー』の原作シリーズだと、主人公のジャックがフランスの船に捕まったら、向こうの艦長がお客さんみたいにもてなしてくれて、嬉々として戦の思い出話をしてた記憶がある。アメリカに捕まったときも似たような扱いだったはず。
※注:パトリック・オブライアンの海洋小説シリーズ。2003年にラッセル・クロウ主演で映画化された。
20. 海外の名無しさん
こういう話、意外と最近まで残ってたんだよ。第一次大戦でドイツの捕虜になったイギリス軍の大尉が、死期の迫った母親に会うため、ドイツ皇帝に一時帰国を願い出て認められた。で、約束どおりちゃんとドイツの収容所に戻ってきてる。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
しかもその人、戻ったあとで仲間と9か月かけてトンネルを掘って、脱走を図ってるのが笑える。オランダ国境の手前で捕まったらしいけど。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
別に矛盾してないんだよ。約束したのは「母に会ったら戻る」であって、「解放されるまで逃げない」じゃない。宣誓釈放のあいだは相手と自分の名誉に対して義務を負うけど、捕虜に戻ったら、逃げるのは祖国への義務になる。それに、ここで約束を守っておけば、あとに続く誰かも同じ頼みを聞いてもらえるしね。
23. 海外の名無しさん
いまの戦争のルールも、結局は同じ仕組みで守られてるんだよね。片方が破れば、もう片方も破っていいことになる。各国の軍がおおむね戦争犯罪を避けてるのは、国際刑事裁判所が怖いからというより、相手に同じことをやり返されたくないからだ。パラシュートで降りてくる敵のパイロットを撃つのだって、戦術だけ見れば理にかなってる。次は自分がぶら下がる側かもしれない、と気づくまではね。
※注:損傷した航空機から脱出し、パラシュートで降下中の搭乗員を攻撃することは、現在はジュネーヴ条約の第一追加議定書(1977年)で禁じられている。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
逆の話もある。ドイツのパイロットのフランツ・シュティグラーは、ボロボロで反撃もできないアメリカのB-17爆撃機を見つけたのに撃たず、横に並んで海の上に出るまで見送った。戦後40年以上たってから、その機の機長と再会してるんだよね。
25. 海外の名無しさん
正直、第一次大戦のヴェルダンみたいな地獄の塹壕か捕虜収容所かって選ばされたら、俺は収容所を選ぶ。第二次大戦でアメリカやカナダに送られたドイツ兵の捕虜にも、自分の戦争が終わってほっとしてた人が多かったらしい。農場で働かされて、食事がよすぎてプロパガンダを疑った、なんて話まである。
まとめ
18世紀のヨーロッパでは、降伏した将校に「逃げない」「交換が済むまで戦わない」と誓わせ、敵地で暮らさせたり本国へ帰したりする宣誓釈放が広く行われていた。支えていたのは、捕虜を抱える費用の重さと、将校階級の名誉の約束事だ。コメント欄は、剣を持ったままでいられた話や交換レートから、誓いが崩れていくフランス革命期や南北戦争へと広がり、「いまの戦争のルールも、やり返されたくないから守られている」という指摘に行き着いた。
元ソース: 18世紀の多くの時期、降伏した軍隊は捕虜収容所に入れられるのではなく、「二度と戦わない」と約束して本国へ帰されることが多かったと知った

コメント
捕虜を食わせるのは大変だから南京後に日本も6000人ほど釈放した
そしたらそいつらが殺されると勘違いして抵抗始めたから武力鎮圧した
所謂大虐殺の元ネタのひとつ