「頭を剃り、辮髪を付けて清の茶産地へ」茶の木を持ち出した英国人フォーチュンは、のちに幕末の江戸で染井の植木屋に驚いていた…

「頭を剃り、辮髪を付けて清の茶産地へ」茶の木を持ち出した英国人フォーチュンは、のちに幕末の江戸で染井の植木屋に驚いていた… 歴史

19世紀の半ば、英国からやって来た一人の植物採集家が、頭を剃り、辮髪(べんぱつ)を付け、清の服に着替えて、外国人が入れなかった中国の内陸へ入っていきました。目当ては、英国が清から買うしかなかった「お茶」の木と、その作り方です。道中で主人の素性を聞かれた召使いは、決まって「万里の長城の向こうの遠い国から来た旦那さまです」と答えていたといいます。

※注:辮髪は、頭髪の一部を剃り、残した髪を長く編んで背中に垂らす髪型です。もとは満洲族の風習で、清は中国を支配すると「薙髪令(ちはつれい)」を出し、1645年からは漢民族にも厳しく強制しました。拒む者は死刑とされ、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」と言われるほど徹底されたと伝わります。

今日の知ってた?

🍵 1848年、英国東インド会社の依頼を受けたスコットランド出身の植物採集家ロバート・フォーチュンが清に渡り、清の服と辮髪で中国人になりすまして、外国人には閉ざされていた内陸の茶産地に入った。

📦 集めた茶の苗と種は、「ウォードの箱」と呼ばれる密閉式のガラス箱で英領インドへ運ばれた。本人の著書によれば、ヒマラヤの茶園に届けたのは茶の木およそ2万本と、契約で雇った中国人の職人8人、それに製茶の道具一式。

⚖️ ただし、インドの茶づくりがここから始まったわけではない。アッサムでは1820年代に自生の茶の木が知られていて、フォーチュンの功績は語られるほど大きくなかった、という見方もある。

背景:英国はなぜ茶の木を欲しがったのか

19世紀の英国では、茶はすでに暮らしに欠かせない飲み物になっていました。ところが、その茶は清から買うしかありません。英国には清へ大量に売れる品物がなく、代金として銀が出ていく一方でした。そこで英国は、植民地のインドで作らせたアヘンを清に密輸し、出ていった銀を取り戻す仕組みを作ります。世界史の授業で習う「三角貿易」です。

清がアヘンの取り締まりに乗り出すと、英国は1840年に戦争を始めました。アヘン戦争です。1842年の南京条約で、清は香港島を英国に譲り、広州・厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海の5つの港を開きました。

それでも、外国人が動けるのは開かれた港とその周辺だけ。茶の木がどう育てられ、葉がどう加工されているのかを、英国側はよく知りませんでした。フォーチュンによれば、少し前までは多くの人が、緑茶と紅茶は別々の種類の木からしか作れないと信じていたほどです。フォーチュンは産地を歩いて、どちらも同じ木の葉から作ることができ、違いは加工のしかたにあると報告しています。

英国東インド会社は、インドのヒマラヤ山麓ですでに茶の栽培を試みていました。ただ、フォーチュン自身の説明では、そこに植えられていたのは清の南部から来た質の落ちる品種で、すでに雇われていた中国人の職人も、腕は一流とは言えませんでした。もっと良い産地の木と、腕のいい職人が欲しい。そこで会社が送り出したのがフォーチュンです。スコットランド生まれの園芸家で、1843年から3年間、ロンドン園芸協会の依頼で清に渡り、植物を集めて回った経験がありました。1848年6月に英国を発ち、8月に香港へ着いています。

もう少し詳しく

変装は、召使いが出した条件だった。ここからの話は、フォーチュンが1852年に出した旅行記(A Journey to the Tea Countries of China)に本人が書いていることです。1848年の秋、フォーチュンは上海から、緑茶の名産地として知られた徽州(きしゅう、現在の安徽省南部)を目指しました。上海や寧波から200マイル(約320キロ)以上も内陸にあり、本人いわく「ヨーロッパ人には閉ざされた土地」です。同行する中国人の召使い2人は、「英国の服をやめて、この国の服を着ること」を条件に出しました。フォーチュンは清の服に着替え、以前の旅で使った辮髪を床屋に整えさせて、自分の髪に結び付けます。

