「事故を起こした4号機と、最後まで動いていた3号機は同じ建屋の中にあった」チェルノブイリが2000年まで発電していた理由

「事故を起こした4号機と、最後まで動いていた3号機は同じ建屋の中にあった」チェルノブイリが2000年まで発電していた理由 歴史

1986年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所の4号機が爆発した。ここまでは、たいていの人が知っている。では、その発電所がいつまで電気を作り続けていたか、と聞かれたらどうだろう。答えは2000年12月である。しかも最後まで運転していたのは3号機で、その3号機は、吹き飛んだ4号機とひとつながりの建屋の中に並んで建っていた。

※注:「号機」は、同じ発電所の敷地に建てられた原子炉の一基一基を指す呼び方。チェルノブイリ原発には1号機から4号機まで4基があり、1986年に事故を起こしたのはそのうちの4号機だけだった。

今日の知ってた?

⚡ チェルノブイリ原子力発電所は、1986年の4号機の事故のあとも発電を続けた。全面的に停止したのは2000年12月15日で、事故から14年以上あとのことである。最後まで動いていたのは3号機で、この3号機は、破壊された4号機と同じ建屋を分け合う「対」の関係にあった。

背景:チェルノブイリは「4基そろった工場」だった

まず、規模の感覚を合わせておきたい。チェルノブイリ原発は原子炉が1基だけの施設ではない。1号機から4号機まで4基が横一列に並び、さらに5号機と6号機が建設中という、当時のソビエト連邦でも屈指の大型発電所だった。ここで使われていたのは黒鉛減速沸騰軽水圧力管型と呼ばれる形式の炉で、1基あたりの電気出力はおよそ100万キロワット。4基そろえば、大都市圏の消費をまるごと引き受けられるだけの量になる。

そして、この4基は「2基でひと組」という設計思想で建てられていた。1号機と2号機がひと組、3号機と4号機がもうひと組。組になった2基は、給水系統や換気設備、制御室の並びといった裏方の設備を分け合い、ひとつながりの構造物の中に収まっている。とくにタービン建屋は、1号機から4号機までを貫く一本の長い建物だった。事故の夜、消防士たちが屋根の上でくいとめようとしたのは、この長い建物に火が回ることだった。ここが燃え抜けていたら、残り3基もまとめて失われていた可能性がある。

つまり、4号機と3号機は隣家というより、二世帯住宅の左右だった。壁の向こうが崩れ落ちて手のつけられない状態になっても、こちら側の設備そのものは無傷で残っている。日本の報道でよく使われる「チェルノブイリ原発事故」という言い方は、施設全体が一度に失われたような印象を与えるが、実際に壊れたのは4基のうち1基である。残りの3基は、爆発の翌朝も、機械としてはまだ動く状態でそこに立っていた。

もう少し詳しく

4号機は1986年11月、コンクリートの構造物ですっぽり覆われた。日本語では「石棺」と訳されることが多い、あの覆いである。急ごしらえだったため、まったく新しく箱を建てたわけではなく、既存の建屋の壁や構造をそのまま利用した部分が多い。3号機の側から見ると、自分の建物の続きが、そのまま覆いの一部になっているという状態だった。3号機を再び動かすにあたっては、4号機との間に新たな隔壁が設けられ、換気や配管の系統が切り離された。物理的に離すことができない以上、内部で縁を切るしかなかったことになる。

再稼働は、驚くほど早い。1号機は事故から半年もたたない1986年10月に、2号機も同年11月に運転を再開している。覆いが完成した翌月、1987年12月には3号機も戻ってきた。壁一枚向こうに手のつけられない残骸があるまま、こちら側では制御室に運転員が座り、出力を調整し、送電線に電気を流していた。

なぜそこまでして動かしたのか。理由は単純で、代わりがなかったからである。ソビエト連邦の、そして1991年の独立以降はウクライナの電力供給にとって、100万キロワット級の炉が3基というのは、簡単に手放せる量ではない。仮に閉鎖を決めたとしても、その分をどこかから持ってこなければ、冬の暖房も工場も止まる。代替の発電所を先に用意しないかぎり、停止という選択肢はそもそも机の上に乗らない。停めるより動かすほうが危険に見えるのは、電気が足りている国から見た風景である。

