アメリカ人で最初にノーベル賞を受けたのは、科学者でも作家でもなく、現職の大統領でした。1906年に平和賞を受けたセオドア・ルーズベルトです。授賞の理由は、日露戦争の講和を仲介したこと。日本では教科書でおなじみのポーツマス条約が、アメリカ初のノーベル賞につながっていた——そんな話が海外の掲示板で話題になりました。
※注:セオドア・ルーズベルトは第26代アメリカ大統領で、在任は1901〜1909年。第二次世界大戦のときの大統領フランクリン・ルーズベルトとは別の人物です。元スレッドでは愛称の「テディ」で呼ばれています。
今日の知ってた?
📏 アメリカ人で最初のノーベル賞受賞者は、セオドア・ルーズベルト大統領。1906年の平和賞で、平和賞に限らず全部門を通じて最初だった
🕊️ 授賞の理由は日露戦争の講和を仲介したこと。ノーベル賞の公式サイトは「世界の大国のうちの2つ、日本とロシアの間で近ごろ戦われた血なまぐさい戦争を、終結に導いた役割に対して」と記している
📜 講和会議は1905年8月、アメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマスで開かれ、9月5日に日露講和条約(ポーツマス条約)が調印された。結果は賠償金なし、樺太は南半分だけ
🏠 ルーズベルト本人はポーツマスの会議に出ていない。ニューヨーク州オイスターベイの私邸を拠点に、使者や電報で両国に働きかけた
💰 賞金(3万6734ドル79セント)は自分のものにせず、最後は第一次世界大戦の被害者を支援する慈善団体に配った
背景:ポーツマス条約とは
日露戦争は1904年(明治37年)2月に始まりました。国立公文書館の解説によると、戦局は日本の優勢で進んだものの、日本は戦力が続かず、ロシアでも専制政治への不満から革命運動が起こり、どちらも戦争を続けるのが難しくなっていました。
講和の仲介を頼んだのは日本側です。アジア歴史資料センター(国立公文書館)の解説によると、1905年5月末の日本海海戦のあと、外務大臣の小村寿太郎が駐米公使の高平小五郎に訓令を出し、高平は6月1日、その内容をルーズベルト大統領に伝えました。ルーズベルトはロシアに講和を勧めて承諾を取りつけ、6月9日、日露両国に講和を勧告します。日本は開戦の直後から金子堅太郎をアメリカに送っており、金子は1904年3月にルーズベルトと会談していました。
会議は8月、アメリカ東海岸のニューハンプシャー州ポーツマスで開かれました。9日の予備会議をへて、10日に第1回の本会議。会場はポーツマス海軍工廠の建物で、厳密にはポーツマス市の対岸、メイン州キタリー側の島にあります。日本の全権は小村寿太郎と高平小五郎、ロシアの全権は大臣委員会議長のセルゲイ・ウィッテと、駐米大使のロマン・ローゼンでした。
9月5日に調印された条約の主な内容は、条文に沿って並べると次のとおりです。
- ロシアは、日本が韓国で政治上・軍事上・経済上の卓絶した利益を持つことを承認し、日本が韓国で必要と認める指導・保護・監理の措置をとることを妨げず、干渉しないと約束する(第2条)
- 日露両国は、遼東半島の租借地を除く満洲から同時に撤兵し、満洲を清国の行政に返す(第3条)
- ロシアは、清国政府の承諾を得たうえで、旅順口・大連とその周辺の租借権を日本に譲る(第5条)
- ロシアは、長春〜旅順口間の鉄道と、それに付属する権利や炭鉱を、清国政府の承諾を得たうえで、補償なしに日本に譲る(第6条)
- ロシアは、樺太(サハリン)の北緯50度より南と、付近の島々を日本に譲る(第9条)
- ロシアは、日本海・オホーツク海・ベーリング海に面したロシア領の沿岸での漁業権を日本国民に認めるため、日本と協定を結ぶ(第11条)
戦費の賠償、つまり賠償金についての条項はありません。条約は英語とフランス語で作られ、解釈が食い違ったときはフランス語の文面によると定められました(第15条)。公布は10月16日、批准書の交換は11月25日にワシントンで行われています。
もう少し詳しく
ルーズベルトは会議の席にいなかった。ポーツマスで交渉のテーブルに着いたのは日露の全権たちで、ルーズベルトはそこに座っていません。ポーツマス講和条約の史料サイト(ニューハンプシャー日米協会)によると、彼は会議の前、ニューヨーク州オイスターベイの私邸サガモアヒルで、日本側(7月27日)とロシア側(8月4日)に別々に会いました。8月5日には、オイスターベイに停泊した大統領専用ヨット「メイフラワー」号の上で、両国の全権を引き合わせています。昼食は立食で、椅子は置かれませんでした。席順をめぐる問題が起きないようにするためです。全権団はそこからアメリカ海軍の艦船でポーツマスへ向かいましたが、ルーズベルトはポーツマスには行きませんでした。