頭を剃る役は、気の利くほうの召使いが熱を出して寝込んでいたため、荷運び役のもう一人に回ってきました。慣れない手つきでカミソリを当てられたフォーチュンは、「剃るというより削られた。涙が頬を流れ落ち、痛みに声を上げた」と書いています。船頭たちは船室をのぞき込んで、その様子を面白がっていたそうです。道中は「シン・ワ」という名前で通しました。

翌年、紅茶の産地として名高い武夷山(ぶいさん、福建省)へ向かった旅では、別の召使いが「ご主人はどなたか」と聞かれるたびに、「万里の長城の向こうの遠い国から来た旦那さまです」と答えていました。寺に泊まったときは「この土地の言葉は話せない」ということにして、受け答えを召使いに任せています。「韃靼(だったん)から来た役人」と紹介されたこともあり、年老いた僧にひれ伏されて、真顔を保つのに苦労したとか。元スレッドのタイトルにある「遠い地方の役人を装った」は、このあたりの記述がもとになっているようです。どれも本人の旅行記に出てくる場面なので、多少の脚色はあるかもしれません。

苗を運んだのは「小さな温室」。集めた茶の木を、どうやって生きたままインドまで運ぶか。フォーチュンが使ったのが「ウォードの箱」でした。1829年ごろにロンドンの医師ナサニエル・ウォードが考え出した、木の枠にガラスをはめた密閉式の箱です。中の水分が外へ逃げないので、水をやらなくても植物が長い航海に耐えられます。コメント欄で「テラリウムで密輸した」と言われているのは、この箱のことです。

種のほうは苦労しました。1848年の秋、布の袋に入れたり、乾いた土と一緒に箱へ詰めたりしてインドへ送った種は、ほとんどうまくいきませんでした。茶の種は土から出すと、すぐに芽を出す力を失ってしまうからです。翌1849年、フォーチュンは、ウォードの箱の土に種をまいてから密閉して送る方法を試します。箱がカルカッタ(現在のコルカタ)に着いたとき、種は船の上で芽を出していました。

1851年2月、フォーチュンはガラス箱16個と職人たちを連れて上海を発ち、3月にカルカッタへ着きます。そこから川船と荷車を乗り継いで北西へ進み、ヒマラヤ山麓に近いサハーランプルで箱を開けると、1万2838本の苗が数えられ、ほかにもたくさんの種が芽を出しかけていた、と本人は書いています。

元スレッドのタイトルは「種2万粒」としていますが、本人の著書は、序文で「2万本を超える茶の木」、本文で「2万本近く」と書いています。19世紀末に出た英国の人名事典では「苗木2000本と、芽を出した種1万7000粒」。数え方で数字は変わるものの、数年がかりで運んだ量はおよそ2万、というところのようです。

「外国人は色つきが好きらしいので」。徽州の製茶工場で、フォーチュンは妙な作業を目にしました。輸出用の緑茶の仕上げに、青い粉を振りかけていたのです。粉の正体は、紺青(こんじょう、プルシアンブルー)という青い顔料と、焼いて砕いた石膏を混ぜたもの。火入れが終わる5分ほど前に、鍋の茶葉へさじで振りかけ、職人が両手でかき混ぜます。時間は線香で計っていて、職人たちの手は真っ青だったそうです。

理由について、フォーチュンは、緑茶の産地から来た人たちが上海で英国人に語った説明を書き留めています。何も混ぜないほうが茶はおいしいし、自分たちは色を付けた茶は飲まない。けれど外国人は、見た目がそろったきれいな茶を好むようだ。材料は安いし、そういう茶のほうが高く売れる——。フォーチュンの計算では、着色した緑茶を100ポンド(約45キロ)飲む人は、紺青と石膏を合わせて半ポンド(約230グラム)以上、一緒に飲んでいることになります。本人は「文明国の人々が、自然な緑色の茶よりも色を付けた茶を好むとは、まったくばかげている」とあきれ、粉の見本を1851年のロンドン万国博覧会に送りました。

※注:紺青は18世紀の初めにベルリンで作られた合成の顔料です。日本では「ベロ藍」と呼ばれ、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵の青にも使われました。

「インドの茶を作った男」とまでは言えない。この話は、一人の男が清の茶の独占を崩した、という形で語られがちです。けれども、確かめられる事実はもう少し地味です。

まず、インドにはもともと茶の木がありました。北東部のアッサムでは、1823年にスコットランド人のロバート・ブルースが、現地のシンポー族が葉を飲み物にしている木のことを知ります。1830年代にはこれが茶の一種だと確かめられ、1838年にはアッサム産の茶がロンドンへ送られて、翌年1月に競売にかけられました。フォーチュンが清へ向かう10年前のことです。

