「4頭立てが決まりのレースに10頭で出場、途中で投げ出されて完走できず、それでも優勝」西暦67年のオリンピアの記録

「4頭立てが決まりのレースに10頭で出場、途中で投げ出されて完走できず、それでも優勝」西暦67年のオリンピアの記録 歴史

西暦67年、ギリシャのオリンピア。4頭立ての戦車で走ることが決まりだった競走に、ローマ皇帝ネロは10頭立てで乗り込んだ。そしてレースの途中で車体から投げ出され、最後まで走り切ることができなかった。それでも審判団が読み上げた優勝者の名前は、ネロだった。

※注:オリンピアは古代ギリシャ南部(ペロポネソス半島の西側)にあった神域の名前で、都市の名前ではない。ここで4年に一度ひらかれた競技会が、いわゆる古代オリンピックである。現在のオリンピックが始まるのは1896年で、両者のあいだには1500年以上の断絶がある。

今日の知ってた?

🏇 西暦67年、ローマ皇帝ネロはオリンピアの戦車競走に出場した。この種目は4頭立ての戦車で走るのが決まりだったが、ネロは10頭立てで参加している。彼はレースの途中で戦車から投げ出され、完走できなかった。それにもかかわらず、審判団は彼を優勝者として発表した。ネロはこの遠征でギリシャ各地の競技会に出場し、大量の優勝の冠を持ち帰ったと伝えられている。そして彼の死後、その優勝記録は消された。

背景:古代オリンピックは「スポーツ大会」ではなかった

まず押さえておきたいのは、古代オリンピックが宗教の祭りだったということである。オリンピアは最高神ゼウスをまつる神域で、競技会はその祭礼の一部だった。伝承では紀元前776年に始まったとされ、以後4年に一度、決まった季節に開かれ続けた。開催期間中は参加者が安全に行き来できるよう「聖なる休戦」が呼びかけられ、各地から人が集まった。

優勝者に与えられたのは、賞金ではなく野生のオリーブの枝で編んだ冠だけである。ただし冠そのものが目当てというより、故郷の都市に戻ったときに英雄として扱われることのほうが実質的な報酬だった。像が建てられ、詩人に讃えられ、生活の面倒を見てもらえることもあった。名誉が通貨として機能していた世界だと考えると分かりやすい。

戦車競走は、その中でも特別な種目だった。会場は競技場ではなく、ヒッポドロモスと呼ばれる細長い馬場である。花形は4頭の馬に引かせる戦車のレースで、ギリシャ語ではテトリッポン、ラテン語ではクアドリガと呼ばれた。折り返しの柱をどれだけ内側で回れるかを競う競技で、車輪同士が絡んで横転する事故が当たり前のように起きた。危険で、そして何より金がかかる。馬を揃えて訓練させ、戦車を作り、御者を雇う。要するに、参加できること自体が富の証明だった。

そしてこの種目には、他にはない独特のルールがあった。優勝者として記録されるのは、手綱を握った御者ではなく、馬と戦車の持ち主だったのである。だからこの競技には、自分では一度も走らない王侯や富豪が「優勝者」として名を残している。スパルタのキュニスカという女性が古代オリンピックの優勝者に数えられているのも、この所有者ルールによるものだ。女性は競技場に立ち入ることさえ許されていなかった時代の話である。

ネロという皇帝。ネロは西暦37年に生まれ、16歳で即位して、54年から68年までローマ帝国を統治した。ユリウス・クラウディウス朝と呼ばれる王朝の最後の皇帝である。彼は政治より芸術に強い執着を持っていた。歌い、竪琴を弾き、詩を作り、戦車の手綱を握った。ここが当時のローマではやっかいな問題になる。人前で演じたり競技したりする職業は、ローマの上流層からは見下される仕事だったからだ。舞台や闘技場に立つ者は法的にも一段低い身分として扱われていた。元老院——共和政の時代から続く、有力者の集まる統治機関である——を構成する人々にとって、皇帝が自ら舞台に上がることは醜聞そのものだった。一方で、庶民のあいだでのネロの人気は決して低くなかったと伝えられている。