交渉が行き詰まった8月下旬には、駐ロシア大使を通じて皇帝ニコライ2世にメッセージを届け、ドイツ・フランス・イギリスの首脳にも電報で協力を求めています。日本側とは、金子堅太郎を通じてやり取りしました。会議が山場を迎えていた8月26日付の息子への手紙はオイスターベイから出されていて、湾にやって来た潜水艦「プランジャー」に乗り込み、50分間潜ってきたと書いてあります。
講和の勧告を出した直後の1905年6月11日、ルーズベルトは息子のカーミットにこう書き送っています。「途方もない手間をかけ、自分で言うのも何だが、かなりの機転と判断力を働かせて、ようやく日本とロシアに、講和の条件を話し合う席に着くことを承知させた」。続けて、「もちろん日本は求めるべき以上のものを求めたがるだろうし、ロシアは差し出すべきものより少なくしか出そうとしないだろう」とも書きました。
※ 出典:セオドア・ルーズベルト『子どもたちへの手紙』(1919年刊。プロジェクト・グーテンベルクで公開されている電子版)。日本語訳は当サイトによるものです。
米国務省歴史局の解説は、ルーズベルトがこの地域の勢力均衡を重んじ、ロシアにも日本にも役割が残る形で戦争が終わることを望んでいた、と説明しています。同じ解説は、最終的な合意にとって彼の仲介や働きかけが実際にどれほど重要だったかは、はっきりしないとも書いています。
最後まで残った争点は、樺太と賠償金。アジア歴史資料センターの解説によると、日本政府が全権に与えた訓令で「絶対的必要条件」とされたのは、韓国に関する条件、日露両軍の満洲からの撤兵、遼東半島の租借権と鉄道の譲渡の3点でした。賠償金と樺太の割譲は、それに次ぐ「比較的必要条件」という位置づけです。
会議では、第6回本会議までに日本の求める条件の多くをロシアが認めました。ところが、樺太の割譲、賠償金、中立国の港に逃げ込んだロシア艦艇の引き渡し、極東でのロシア海軍力の制限の4点で対立が続きます。日本国内の世論が強硬になっていたこともあって、樺太と賠償金は日本にとって譲りにくい条件になっており、一時は決裂も危ぶまれました。樺太の北半分をロシアに返すかわりに日本が金銭を受け取る、という案も出ましたが、ロシアは受け入れません。8月29日の第10回本会議で、日本は賠償金の要求を取り下げ、樺太は北緯50度から南だけを譲り受けることで合意しました。樺太を南北に分ける案は、8月18日の秘密会議でウィッテが持ちかけたものです。
日本では、講和に反対する騒ぎが起きた。8月末に講和会議の内容が報道されると、日本では都市部を中心に講和反対運動が起こりました。条約調印の日の9月5日、東京の日比谷公園には講和条約反対の国民大会に数万人が集まり、大会をやめさせようとした警官隊と衝突します。騒ぎは市内に広がって7日まで断続的に続き、警察署や派出所・交番のほか、キリスト教会や路面電車も焼かれました(日比谷焼打事件)。政府は軍隊を出動させ、6日の深夜、東京市と周辺の5郡に戒厳令の一部を施行しています。
アジア歴史資料センターの解説は、この騒ぎの死者を17人、負傷者を2000人、検束者を2000人としています。原因としては、戦時下の増税などによる生活苦、戦争で多大な犠牲が出たこと、戦勝報道でふくらんだ講和条件への期待が裏切られたことなどが指摘されている、とのことです。全権の小村寿太郎は条約を結んだ直後に病に倒れ、病み上がりで帰国したところを、この講和反対運動に迎えられました。
なぜポーツマスだったのか。史料サイトによると、開催地は、いくつかの外国の都市が候補から外れたあと、ロシアがワシントンを提案し、日本も同意しました。ただ、夏のワシントンは蒸し暑いことで知られています。ルーズベルトは、気候のよい東海岸の別の場所でもよいはずだと考え、ニューハンプシャー州からの招きもあって、ポーツマスに決まりました。海軍工廠は警備と秘密の保持に向いていて、近くには大型のホテルと、大西洋を横断する電信ケーブルもありました。
