「100ドルで買った80エーカーを、144の区画に分けて売った」奴隷だった男性が、自分を含む一族16人の自由を買い取るまで

「100ドルで買った80エーカーを、144の区画に分けて売った」奴隷だった男性が、自分を含む一族16人の自由を買い取るまで 歴史

自分の自由を800ドルで買い取ったとき、彼はもう40歳を過ぎていた。そこから土地を買い、町を作り、区画を売った代金も注ぎ込んで、奴隷のまま残された家族の自由を一人ずつ買い取っていく——。アメリカ・イリノイ州の「ニューフィラデルフィア」は、奴隷として生まれた“フリー・フランク”ことフランク・マクウォーターが1836年に作った町で、アフリカ系アメリカ人が正式に登記したアメリカ初の町とされている。

※注:アメリカで奴隷制が全国的に廃止されたのは、南北戦争が終わった1865年のこと。それまでのアメリカは、南部を中心とした奴隷制を認める州(奴隷州)と、認めない州(自由州)に分かれていた。

今日の知ってた?

🏘️ 1777年に奴隷として生まれたフランク・マクウォーターは、働いて貯めたお金で1817年に妻ルーシー1819年に自分自身の自由を、それぞれ800ドルで買い取った。1835年にはイリノイ州で80エーカー(約32ヘクタール)の土地を100ドルで購入。翌1836年、そのうち42エーカーを144区画に分けた町ニューフィラデルフィアを登記した。賃仕事や硝石の商売、のちには区画の売上も元手にして、本人を含む一族16人の自由を買い取り、費やした額は総額およそ1万4,000ドルにのぼった。

背景:奴隷が「自分の自由を買う」とは

当時のアメリカの奴隷州では、奴隷は法律上「所有物」として扱われ、売り買いの対象だった。家族であっても、別々の相手に売られて引き離されることがあった。奴隷が自由の身分を得る方法の一つが、所有者に代金を払って自分を「買い取る」ことだったが、それには所有者の同意が要るうえ、そもそも奴隷がお金を貯める機会はほとんどなかった。

フランクは1777年、サウスカロライナ州で生まれた。母ジュダは西アフリカ出身の奴隷の女性で、父親は母の所有者だった白人の農園主だと考えられている。1795年、所有者に連れられてケンタッキー州の開拓地へ移り、近くの農場で奴隷として暮らしていたルーシーと結婚した。

彼がお金を稼げたのは、所有者の仕事がない空き時間に、ほかの開拓者に雇われて働くことを許されていたからだ。所有者がそれを認めたのは、稼ぎの一部を自分の取り分として受け取れたから。アメリカ国立公園局は、こうして収入を得る機会は多くの奴隷にはなかったと説明している。

もう少し詳しく

戦争で値上がりした「硝石」。フランクは空き時間に、地元の洞窟で硝石を掘り出して売る仕事も始めた。硝石は火薬の原料で、開拓地の暮らしに欠かせないうえ、1812年に始まった米英戦争で需要が一気に高まった。アメリカ国立公文書館のブログによれば、硝石の値段は1810年に1ポンド(約450グラム)17セントだったのが、1812年には1ドルまで跳ね上がったという。

まず身ごもった妻を、2年後に自分を。1817年、フランクは妊娠中だった妻ルーシーの自由を800ドルで買い取った。当時の奴隷州では、子どもが奴隷になるかどうかは母親の身分で決まった。妻を先に自由にしたことで、そのあと生まれた息子スクワイアは、生まれながらの自由人になった。フランクが同じく800ドルで自分の自由を買ったのは1819年。人生の最初の40年あまりを奴隷として過ごしたあとのことで、以後、彼は「フリー・フランク(自由人フランク)」と呼ばれるようになる。

事業と引き換えに息子を。1829年、フランクはもうかっていた硝石の事業を手放し、それと引き換えに、自分と同じ名前の息子フランクの自由を手に入れた。息子は奴隷の身から逃げ出し、カナダで逃亡者として暮らしていたが、この取引によって自由人として家族のもとへ戻ることができた。

自由州へ、ただし家族の一部を残して。1830年、フランクは妻と、自由の身になっていた子どもたちを連れて、奴隷制を認めないイリノイ州へ移った。ただし、奴隷として生まれた子ども3人と何人かの孫は、ケンタッキーに残されたままだった。イリノイは自由州とはいえ、黒人の暮らしを細かく縛る法律があり、元奴隷が州に移り住むには1,000ドルの保証金が求められていた。

