「模写の板絵は日本の美術館が持っていた」レオナルド幻の壁画『アンギアーリの戦い』、ミケランジェロと競って2人とも未完に終わった話を知ってた?

広間の壁に向かって馬の下絵を描く2人の画家 人物・偉人

52歳のレオナルド・ダ・ヴィンチと、29歳のミケランジェロ。1504年のフィレンツェで、この2人は同じ広間を飾る戦いの壁画を1枚ずつ任されていました。ところが、どちらも完成せず、原作は1枚も残っていません。海外掲示板では「同じ壁に並んで描いた」という紹介に訂正が入りつつ、2人の仲の悪さを伝える逸話や、なぜか亀の忍者の話で盛り上がりました。

※注:元スレッドのタイトルは「ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチはライバルだった。2人は何度か顔を合わせていて、同じ壁に並んで作業したことまである」という書き方です。資料で確かめられるのは、2人が同じ広間の壁画を同じ時期に依頼された、というところまで。原寸大の下絵を作った場所は別々で、並んで筆を動かしたという記録は見つかりませんでした。この記事では、記録から分かることと、後の時代の伝記が伝える逸話とを分けて紹介します。

※注:「下絵」は、壁画と同じ大きさの紙に描く原寸大の設計図のことです(美術用語では「カルトン」)。まずこの下絵を仕上げ、それを壁に写してから色を入れていきます。

今日の知ってた?

🏛️ 1503年秋、フィレンツェ共和国の政府は、政庁舎(現在のヴェッキオ宮殿)にある大評議会の広間(現在の五百人広間)の壁画を、レオナルド・ダ・ヴィンチに依頼した。題材は1440年の『アンギアーリの戦い』。

⚔️ 1504年、同じ広間のもう1枚がミケランジェロに依頼された。題材は1364年の『カッシナの戦い』。このときレオナルドは52歳、ミケランジェロは29歳。年の差は23歳だった。

✏️ 2人は別々の場所で原寸大の下絵を作った。レオナルドはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の一室、ミケランジェロは染物職人の施療院の一室を使ったと伝えられる。

🚪 壁画はどちらも未完に終わった。ミケランジェロは1505年に教皇に呼ばれてローマへ。レオナルドは壁での彩色がうまくいかないまま、1506年にミラノへ移った。

🖼️ 原作は1枚も残っていない。広間は1560年代に別の壁画で塗り替えられ、いまは後の時代の模写と、2人が残した習作の素描だけが手がかりになっている。

背景:五百人広間の壁画計画とは

舞台は16世紀はじめのフィレンツェです。当時のフィレンツェは共和国で、政庁舎(現在のヴェッキオ宮殿)には、大評議会のための大きな広間がありました。いま「五百人広間」と呼ばれている部屋です。行政長官ピエロ・ソデリーニが率いる政府は、この広間の壁を、フィレンツェが過去に勝った戦いの場面で飾ることにしました。

先に声がかかったのはレオナルド・ダ・ヴィンチです。1452年生まれ。ミラノで『最後の晩餐』を描いたあと、1500年にフィレンツェへ戻っていました。フィレンツェのガリレオ博物館が公開している、レオナルドゆかりの地を紹介するサイトによると、1503年10月24日、政府はレオナルドに、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にある「教皇の間」の鍵を渡すことを決めています。壁画と同じ大きさの下絵を作る作業場にするためでした。レオナルドの伝記を書いた英国の作家チャールズ・ニコルによれば、翌1504年5月4日付の契約書には、1505年2月末という期限が書き込まれていました。

題材は、1440年6月29日にフィレンツェ側の連合軍がミラノ公の軍を破った「アンギアーリの戦い」。レオナルドは、馬にまたがった兵士たちが軍旗を奪い合う場面を中心に据えました。

もう1枚を任されたのがミケランジェロです。1475年生まれで、レオナルドより23歳年下。高さ5メートルを超える大理石の『ダビデ像』を仕上げたばかりで、像は1504年6月に政庁舎の入り口の脇に据えられています。イタリアの美術専門誌『フィネストレ・スッラルテ』の解説によれば、壁画の依頼は同じ年の8月から9月にかけてのことです。題材は、1364年7月28日にフィレンツェ軍がピサ軍を破った「カッシナの戦い」。ミケランジェロが選んだのは戦闘そのものではなく、アルノ川で水浴びをしていた兵士たちが、敵襲の知らせにあわてて岸へ上がり、身支度をする場面でした。