初めての「政治家の平和賞」には批判もあった。ノーベル賞の公式サイトによると、ルーズベルトは平和賞を受けた最初の政治家で、国家元首としても最初でした。そして、この授賞は平和賞で初めて論争を呼びます。ルーズベルトは1898年の米西戦争で、義勇騎兵隊「ラフ・ライダーズ」を率いて名をあげた人物でした。ノルウェーの左派は、彼を、アメリカによるフィリピンの征服を完成させた「軍事狂い」の帝国主義者だと批判し、スウェーデンの新聞は「アルフレッド・ノーベルが墓の中でひっくり返っている」と書いたといいます。ノルウェーは前の年にスウェーデンとの連合を解消したばかりで、強い味方を得るためにルーズベルトを選んだのだ、という見方もスウェーデンの新聞に載りました。ニューヨーク・タイムズも、彼を「合衆国でいちばん好戦的な市民」と評していました。公式サイトは、日露の講和の仲介に加えて、オランダのハーグにある常設仲裁裁判所を支持したことも評価された、と説明しています。
授賞式は欠席、講演は4年後。1906年12月10日の授賞式に、ルーズベルトは出席していません。代わりに賞を受け取ったのは、ノルウェー駐在のアメリカ公使ハーバート・ピアース。前年、国務省の担当者としてポーツマス会議の準備を取りしきった人物でした。ルーズベルトがノルウェーを訪れて受賞講演をしたのは、大統領の任期を終えたあとの1910年5月5日です。アフリカでの狩猟旅行とヨーロッパ歴訪のあとに立ち寄り、首都(現在のオスロ)の国立劇場で、2000人を超える聴衆を前に話しました。
賞金は自分のものにしなかった。授賞式で読み上げられた電報のなかで、ルーズベルトは、賞金をワシントンに常設の「産業平和委員会」をつくるための基金にすると表明しました。資本家と労働者の関係をよりよくするための組織です。1910年の講演では、自分が行動できたのは大統領だったからにほかならず、賞金は合衆国のために預かったものと考えなければならないと感じた、と説明しています。金のメダルのほうは手元に置き、大切な家宝として子どもたちに伝えるつもりだ、とも述べました。
ノーベル賞の公式サイトの注によると、賞金の3万6734ドル79セントは委員会に預けられたまま使われず、利子がついていきました。第一次世界大戦のさなか、ルーズベルトはこのお金を戻すよう議会に求め、利子を含めた4万5482ドル83セントを、戦争の被害者を支援するアメリカとヨーロッパの慈善団体に配っています。
交渉のテーブルは、いま日本にある。史料サイトによると、会議室の家具はホワイトハウスの閣議室にならったマホガニー製で、条約が調印された日に、工廠の関係者や地元の人たちに売られました。このうち大きな会議用のテーブルは、いま愛知県犬山市の博物館明治村にあり、帝国ホテル中央玄関の2階で「ポーツマス条約の机」として展示されています。明治村によると、長さは430センチ、幅は120センチ。小村寿太郎とウィッテが向かい合った机です。
ホワイトハウスで柔道を習っていた。講和の前の年の1904年、ルーズベルトはホワイトハウスで日本人から柔道を習っていました。息子のカーミットに宛てた同年3月5日の手紙には、「週に3回、日本人のレスラー2人と取っ組み合いをしている」とあります。絞め技をかけられて喉が少し痛い、とも書いています。翌年の別の手紙では、「ヤマシタ教授」に「ジュードー」を教わった、近ごろは柔術のことをそう呼ぶらしい、と振り返りました。この「ヤマシタ教授」は、柔道家の山下義韶(よしつぐ)のこととされています。
その後の「アメリカ人とノーベル賞」。翌1907年には、シカゴ大学のアルバート・マイケルソンが物理学賞を受けました。大統領経験者の平和賞としては、セオドア・ルーズベルト・センターによると、その後ウッドロー・ウィルソン、ジミー・カーター、バラク・オバマの3人が受けています(2025年までの受賞者)。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
仲介そのものは楽な仕事だったんじゃないの? ロシアの艦隊は日本海海戦で大敗していたんだし、「もう続けられないでしょ、はい終わり」で済みそうなものだけど。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
それが、驚くほど難航したらしいよ。最大の難所は賠償金。日本は額を下げることまで検討していたのに、ロシア側は一切払わないの一点張り。全権のウィッテは記者たちを味方につけようと、さかんに取材に応じていた。ルーズベルトはドイツ皇帝のヴィルヘルム2世にまで、ロシア皇帝を説得してほしいと働きかけている。最後は日本が賠償金の要求そのものを取り下げて、ようやくまとまったんだ。