では、誰がどうやって通勤していたのか。原発の西3キロほどにあったプリピャチは、原発で働く人とその家族のために作られた街だった。事故の翌日に住民は全員避難し、街はそのまま放棄されている。だが発電所を動かす以上、人は必要である。そこでソビエト当局は、原発から数十キロ東に離れた場所にスラヴティチという街を新しく建設した。1988年から入居が始まり、作業員は専用の通勤列車で発電所へ通った。住む場所は区域の外、働く場所は区域の中。この切り分けによって、被ばく量は「通勤の往復」と「勤務時間」という管理できる形に整理された。交代を頻繁に回し、個人ごとに線量を記録する運用も敷かれている。

停止は、一気に来たのではなく一基ずつ来た。まず2号機が、1991年のタービン建屋の火災で屋根の一部を失い、そのまま復帰しなかった。次に1号機1996年に停止する。そして最後まで残ったのが3号機だった。

3号機を止めたのは、機械の寿命ではなく交渉だった。1995年、ウクライナは主要国およびヨーロッパ側との覚書で、資金・技術支援と引き換えに、2000年までにチェルノブイリ原発を全面閉鎖することに合意する。代わりの電源を作る費用を外から出してもらう、という取り引きである。約束どおり2000年12月15日、式典の場で3号機は停止した。事故の記憶とともに語られる発電所が、その日ようやく電気を作るのをやめた。

そして、停止は終わりではない。原子炉は電源を切って施錠すれば片づくものではなく、燃料を抜き、系統を洗い、建屋を解体するまでに数十年かかる。急ごしらえの覆いも永久には持たないため、2010年代にはその上からさらに大きな新しいシェルターが被せられた。2000年は「発電をやめた年」であって、「片づいた年」ではない。今も現地には、後始末のために働く人たちがいる。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
事故を起こした原子炉の隣で、その後14年も普通に発電していたという部分が、いちばん飲み込みにくい。壁の向こうは人が近づけない状態なのに、こちら側では制御室に人が座って出力を調整していたわけで。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
発電所の建屋はもともと放射線を閉じ込める前提で作られているから、実は外より中のほうが遮蔽されている。爆発の力も外側へ抜けたので、壊れたのは4号機の周辺だけだった。事故の直後ですら、屋外にいるより建屋の別の区画にいるほうが安全だったと言われている。

3. 海外の名無しさん
原発を一基建てるのにかかる年月と費用を考えたら、まだ使える3基をまとめて捨てるという判断のほうがよほど難しい。壊れたのは4基のうち1基で、残りは機械としては何ともなかったわけだから。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
それに、抜けた分の電気をどこかから持ってくる当てが無かった。ある発電所をやめれば、その負担は必ず別の発電所に回る。代わりを先に建ててからでないと停められない、という順番の問題がある。

5. 海外の名無しさん
素朴な疑問なんだけど、あの状況で人はどうやって出勤していたんだろう。近くの街は丸ごと避難したはずだよね。まさか毎日あの中を歩いて通っていたわけでもないだろうし。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
街は放棄されたまま。作業員は、少し離れた場所に新しく作られた街から専用の列車で通っていた。住むのは区域の外、働くのは区域の中、という切り分け。通勤路と勤務時間が決まっていれば、浴びる量も計算できる範囲に収まる。

7. 海外の名無しさん(>>5への返信)
被ばく量は「どれだけ強い線源に」「どれだけ近く」「どれだけ長く」の掛け算で決まる。だから遮蔽された部屋で決められた時間だけ働く分には、数字はかなり抑えられる。本当に厄介なのは体の中に入れてしまうほうで、吸い込んだり飲み込んだりした場合は外から浴びるのとは話がまるで違う。

8. 海外の名無しさん
この手の話でよく出てくる3200という数字は熱出力で、電気になるのはそのうち100万キロワットぶん。残りは湯気になって出ていく。ここを混ぜると発電所の規模を三倍に見誤るので、比べるときは単位をそろえたほうがいい。

9. 海外の名無しさん
自分が気になるのは測定のほうだ。普通の原発は敷地の内外に高感度の検出器を並べて漏れを見つけるけれど、その敷地自体が既に汚れていたら、基準の線をどこに引くんだろう。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
その場所の平常値を測り直して、そこからの上ぶれを見る形にするしかない。細かい漏れは背景に埋もれてしまうけれど、少なくとも「急に増えた」は拾える。もっとも、大量にこぼした後で数キュリー増えたかどうかを気にするのが正しいのか、という問題は残る。