次に、フォーチュンが苗を届けた先は、アッサムではなく、インド北西部のヒマラヤ山麓の茶園でした。英語版ウィキペディアのフォーチュンの項目は、研究書を出典にして、彼が運んだ中国種の大半は枯れたこと、英国人が好む濃い紅茶にはアッサムの在来種のほうが向いていたことを挙げています。その一方で、清から持ち込まれた技術と知識は、のちのインドの茶業の発展に役立った、とも書いています。

中国種の茶はいまもダージリンで作られていますが、ダージリンに初めて茶が植えられたのは1841年とされ、これもフォーチュンの旅より前のこと。大きな流れのなかの、ひときわ目立つ一場面。そう見るのが近そうです。

幕末の日本にも来ていた。フォーチュンは1860年の秋、開港して間もない日本にもやって来ました。長崎から横浜を経て、11月には江戸へ。英国公使オールコックの公使館に泊めてもらい、団子坂や染井の植木屋を見て回っています。染井については、1マイル(約1.6キロ)を超えるまっすぐな道の両側に植木屋が並んでいたと記し、「売るための植物がこれほど多く栽培されているのを、世界のどこでも見たことがない」と驚きました。

庶民が草花を育てて楽しむ様子にも感心しています。花を愛する心が文明の高さを測る物差しの一つだとすれば、日本の庶民は英国の同じ階層の人々よりずっと上だ——そんな趣旨のことまで書きました。翌1861年の春にも再び来日しています。このときの旅の記録は、『幕末日本探訪記 江戸と北京』(講談社学術文庫)として日本語で読むことができます。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
あの辮髪は、もともと満洲族の髪型なんだよ。支配する側の清が、人口の大半を占める漢民族に強制した。「この程度の命令に従わないやつは、もっと大事なことにも従わないだろう」という理屈でね。辮髪にしない者は死刑だった。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
屈辱を与える意味もあったんだ。儒教の考え方では、髪を剃るのはしてはいけないこと。たとえるなら、キリスト教徒全員に「額に悪魔の印を彫れ」と命じるようなものだよ。信条に反することをさせられたうえ、従ったことが一目で分かってしまう。清が倒れたとたん、辮髪を切る人が一気に増えたのも当然だね。

3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
一方そのころ英国では、順番待ちの列(queue)に割り込むことが、死刑に値する重罪とされていたのであった。

※注:英語の queue(キュー)には、「辮髪」と「順番待ちの列」の両方の意味があります。列の順番にうるさいと言われる英国人の気質にかけた冗談です。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
死刑といっても、社会的なほうね。聞こえるように舌打ちをされて、「なんて厚かましい」「見た? いま割り込んだわよ」とひそひそ言われる刑。

5. 海外の名無しさん
これ以上ないくらい英国らしい話だと思う。まともな紅茶を一杯飲みたいがために、付け辮髪までして本気の潜入調査をやってのけるんだから。

6. 海外の名無しさん
ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)って、縮めたら「Rob a fortune(ひと財産盗む)」じゃないか。話が出来すぎていて、名前までダジャレになってる。

7. 海外の名無しさん
これは産業スパイだ、という説明を聞いたことがある。誰かがアップルの本社に忍び込んで、iOSのソースコードを盗み出すのと同じだと。茶はオレンジジュースと違って、摘んで搾れば出来上がりというものじゃない。人間が工夫を重ねて生み出した技術なんだよ。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
人間が育てている作物は、ほとんどが品種改良を重ねて、元の姿とは似ても似つかないものになってる。その点では、茶だけが特別なわけじゃないよ。

9. 海外の名無しさん
こんなことは昔から何度も起きてる。コーヒーはアラブ世界から持ち出されたし、チューリップはオランダの商人がオスマン帝国から手に入れた。ゴムの木もブラジルからこっそり運び出されて、南米の独占が崩れた。国際法らしいものもないまま世界が急速につながっていく時代に、誰もが欲しがる品を一か所で囲い込み続けるなんて、最初から勝ち目のない勝負だったんだ。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
東ローマ帝国だって、中国から蚕をこっそり持ち出して、自分たちで絹を作れるようになったんだしね。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
その話は、そのまま信じないほうがいいらしいよ。蚕をひそかに持ち出したという有名な話の舞台は、養蚕がとっくにペルシャのあたりまで広がっていた時代なんだ。中国の外でも蚕は飼われていたわけで、ヨーロッパに伝わった経緯は、大陸をまたぐ大泥棒のような派手な話より、ずっと地味だったはず。