※注:ポーツマス講和条約の史料サイト(ニューハンプシャー日米協会)によると、交渉が行き詰まった8月下旬、ルーズベルトは駐ロシア大使を通じてロシア皇帝ニコライ2世にメッセージを届け、ドイツ・フランス・イギリスの首脳にも電報で協力を求めました。ロシア皇帝に影響力のあったドイツ皇帝は、妥協を勧めたとされます。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
「最大の難所」って、英語だと big sticking point だよね。ルーズベルトの話で“ビッグ・スティック”を出してくるとは。狙ったでしょ。
※注:ルーズベルトは「穏やかに話し、大きな棍棒(big stick)を持て」という言葉で知られ、その強気の外交は「棍棒外交」と呼ばれます。sticking point は「交渉がつかえている点」という意味の言い回しで、それに掛けたしゃれです。
4. 海外の名無しさん(>>2への返信)
でも、結局は日本が賠償金を取り下げたわけだよね。それならロシアの全権は、自分の国のためにやるべき仕事をきっちりやり遂げた、ということにならない?
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
日本にとっても、取り下げるのは軽い決断じゃなかったはずだよ。戦争で大勢の命を失って、戦費の負担も重くのしかかっていた。賠償金は、のどから手が出るほど欲しかったはずなんだ。
6. 海外の名無しさん
当時の日本は、軍事的にも経済的にも余力がほとんど残っていなかったと言われているね。ただロシアのほうも、敗戦続きで国内に革命の動きが広がっていて、戦争どころじゃなくなっていた。それでも皇帝ニコライ2世は、領土も賠償金も渡すなと全権のウィッテに厳命していたんだ。最後は、日本が賠償金を諦めるかわりに樺太の南半分を得る、という形で落ち着いた。日本の世論は、それを知って激怒したそうだよ。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
この戦争について、こんなにまとまった文章を読んだのは初めてだよ。だから全部本当であってほしい(笑)
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
大筋は合っているよ。付け加えると、条約には樺太のほかに、旅順・大連の租借権や、南満洲の鉄道を日本に譲るという条項も入っていた。
9. 海外の名無しさん
日本は海の戦いでは大成功だったけど、陸の戦いではかなりの犠牲を出していた。ところが国内には景気のいい戦勝の知らせばかりが伝わっていたから、国民は実際以上に大きな成果を挙げたと思っていたんだよね。
※注:アジア歴史資料センターの解説も、日比谷焼打事件の原因のひとつとして、戦勝報道であおられた過大な講和条件への期待が裏切られたことが指摘されている、としています。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
それで講和の中身が伝わったとたん、東京で暴動になったのか。賠償金を諦めるよう勧めたのがルーズベルトだったから、怒りの矛先はアメリカにも向いたらしいね。
※注:米国務省歴史局の解説は、条約のあと東京で起きた抗議行動が、講和に反対するだけでなく、ときに反米的でもあり、多くのアメリカ人を驚かせたと記しています。
11. 海外の名無しさん
アメリカ初のノーベル賞は、てっきり物理か化学の学者だと思っていた。まさか現職の大統領で、しかも理由が地球の反対側の戦争の仲裁だったとはね。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
科学の賞はいまやアメリカの常連だけど、最初の1つは平和賞だったわけだ。この先も、研究にはちゃんとお金をかけ続けてほしいよ。
13. 海外の名無しさん
歴代の大統領がもらったノーベル平和賞のなかでは、これが断トツで「実績でもらった」と言える賞だと思う。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
大統領で平和賞を受けた人は、ルーズベルトのあとだとウィルソン、カーター、オバマがいるね。100年以上の歴史で、ほんの数人しかいないんだよ。