もう少し詳しく

これは単発の思いつきではなく、遠征そのものが巨大な「優勝ツアー」だった。ネロは66年から67年にかけてギリシャへ渡り、各地の競技会を回っている。当時のギリシャには「四大競技会」と呼ばれる格の高い競技会があった。オリンピアの祭典、デルフォイのピュティア祭、コリントス近くのイストミア祭、そしてネメア祭の4つである。この4つをすべて制した者はペリオドニケス(周期の勝者、という意味)と呼ばれ、最高の栄誉とされた。ネロはこれらをまとめて回り、まとめて優勝している。

そのために、大会の日程のほうが動かされたと伝えられている。オリンピアの競技会は4年に一度と決まっていたが、67年の回は本来65年に開かれるはずだったものが2年ずらされたとされる。皇帝の外遊日程に合わせて、数百年続いた暦のほうを直したことになる。さらにオリンピアにはもともと音楽の競技はなかったが、この回にかぎって竪琴の弾き語りなどの種目が加えられたとも伝えられている。ネロが得意としていた分野である。

持ち帰った冠の数。後世の歴史家カッシウス・ディオは、ネロがこの遠征で1800を超える冠を持ち帰ったと書き残している。数字の正確さは検証しようがないが、要するに「出た競技はすべて勝った」ということになっている。落車して完走できなかった戦車競走でさえ優勝扱いだったのだから、当然といえば当然である。

ギリシャ側にも見返りはあった。ネロは67年、イストミアでの式典において、ローマの属州だったアカイア——現在のギリシャ本土にあたる地域——の「自由」を宣言し、税を免除したと伝えられている。冠を配った側が、その場で税の免除を受け取ったことになる。取引だったのか、本気の敬意だったのか、そのあたりは史料からはっきりとは読み取れない。

そして、記録は消された。ネロは68年に失脚し、自ら命を絶っている。その後オリンピアの競技会を管理していたエリスの人々は、67年の大会を「オリンピアードとして数えない」ものとして扱い、彼の優勝記録を外したと伝えられている。優勝を取り消すのではなく、大会そのものを勘定から抜いたということである。ローマ本国でも、元老院はネロを国家の敵と宣告し、彼の像は倒され、碑文から名前が削られた。地位を剥奪された人物の痕跡を公共の場から消すこうした措置は、のちに記録抹消刑(ダムナティオ・メモリアエ)と呼ばれるようになる。

ただし、伝わっている話の扱いには注意が要る。ネロについて詳しく書いているのは、スエトニウスとカッシウス・ディオ、そしてタキトゥスといった歴史家である。だがスエトニウスはネロの死後に生まれた人物であり、カッシウス・ディオにいたっては150年ほど後の世代にあたる。しかも彼らが書いたのは、ネロを倒した側の王朝が正統性を主張していた時代のことだ。ネロを暴君として描くことには政治的な意味があった。だからといって「全部が作り話」という結論にもならない。誇張が混じっている、というのが現在の穏当な見方に近い。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
ネロについて伝わっている話の大半は、彼を倒した側があとから書いたものだという点は押さえておきたい。戦車競走も舞台も、ローマの元老院階級からは見下されていた分野だ。庶民にはむしろ人気があった。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
そこは同意する。ただ「全部が捏造」でもないらしい。誇張が多い、というのが正確なところだと思う。自己愛が強くて人前に立ちたがる皇帝だったこと自体は、たぶん本当だ。

3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
「歴史は勝者が書く」とよく言われるけれど、古代に関しては「歴史は直後の後継者が書く」のほうが実態に近い。倒したばかりの相手を悪く書く動機がいちばん強いのは、次の政権だ。

4. 海外の名無しさん
4頭立てのレースに10頭で出るという発想がまず理解できない。速くなるどころか、まっすぐ走らせるだけで無理があるだろう。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
そして実際に投げ出されている。物理法則が皇帝に忖度しなかった、数少ない記録された事例。

6. 海外の名無しさん
審判団の立場で考えると、これは判定ではなく生存戦略だと思う。「負けにした場合、自分と家族が無事でいられるか」が採点基準の一位に来ている。

7. 海外の名無しさん
個人的にいちばん面白いのは、戦車競走の優勝者として記録されるのが御者ではなく馬と戦車の持ち主だったという点。つまりネロは、そもそも自分で乗る必要すらなかった。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
そこなんだよね。金を出して冠だけ受け取る正規ルートがちゃんと用意されていたのに、わざわざ自分で手綱を握って落ちている。目立ちたかったんだろうな。