※注:6世紀に修道士が蚕の卵を東ローマ帝国へ持ち帰ったという話は、同じ時代の歴史家プロコピオスが書き残しています。ただ、卵を手に入れた土地は「セリンダ」という名で伝わるだけで、それがどこを指すのかは説が分かれています。

12. 海外の名無しさん
ところで、英国は清に知的財産の使用料をちゃんと払ったのかな?

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
地面から勝手に生えてくる植物そのものに、知的財産と呼べるようなものは、あまりないと思うけどね。

14. 海外の名無しさん
フォーチュンは、訪ねた製茶工場で茶に色を付けているのも見つけてる。使われていたのは紺青(プルシアンブルー)という顔料と石膏。西洋人は鮮やかな緑色の茶を好む、と思われていたからだ。顔料は安いのに、色を付けるだけで値打ちがぐんと上がったそうだよ。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
「値打ちが上がる」ってどういうこと? 色が鮮やかなほうが、たくさん売れたって意味?

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
見た目のいい茶ほど高い値が付いた、ってこと。だから出来のよくない葉にも手を加えて、上等な茶に見せかけるようになったんだよ。

17. 海外の名無しさん
付け加えると、運び出すのに使われたのはテラリウムなんだ。テラリウム作りの教室でそう教わったよ!

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
テラリウムを持った悪人を止められるのは、テラリウムを持った善人だけだ。

※注:米国で銃の規制が議論になるたびに持ち出される決まり文句「銃を持った悪人を止められるのは、銃を持った善人だけ」のもじりです。

19. 海外の名無しさん
まあ、英国が中国にしたことの中では、これはいちばんひどい部類には入らないよね。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
いや、全部つながってるんだよ。中国は茶の代金を金か銀でしか受け取らなかったのに、英国には欲しいだけの茶を買える銀がなかった。そこで英国は中国にアヘンを(違法に)売り、その銀で茶を買うようになった。それがアヘン戦争につながったんだ。

21. 海外の名無しさん
「お茶はいただいていくよ。でも心配しないで。かわりに、もっとずっと“いいもの”を置いていくから」ってわけか。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
そもそも支払い方法を何とかすべきだったんだよ。銀しか受け付けないって何。アメックスが使えないのは分かるけど、VISAも駄目なの?

23. 海外の名無しさん
これ、フォーチュン本人が広めた、自分に都合のいい話だよ。アッサムではもともと茶が作られていたし、彼が中国から持ち込んだ品種は、アッサムではうまく育たなかったんだから。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
そうなんだよね。茶の木はインドにも生えていたことが分かって、いまインドで育てられているのは、ほとんどがそのアッサム種。中国種が残っているのはダージリンの山あいくらいだ。ダージリンにはフォーチュンが運んだ木の子孫がまだあるのかもしれないけど、全体として見ると、彼の貢献は意外なほど小さかったんだよ。

25. 海外の名無しさん
この話をもっと知りたい人には、『For All the Tea in China』という本がおすすめ。この一件がくわしく書かれた、すごくいい本だよ。

※注:サラ・ローズ著。日本語版は『紅茶スパイ 英国人プラントハンター中国をゆく』(原書房)の題で出ています。

まとめ

19世紀の半ば、英国の植物採集家フォーチュンは、清の服と辮髪で内陸の茶産地に入り、茶の木と職人をインドへ運びました。コメント欄では「産業スパイだ」「こんなことは昔から何度も起きている」と受け止めが分かれ、後半には「インドの茶はそれ以前からあった」と、話の大きさそのものを確かめ直す声も。のちに幕末の江戸で、植木屋の街に目を見張った人物でもあります。

元ソース: 英国は、頭を剃って辮髪と現地の服を身に着け、遠い地方の裕福な役人を装ったロバート・フォーチュンを通じて、清から茶を持ち出した

コメント

  1. Reddit名無しさん says:

    アヘン(カフェイン)戦争

  2. Reddit名無しさん says:

    中国では昔っから VISAカード使えねンだな・・・・・・