「有翼騎兵3,000を含む1万8,000騎がオスマン軍に突撃した」史上最大と呼ばれる1683年ウィーンの騎兵突撃、その数字はどこまで本当か

「有翼騎兵3,000を含む1万8,000騎がオスマン軍に突撃した」史上最大と呼ばれる1683年ウィーンの騎兵突撃、その数字はどこまで本当か 歴史

1683年9月12日の夕方、ウィーンを見下ろす森の丘から、騎兵の大群がオスマン帝国軍の陣地へ駆け下りた。先頭にいたのは、背中に鳥の羽根の飾りを立てたポーランドの重騎兵「有翼騎兵(フサリア)」。この突撃は、海外では「史上最大の騎兵突撃」としてよく紹介される。ただ、何騎が走ったのか、本当に戦いを決めたのかは、資料によって話がかなり違う。

※注:オスマン帝国は、いまのトルコを中心に、中東・北アフリカ・バルカン半島までを治めた大国。当時は東ヨーロッパへ領土を広げていた。

今日の知ってた?

🐎 1683年の第二次ウィーン包囲で、ポーランド王ヤン3世ソビェスキ率いる連合軍が丘の上から騎兵で突撃し、2か月続いたオスマン軍の包囲を解いた。海外の投稿では「有翼騎兵3,000を含む1万8,000騎が、8万のオスマン軍に突撃した」とされる。ただし両軍の兵数は資料ごとに大きく違い、「史上最大」という呼び方にも決まった基準はない。

背景:第二次ウィーン包囲とは

オスマン軍がウィーンを囲んだのは2度目だった。1度目は1529年で、このときは攻め落とせずに引き揚げている。2度目の1683年は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世に対して、ハンガリーのプロテスタント勢力を率いるテケリ・イムレがオスマン帝国に出兵を求めたのが発端だった。百科事典ブリタニカによれば、これを受けて大宰相(スルタンに次ぐ政治と軍の最高責任者)のカラ・ムスタファが大軍を率いて進み、包囲が始まると皇帝は街を離れた。

包囲の始まりは7月の中旬。日付は資料によって7月14日(ウィーン市の歴史事典「ウィーン歴史ウィキ」、米ヒストリーネット)、15日(当時の英国の速報冊子)、17日(ブリタニカ)と少しずつずれる。オスマン軍は外側の防御施設を奪い、城壁の下へトンネルを掘り進めて地雷を仕掛けた。ドイツ歴史研究所の史料集によれば、街を守っていたのはおよそ1万2,000人で、攻める側との差は10倍を超えていた。守備隊は2か月持ちこたえたが、食料も兵も尽きかけていた。ブリタニカは、このときのオスマン軍は1529年よりも陥落に近づいていたという見方が一般的だとしている。

救援軍の集結には時間がかかった。ローマ教皇インノケンティウス11世はまずフランス王ルイ14世に援軍を頼んだが断られ、ポーランドに多額の資金を出して参戦を求めた。そこにロレーヌ公シャルル(ドイツ語ではカール)の率いる皇帝軍、ザクセンとバイエルンの選帝侯、ドイツ諸侯の軍が加わり、総指揮をソビェスキが執った。救援軍はウィーンの西に広がる森を抜け、9月11日までに街を見下ろすカーレンベルクの丘一帯に陣を敷いた。

この年は、日本では天和3年にあたる。5代将軍・徳川綱吉の治世が始まって3年目で、島原の乱(1637〜38年)から45年ほどがたち、国内では大きな戦のない時代が続いていた。ヨーロッパでは同じころ、十数万から20万を超える兵がひとつの都市をめぐってぶつかっていたことになる。

もう少し詳しく

兵数は資料によって倍近く違う。海外の投稿にある「オスマン軍8万」という数字は、実はブリタニカでは救援軍の側の数字で、ブリタニカはオスマン軍を15万としている。ドイツ歴史研究所の史料集も15万。一方、歴史家アンソニー・パグデンがヒストリーネットに書いた記事では、オスマン軍は実戦力でおよそ9万、救援軍はおよそ6万とされる。当時の英国の速報冊子は「20万の兵で攻めた」と書いていて、味方の勝利を大きく見せたい当時の記録ほど敵の数は膨らみやすい。「有翼騎兵3,000を含む1万8,000騎」という突撃の規模も、今回確かめたブリタニカとヒストリーネットの記事には出てこない。コメント欄にも「騎兵は全部で3万4,000ほどいた」という声があり、何を「1回の突撃」と数えるかで数字は大きく変わる。「史上最大の騎兵突撃」は、こうした数字の一つを根拠にした呼び名と考えたほうがいい。