15. 海外の名無しさん(>>13への返信)
ただ、当時は批判も相当あったみたいだよ。なにしろ、自分から戦場に出て名をあげた人だからね。「あの人に平和賞?」と言われるのも分かる。
16. 海外の名無しさん
ポーツマス条約は、アメリカが南北アメリカの外でも国際政治の当事者として動きはじめた節目のひとつだと思う。「アメリカの世紀」の始まりをここに置いても、的外れじゃないんじゃないかな。
17. 海外の名無しさん
そもそも、どうして日本とロシアの戦争の話し合いを、アメリカの小さな港町でやることになったんだろう。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
最初はワシントンで話がまとまりかけたけど、夏のワシントンはとにかく蒸し暑い。それで、涼しい北の港町になったそうだよ。海軍の施設なら警備もしやすいしね。
19. 海外の名無しさん
本人は会議の町に一度も行かず、自宅から電報と使者でまとめてしまったのか。在宅勤務でノーベル賞とは、時代を先取りしすぎている。
20. 海外の名無しさん
両国の全権を初めて引き合わせる昼食会を立食にして、椅子を置かなかったという話が好きだな。席順でもめる余地を最初からなくしてしまうとは、うまい。
21. 海外の名無しさん
講和の前の年に、大統領がホワイトハウスで柔道の稽古をしていたというのもすごい。絞め技で喉を痛めたって、息子への手紙に書くことかな(笑)
22. 海外の名無しさん
賞金を自分の懐に入れなかったのは立派だと思う。「大統領だからできたことで、個人の手柄じゃない」という理屈も筋が通っているよ。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
しかも、その基金は使われないまま利子だけが増えて、10年以上たってから戦争の被害者の支援に回されたんだろ。お金のほうも、ずいぶん遠回りをしたもんだね。
24. 海外の名無しさん
授賞式を欠席して、講演に来たのが4年後というのもなかなかだよ。しかも大統領を辞めたあと、先にアフリカへ狩りに行ってるんだから。
25. 海外の名無しさん
交渉に使われたテーブルが、いまは日本の博物館にあるというのがいいね。120年あまり前に両国の全権が向かい合った机を、いまも実物で見られるわけだ。
まとめ
アメリカ人初のノーベル賞は、1906年、セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争の講和を仲介して受けた平和賞でした。本人はポーツマスの会議に出ておらず、賞金も自分のものにしていません。コメント欄では、交渉が賠償金をめぐって難航したことや、条約に対する日本国内の反発に話が広がっていました。教科書で習った条約も、仲介した国の側から眺めると、また違った景色が見えてきますね。
参考:ノーベル賞公式サイト「Theodore Roosevelt – Facts」、同「Speed read」、同「Acceptance Speech」、同「Nobel Lecture」、同「Albert A. Michelson – Facts」、スミソニアン・マガジン「On This Day in 1906, a Nobel Prize Was Awarded to an American for the First Time」、アジア歴史資料センター「日露戦争特別展2」講和斡旋・講和勧告、同 ポーツマス会議開始、同 日比谷焼打事件、国立公文書館 学習コンテンツ「日露戦争」、データベース「世界と日本」日露講和条約(全文)、米国務省歴史局「The Treaty of Portsmouth and the Russo-Japanese War, 1904–1905」、ポーツマス講和条約の史料サイト(ニューハンプシャー日米協会)、同「Places」、同「Negotiations」、セオドア・ルーズベルト・センター「Treaty of Portsmouth」、セオドア・ルーズベルト『Letters to His Children』(プロジェクト・グーテンベルク)、博物館明治村「ポーツマス条約の机」
元ソース: アメリカ人で最初にノーベル賞を受けたのはセオドア・ルーズベルト大統領。理由は、日露戦争の終結を仲介したことだった

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