11. 海外の名無しさん
最後の1基を止めた理由が、安全上の限界ではなく交渉事だったというのが妙に生々しい。西側が資金を出す、代わりに閉じる。もしその取り引きが無かったら、今も回っていた可能性はけっこう高いと思う。

12. 海外の名無しさん
「ソ連だから逆らえずに働かされていた」という説明をときどき見かけるけれど、3号機が止まったのは2000年で、ソビエト連邦はその9年前に消えている。強制で説明できる期間のほうが短いんだよね。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
独立したばかりの国からすれば、むしろ手元にある数少ない大型電源で、手放したくない設備だったはず。冬に暖房を止めないために必要なものは、体制が変わっても変わらない。

14. 海外の名無しさん
2016年に建屋のすぐ近くまで行ったことがある。あのあたりの線量は、ヨーロッパの他の場所と比べて特別高いわけではなかった。ただし中に入るのと、地面を掘り返すのは別の話。当時も5000人規模の技術者が半年交代で入って、後片づけの作業をしていた。

15. 海外の名無しさん
立入制限区域を、人がまったく住めない荒野のように思っている人が多いけれど、実際には今も数百人が中で暮らしている。土を掘り返しさえしなければ、標高の高い都市より数値が低い場所すらある。体にいいとは言わないが、人が変異するような世界でもない。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
ただ、汚れ方がまだらなのが厄介で、区域の中でも桁が違う場所がある。だから自由に歩き回れるわけではなくて、線量計を持って決められた道を通る決まりになっている。森の一部のように、今も立ち入れないままの区画も残っている。

17. 海外の名無しさん
原発の面倒なところは、止めた瞬間に終わりにならないことだと思う。燃料を抜いて、建屋を解体して、と数十年かかる。2000年は発電をやめた年であって、片づいた年ではない。むしろここからのほうが長い。

18. 海外の名無しさん
日本の事故と重ねて読んでしまう人も多いと思う。ただ、こちらは同じ敷地の残りの号機を動かし続け、日本は事故のあと国内の原発を一度すべて止めた。どちらが正しいという話ではなく、代わりの電気を持ってくる当てがあるかどうかで、取れる選択肢が変わるということなんだろう。

19. 海外の名無しさん
当時そこで働いていた人の話を読むと、現場の空気は思ったより淡々としていたらしい。毎日線量計を提げて出勤して、決められた時間で交代して、数値が上がった人は別の持ち場に回される。恐怖というより、手続きの世界だったという。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
その淡々とした感じが、かえっていちばん想像しにくい部分かもしれない。壁の向こうに覆われた4号機があるのに、こちら側では日誌をつけて、交代して、家に帰る。理屈は分かっていても気持ちが追いつかなかった人は、当時も少なくなかったと思う。

21. 海外の名無しさん
救いがあるとすれば、通勤路がとにかく空いていたことだろうな。渋滞とは無縁だし、朝の列車で席が取れないという悩みも無さそうだ。世界一すいている通勤路線。

22. 海外の名無しさん
知らなかったのは自分だけかと思ったけれど、同じ反応の人が多くて少し安心した。1986年で記憶が止まっていて、そのあと14年ぶん動いていたという続きがまるごと抜け落ちていた。事故は終わりではなく、途中経過だったということか。

まとめ

チェルノブイリ原子力発電所は、1986年の4号機の事故のあとも発電を続けた。1号機と2号機は同じ年の10月に、破壊された4号機と建屋を分け合っていた3号機も1987年12月には運転を再開している。2号機は1991年の火災で、1号機は1996年に停止し、最後まで残った3号機が止まったのは2000年12月15日。しかもその理由は機械の限界ではなく、資金支援と引き換えに閉鎖するという1995年の合意だった。コメント欄では最初「よく人が働けたな」という驚きが並んだが、途中から「まだ使える3基を捨てられる国は多くない」「住む街を区域の外に作って列車で通わせた」という運用の話に移り、最後は「止めた年と片づいた年は別だ」という指摘で落ち着いた。事故は一つの終点ではなく、そこから十数年続いた運転と、いまも続く後片づけの入口だったという話である。

元ソース: チェルノブイリ原発は2000年12月まで運転を続け、電気を作っていた。破壊された4号機と建屋を共有していた3号機が、最後に停止した原子炉だった

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