突撃は戦いの最後にやってきた。ブリタニカによると、戦闘は9月12日の朝に始まり、15時間に及んだ。ヒストリーネットの記事では、午後4時ごろに連合軍が全線で前進し、日が傾くころにソビェスキが有翼騎兵を先頭に騎兵を率いて丘を駆け下り、オスマン軍の陣地へ突入した。同時に街の守備隊も城壁の外へ打って出て、反対側から挟み撃ちにした。カラ・ムスタファは、救援軍が森を越えてくるとは考えず、カーレンベルクの丘をほとんど守っていなかったとされる。コメント欄では「歩兵がすでに勝負をつけていて、騎兵は退き始めた敵を追い散らしただけ」という指摘も多い。歩兵の戦いで崩れかけていた敵に、騎兵が最後の一撃を加えた、というのが実態に近そうだ。

「翼」が何のためだったのかは、よく分かっていない。有翼騎兵は、背中か鞍に羽根の飾り(翼)を付けていた。オスプレイ社から出ているリチャード・ブジェジンスキの研究書(2006年)の書評によれば、その目的については、戦功の印、刀や投げ縄から身を守るため、といった説があり、当時の記録のほとんどは「敵と敵の馬を怖がらせるため」と書いている。ただし、行軍に持って行ったことは記録で分かっていても、実際の戦闘で着けていたかどうかははっきりしない。主な武器は長さ4〜5メートルの槍で、同じ書評は、長槍の歩兵を相手に勝てたのはほとんどの場合、味方の歩兵の助けがあったからだという研究書の見方も紹介している。ウィーンは、有翼騎兵が挙げた最後の大勝利とされる。

敗れた大宰相と、残された陣地。ブリタニカによると、大宰相の赤い天幕は爆破されたが本人は逃げ延び、勝った側の兵と市民が、オスマン軍の陣地に残された物資を集めるのに1週間かかったという。ソビェスキは教皇に「われら来たり、見たり、神が勝ちたまえり」と書き送った。カエサルの「来た、見た、勝った」をもじった言葉である。カラ・ムスタファは退却先のベオグラードで、同じ年の12月25日、スルタンの命令により絹のひもで絞首された。ウィーン歴史ウィキによれば、その頭骨とされるものはのちにウィーンに渡り、1886年に市の歴史博物館(現在のウィーン・ミュージアム)へ移された。ブリタニカは、この包囲の失敗が東ヨーロッパにおけるオスマン支配の「終わりの始まり」になったとしている。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
歴史の記録には、もう二度と破られないものがあるんだよな。これなんかたぶん永遠に「史上最大の騎兵突撃」のままだ。人類が工業化以前に戻って、また馬で戦い始めない限りは。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
第二次大戦の爆撃機の数もそうだよな。1,000機以上でドイツの都市を爆撃するなんてことが普通にあった。プロペラ機の大編隊の音に爆弾、対空砲、戦闘機まで加わるんだから、想像しただけで気が遠くなる。

3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
第二次大戦中のイギリス領インド軍も、史上最大の志願兵の軍隊だったって言われてるね。あれもまず更新されないと思う。

4. 海外の名無しさん
有翼騎兵って聞くと、どうしてもサバトン(スウェーデンのメタルバンド)の曲が頭の中で流れ出す。この戦いを歌った曲があって、そのせいで有翼騎兵を知った人がたぶん世界中にいる。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
分かる。コメント欄が歌詞の引用で埋まるのは毎回のお約束だよな。俺もあの曲から入って、気づいたらウィーン包囲の本を2冊買ってた。

6. 海外の名無しさん
前の投稿にも書いたけど、あらためて。当時、城や城壁で囲まれた街を落とすのがどれだけ大変だったか。守る側1人に対して攻める側が10人から20人いても、守り切れることが多かった。オスマン軍は当時としては最高レベルの補給力を持ってたけど、それでもかなり苦しんでる。包囲戦は時間も兵も食うんだ。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
10倍の差がありながら、ウィーンの守備隊はオスマン軍に相当な損害を与えてる。包囲の間の死者だけで、守備隊の何倍にもなったらしい。最後の決戦での損害よりずっと多い。救援が来なかったら落ちてただろうけど、攻める側の代償もとんでもなかった。

8. 海外の名無しさん(>>6への返信)
フランスも何百もの城を趣味で建てたわけじゃないからね。あれは本気でよくできた防御施設だった。

9. 海外の名無しさん
ちょっと補足すると、これは『ロード・オブ・ザ・リング』で騎馬の民が駆けつけて逆転する、みたいな場面じゃない。連合軍の歩兵がほぼ勝負を決めていて、ソビェスキの突撃は「せっかくだから派手に突っ込みたい」と「1週間後にまた同じ戦いをしたくないから、逃げる敵を騎兵で追い散らしておこう」の両方だったと思う。歴史好きとしては残念だけど、騎兵の突撃が戦いを決めたことって実はほとんどないんだよ。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
決めてはいたんだよ。ただ、決めたのはだいたい「次の戦い」だった。逃げる軍を騎兵が追い散らしておけば、相手は立て直せなくなる。