9. 海外の名無しさん
その所有者ルールのおかげで、スパルタのキュニスカという女性が古代オリンピックの優勝者に数えられている。女性は競技場に立ち入ることすら許されていなかった時代なのに。

10. 海外の名無しさん
大会の年をずらしたという話が本当なら、そっちのほうがよほどすごい。4年に一度という決まりごとのほうを動かしたわけで。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
65年に開かれるはずだった回を67年に動かした、と伝えられている。数百年続いていた暦のほうを、皇帝の外遊日程に合わせて直したことになる。

12. 海外の名無しさん
オリンピアにはもともと音楽の競技がなかったのに、この回にかぎって竪琴の弾き語りが種目として足された、というのも相当な話だと思う。自分の得意分野を種目にしている。

13. 海外の名無しさん
賞品が野生オリーブの冠だけ、というのが古代オリンピックの建前だった。賞金は出ない。名誉だけが渡される。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
だから余計に「皇帝がわざわざ取りに行くもの」ではないんだよ。金でも領土でもない。ギリシャ文化圏の中で認められたという事実そのものが欲しかったんだと思う。

15. 海外の名無しさん
遠征で1800を超える冠を持ち帰ったと伝えられている、という記述を読んで笑ってしまった。一つも負けなかったことになっている。

16. 海外の名無しさん
死後にオリンピアの主催者側が、67年の大会を「オリンピアードとして数えない」ことにして記録から外した、という後始末が地味にいちばん効いている。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
優勝を取り消すのではなく、大会ごと勘定から抜くのがすごい。名前を消すより徹底している。参加した他の選手からするとたまったものではないだろうけど。

18. 海外の名無しさん
ローマ本国でも像が倒されて、碑文から名前が削られている。現代でいえば、経歴を全部消されたうえで検索結果からも消える感じだろうか。

19. 海外の名無しさん
「ローマが燃えているあいだヴァイオリンを弾いていた」という有名な話、そもそもヴァイオリンは千数百年あとの楽器なので、その一点だけで後世の作り話だと分かる。

20. 海外の名無しさん
ネロの史料はスエトニウスとカッシウス・ディオが中心だけど、スエトニウスはネロの死後に生まれているし、ディオにいたっては150年ほどあとの人だ。同時代の証言ではない。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
とはいえ、同時代の史料が乏しいことを理由に「本当はいい皇帝だった」と反対側に振り切るのも、同じくらい危ういと思う。分かるのは、分からないということまでだ。

22. 海外の名無しさん
ローマの上流層にとっては、皇帝が競技や舞台に出ること自体が醜聞だった。人前で演じる職業の人間は法的にも一段低く扱われていたので、そこへ自分から降りていったことになる。

23. 海外の名無しさん
遠征の途中でギリシャの「自由」を宣言して税を免除した、という話がついてくるのが妙に生々しい。冠を配った側が、その場で税の免除を受け取っている。

24. 海外の名無しさん
この件でいちばん引っかかるのは、ネロ本人が大まじめだった可能性があるところだ。冠が欲しくてやったなら滑稽で済むけれど、ギリシャ文化圏で本気で認められたかったのだとしたら、少し別の話になってくる。

まとめ

西暦67年、ローマ皇帝ネロは4頭立てが決まりの戦車競走に10頭立てで出場し、途中で車体から投げ出されて完走できなかった。それでも審判団は彼を優勝者として発表している。彼はこの遠征でギリシャ各地の競技会を回り、大量の冠を持ち帰ったと伝えられ、その代わりのようにギリシャの税を免除した。そして68年に彼が死ぬと、オリンピアの主催者側は67年の大会そのものを記録から抜き、ローマの元老院は像を倒して碑文から名前を削った。コメント欄で最初に伸びたのは「10頭で出た」という部分への素朴な突っ込みではなく、「この話は誰が書いたのか」という指摘だった。ネロを語る史料はほぼすべて彼を倒した側の時代に書かれている——その前提を置いたうえで、それでも戦車から落ちて優勝した記録は残っている、という着地に何度も戻っていったのが印象的だった。

元ソース: ローマ皇帝ネロは西暦67年、通常は4頭立てで行われるオリンピアの戦車競走に10頭立てで出場した。レース中に戦車から投げ出されて完走できなかったが、審判団は彼を優勝者とした

コメント

  1. Reddit名無しさん says:

    マジかよトランプ最低だな