100ドルで80エーカー。1835年、フランクは連邦政府から80エーカー(約32ヘクタール、東京ドーム約7個分)の土地を100ドルで買った。当時、連邦政府が売り出す公有地の最低価格は1エーカーあたり1.25ドルで、80エーカーならちょうど100ドルになる。翌1836年、彼はこのうち42エーカー(約17ヘクタール)を、1区画およそ18メートル×37メートルの144区画に分けて町として登記し、黒人にも白人にも区画を売った。

名字を名乗るための請願。1837年、フランクはイリノイ州議会に請願して、「マクウォーター」という名字を法的に名乗ることを認められた。土地などの財産を守り、法的な権利を得るためだった。請願書には、土地を売った収入は奴隷のままの家族の自由を買うのにあてるつもりだと書かれ、地元パイク郡の白人住民14人が彼の人柄を保証していた。

一族16人、総額1万4,000ドル。フランクは農業と区画の売上で得たお金を貯めて、家族の自由をさらに買い取っていった。国立公園局によると、自由を買い取ったのは本人と妻を含む一族16人、費やした額は総額でおよそ1万4,000ドル(同局の説明では2023年の価値で約50万ドル)。1854年に亡くなったときも、まだ奴隷のままの孫やひ孫がいたため、彼は遺言でその自由も買い取るよう子孫に託した。残された遺産で、さらに7人が自由になったとされる。

地下鉄道の中継地に。奴隷州のミズーリからわずか20マイル(約32キロ)の場所にあったこの町は、やがて「地下鉄道」の中継地になったと伝えられている。地下鉄道とは、南部から逃げてきた奴隷を北部やカナダへ逃がした秘密の支援ネットワークのことで、本物の鉄道ではない。国立公園局によれば、フランクの息子たちが逃亡者に付き添って、カナダを目指したこともあったという。

鉄道に素通りされた町。町の人口がいちばん多かったのは1865年ごろだが、それでも多く見積もって160人ほどの小さな町だった。1869年に新しい鉄道が町を通らずに敷かれると、住民は少しずつ離れていき、建物も地上から姿を消した。2000年代に入って本格的な発掘調査が行われ、数多くの遺物が見つかっている。2009年には国定歴史ランドマークに、2022年12月には国立公園局が管理する国立史跡になった。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
国立公園局の説明をざっくりまとめると、1777年に奴隷として生まれて、空き時間の賃仕事と硝石の採掘でお金を貯め、1817年に奥さん、1819年に自分の自由を買った。1835年にイリノイで80エーカーを100ドルで買って、翌年に町を作ってる。区画は黒人にも白人にも売ってたらしい。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
素朴な疑問なんだけど、奴隷の身分でどうやってお金を貯められたの? 働いた分なんて、全部持ち主に取られてしまいそうなものだけど。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
記事に書いてあるよ。持ち主の仕事がない時間に、よその開拓者に雇われて働くことを許されてたんだって。持ち主がそれを認めたのは、稼ぎの一部を取れたから。つまり自分の自由を買うための貯金からも、ずっと上前をはねられてたってこと。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
しかも国立公園局は、こうやって稼ぐ機会なんて多くの奴隷にはなかったって書いてる。本人の努力がすごいのは大前提として、そもそも挑戦できる立場にいたこと自体がかなり珍しかったんだよね。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
運が悪いのか良いのか、わからなくなる人生だよ。奴隷として生まれた時点でとんでもなく不運なのに、その中では数少ないチャンスをつかめた側だったわけだから。

6. 海外の名無しさん
自分より先に奥さんの自由を買ってるところで、ちょっと泣きそうになった。40年以上も奴隷だった人が、自分じゃなくてまず奥さんを選んだんだよ。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
愛情もあったと思うけど、理由はそれだけじゃないはず。当時は子どもが奴隷になるかどうかが母親の身分で決まったから、身ごもってた奥さんを先に自由にすれば、生まれてくる子は自由人になれる。実際、そのあと生まれた息子は生まれつき自由だった。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
それに奴隷のままだと、いつ遠くへ売られて引き離されるかわからない。先に奥さんを買い取ったのは、二度と会えなくなる危険をなくすためでもあったんじゃないかな。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
女性の奴隷は、持ち主からの暴力にもさらされやすかったしね。「愛情か、子どものためか」のどれか一つじゃなくて、全部ひっくるめて一日でも早く自由にしなきゃいけなかったんだと思う。

10. 海外の名無しさん
100ドルで80エーカー!?と一瞬のけぞったけど、1830年代のイリノイはまだ開拓地だったんだよね。土地はいくらでもあるのに人が足りない時代なんだから、安いのは当たり前か。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
当時の100ドルが今でいくらになるのか調べてみたら、物価で換算するか、当時の人の稼ぎで換算するかで、数千ドルから10万ドル超まで全然違う数字が出てきた。昔のお金を今の値段に置き換えるのって、思ってたよりずっと難しい。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
持ち主に取り分を払いながら、800ドルを2回、さらに土地代まで貯めたってことだもんね。どの換算で見ても、気が遠くなる額なのは変わらないよ。