11. 海外の名無しさん(>>9への返信)
同じことを言おうとしてた。突撃したとき、敵はもう退き始めていた。帝国軍の歩兵がほぼ勝っていて、有翼騎兵は退却を総崩れに変えた、というのが実際のところ。見落とされがちな話だよね。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
昔の戦いで死者が一番多く出たのは、退却する軍が騎兵に追いつかれたときだったって聞いたことがある。だから「追い散らしただけ」は、決して軽い役目じゃない。

13. 海外の名無しさん
前にも書いたけど、試しに8キロくらい歩いてみてほしい。4歩ごとに1頭の馬がいると考えたら、それがオスマン軍に向かってきた最前列の控えめな見積もりだ。人と馬のかたまりの大きさが想像を超えてる。戦略ゲームはさんざんやってきたけど、それでもピンとこない。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
その最前列で1頭が転んだらと思うとゾッとする。後ろから何千頭も来てるんだぞ。

15. 海外の名無しさん
ちょっと訂正。騎兵は1万8,000じゃなくて、およそ3万4,000いた。ポーランド・リトアニアが1万4,000、オーストリアの皇帝軍が1万3,000、ほかにバイエルン、ザクセン、ドイツ南西部の諸侯の騎兵がいる。ドイツ語版のウィキペディアのほうがずっと詳しく書いてあるよ。

※ 兵数は資料によって大きく違う。ブリタニカは救援軍全体を8万、ヒストリーネットの記事は約6万としている(本文「もう少し詳しく」参照)。

16. 海外の名無しさん
聞いた話だと、クロワッサンはこの戦いから生まれたんだって。オスマン帝国の旗にある三日月の形をまねたパンだとか。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
クロワッサンの話は伝説だよ。本当にそうだったかは誰にも分からない。それっぽい話を事実みたいに広めるのはやめようぜ。

※ 三日月形のパンがウィーン包囲のときに作られたという話は、ウィーン市の歴史事典「ウィーン歴史ウィキ」で「歴史的に成り立たない」とされている。クロワッサンの元とされるウィーンのパン「キプフェル」は、13世紀の記録にすでに名前が出てくる。

18. 海外の名無しさん(>>16への返信)
それだけじゃない。退却したオスマン軍がコーヒー豆を置いていって、それが何か知ってた人が豆を取っておいてコーヒー店を開いた。それがウィーンのカフェの始まり、って話もある。

※ この「最初のカフェ」の話も、ウィーン歴史ウィキでは研究者によって否定された伝説とされる。記録に残る最初のコーヒー販売の許可は、1685年1月にアルメニア人の商人ヨハネス・デオダートに出されたもの。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
伝説だとしても、敵が置いていった豆で店を開くって発想は商売人として最高ランクだと思う。

20. 海外の名無しさん(>>17への返信)
こういう「ちょっといい話」は、本や観光ツアーを売るために昔から繰り返されてきた通俗の歴史なんだよな。三日月形のパンを見ると、つい話したくなる気持ちは分かるけど。

21. 海外の名無しさん
史上最大の騎兵突撃? ローハンの騎士たちのほうが上だろ。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
あれは6,000か7,000騎しかいないぞ。数で言えばウィーンの圧勝だ。

23. 海外の名無しさん
アメリカの学校ではウィーン包囲なんて一度も習わなかった。でもテルモピュライやワーテルローやスターリングラードと並べてもいいくらい、ヨーロッパの歴史の分かれ目になった戦いだと思う。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
ただ、勝利そのものより、その後に語られた「勝利の物語」のほうが影響が大きかった気もする。テルモピュライと同じで、何百年も英雄譚として繰り返されて、そのたびに都合よく使われてきたからね。

25. 海外の名無しさん
背中に羽根を付けた騎兵が丘の上から何千騎も降りてくるのを、下の陣地から見上げた側の気持ちを考えると、それだけで十分怖い。翼が何のためだったにせよ、見た目の効果は抜群だったはずだ。

まとめ

1683年、2か月にわたるオスマン軍の包囲で落ちる寸前だったウィーンを、ソビェスキの連合軍が救った。最後の局面で丘を駆け下りた有翼騎兵の突撃はいまも語り草だが、両軍の兵数は資料ごとに倍近く違い、「1万8,000騎」も「史上最大」も決まった数え方があるわけではない。コメント欄では、歩兵がすでに勝負をつけていて騎兵は退く敵を追い散らした、という指摘が目立った。クロワッサンや最初のカフェの話には「それは伝説だ」とすぐに声が上がり、伝説ができるほど人の心に残った戦いだったことがうかがえる。

参考資料

元ソース: 今日知った:史上最大の騎兵突撃は1683年のウィーンの戦いで、有名なポーランドの「有翼騎兵」3,000を含む1万8,000騎が、8万のオスマン軍に突撃したものだった

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