13. 海外の名無しさん(>>10への返信)
今でもアメリカの田舎には、井戸すらない荒れ地が驚くほど安く売られてる。開拓者が住み心地のいい家に引っ越してきたと思ったら大間違いで、手に入るのは何もない土地だけ。道も家も、そこから全部自分たちで作るんだよ。

14. 海外の名無しさん
イリノイ生まれでずっと住んでるのに、この話は初耳だったから調べてみた。町は144区画で、人口はいちばん多い時期でも160人ほど。南北戦争のあと鉄道に素通りされて、よくある田舎町と同じようにさびれていったらしい。今は大学などの発掘調査も行われてきた国立史跡になってる。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
国立公園になる前に、あそこの発掘と保存の作業に関わったことがある。正直、地上にはほとんど何も残ってないよ。建物の基礎が土の下に眠ってるだけ。それでも、ここに町があったんだと思いながら掘るのは不思議な感覚だった。

16. 海外の名無しさん
何もない土地を見て「ここに町を作って区画を売ろう」って思いつくのがすごい。家族の自由を買うお金を、土地を切り分けて売って作る発想。今で言ったら完全に起業家だよ。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
起業家って言うと前向きなサクセスストーリーに聞こえるけど、そうでもしなきゃ家族が奴隷のままだったんだよね。区画が1つ売れるたびに、誰かの自由に一歩近づく。そういう切実な商売だったんだと思う。

18. 海外の名無しさん
自由人になったあと、名字を法的に名乗るために州議会に請願して、しかも白人の住民14人に人柄を保証してもらってるんだよね。自由になってからも、一つ一つ誰かに認めてもらわないと前に進めなかった。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
イリノイは奴隷制のない自由州だったのに、元奴隷が移り住むには1,000ドルの保証金が必要だったって話もある。法律の上で「自由」でも、実際に自由に暮らせるかどうかはまた別の問題なんだよ。

20. 海外の名無しさん
自分の自由をお金で買えた奴隷がいたんだから、奴隷制だって「自由な市場」の一部だった……と真顔で言う人に、本当に会ったことがある。この話をそういうふうに使う人がいるのが悲しい。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
そもそも自分の自由に値段がついてる時点でおかしいし、南部の多くの州では、時代が下るほど持ち主が奴隷を解放すること自体が法律で厳しく制限されていった。これは「制度がまともだった証拠」じゃなくて、「そんな制度の中でここまでやった人がいた」って話だよ。

22. 海外の名無しさん
1829年に、もうかっていた硝石の事業を手放して、カナダに逃げてた息子の自由と引き換えにしてるのが胸にくる。何年もかけて築いた商売より、息子が堂々と家族のもとへ帰ってこられることを選んだんだね。

23. 海外の名無しさん
1854年に亡くなったときも、まだ奴隷のままの孫やひ孫がいて、遺言でその自由も買うよう子孫に託したらしい。町を作って、土地を売って、それでも一代では全員に手が届かなかった。「そこまでやっても」ってところがいちばん重い。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
しかも町は地下鉄道の中継地にもなってて、息子たちが逃亡者に付き添ってカナダを目指したこともあったんだって。自分の家族を買い戻すだけじゃなくて、よその人の逃亡まで手伝ってたのか。この一家には本当に頭が上がらない。

25. 海外の名無しさん
「フリー・フランク」っていう呼び名が好きだ。自由になってから、国勢調査の記録にもこの名前で載ってるらしい。40年以上も奴隷として生きてきた人にとって、名前の頭に「自由」がつくことがどれだけ大きかったか。

まとめ

奴隷として生まれたフランク・マクウォーターは、空き時間の賃仕事と硝石の採掘で貯めたお金で妻と自分の自由を買い、イリノイに町を作って区画を売り、本人を含む一族16人の自由を買い取った。コメント欄では、その行動力に驚く声と並んで、稼ぎの一部を持ち主に取られながらの貯金だったこと、妻を先に自由にした理由、自由州に移っても続いた制約など、「いい話」の裏にある重さに目を向ける声が多かった。

元ソース: 奴隷だった男性が自分の自由を買い取り、その貯金で80エーカーの土地を100ドルで購入。黒人が法的に登記したアメリカ初の町を作り、区画を売って家族16人を奴隷の身分から買い戻した

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