16世紀の画家で、芸術家たちの伝記集『美術家列伝』を書いたジョルジョ・ヴァザーリによると、ミケランジェロは染物職人の施療院に一室をあてがわれ、そこで巨大な下絵に取りかかりました。広間は同じでも、下絵づくりの現場は最初から別々だったことになります。

もう少し詳しく

「同じ壁に並んで」は本当か。2枚の壁画を広間のどこに描く予定だったのかは、資料によって説明が分かれています。ルネサンス史の研究者ジル・バークによると、広く信じられてきたのは「同じ壁の左右に1枚ずつ」という見方でした。バークの紹介では、研究者のラブ・ハットフィールドが2007年の著書でこれに異を唱え、2枚は向かい合う壁に1枚ずつ描かれる予定だったと論じています。いまの解説も割れています。東京富士美術館の展覧会解説や、フィレンツェのガリレオ博物館のサイトは「向かい合う壁」としていますが、オランダのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の作品解説は、ミケランジェロの壁画の予定地を東側の壁としています。東側は、ほかの資料がレオナルドの壁画の場所として挙げている壁です。元スレッドの「同じ壁」は、根拠のない話というわけではありません。

一方で、「並んで作業した」のほうは資料と合いません。原寸大の下絵は、先に見たとおり別々の建物で作られました。レオナルドは自分の手稿に、1505年6月6日の金曜日に「宮殿で彩色を始めた」と書き残しています。ところがミケランジェロは、その3か月前の1505年3月に、教皇ユリウス2世に呼ばれてローマへ発っていました。ミケランジェロの壁画は下絵の段階で止まり、広間の壁に絵の具を入れるところまでは進まなかった、とされています。

レオナルドの壁で何が起きたのか。レオナルドのほうは、壁に取りかかったところでつまずきました。彩色を始めた日のメモには、下絵が破れ、運んできた水がめが割れ、天気が急に崩れて夕方まで雨が降り続いた、とも書かれています。その後の失敗の原因について、古い証言は食い違っています。ヴァザーリは、壁に塗る下地の混ぜ物が濃すぎて、描き進めるうちに流れ落ち始めたので放り出した、と書きました。同じ時代の著述家パオロ・ジョーヴィオは、クルミ油で練った絵の具を漆喰が受けつけなかったせいだとしています。1520年より前に書かれたとされる別の覚え書きは、質の悪い亜麻仁油をつかまされた、と伝えます。細部は違っても、油を使った絵の具を壁で試してうまくいかなかった、という点は共通しています。

1506年、レオナルドは、そのころミラノを支配していたフランス側に招かれてフィレンツェを離れ、壁画は未完のまま残されました。行政長官ソデリーニは、レオナルドは大きな仕事にほんの少し手を付けただけだ、と書いています。それでも、1513年(1514年とする資料もあります)には「レオナルドの手で描かれた人物像」を守る木の囲いが作られた記録があり、1549年にも、広間で見たレオナルドの絵をほめたたえる手紙が書かれました。一方で2020年には、フィレンツェの修復研究機関の専門家らが、壁の下準備の段階で失敗していて、戦いの場面は壁に描かれなかった、とする研究を発表しています。どこまで描かれたのかも、決着はついていません。

ミケランジェロの下絵のその後。教皇ユリウス2世がミケランジェロをローマに呼んだ用件は、自分の墓の制作でした。ボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館の解説によると、ミケランジェロは1506年にいったんフィレンツェへ戻って下絵の続きを進めましたが、また教皇に呼び戻されます。1508年からはシスティーナ礼拝堂の天井画に取りかかり、広間の壁画が仕上がることはありませんでした。

残された2枚の下絵は、若い芸術家たちの手本になりました。彫刻家のベンヴェヌート・チェッリーニは、この2枚を「世界の学校」と呼んでいます。ただ、その下絵もいまはありません。レオナルドの下絵は行方が分かっていません。ミケランジェロの下絵は1512年に政庁舎から運び出され、やがて断片に分かれて、それもすべて失われました。様子を伝えるのは、弟子のアリストーティレ・ダ・サンガッロが1542年ごろに中央部分を写した板絵で、英国ノーフォーク州の邸宅ホウカム・ホールに残っています。

不仲を伝える逸話。2人の仲の悪さを語るときによく引かれるのが、フィレンツェの国立中央図書館に残る写本の一節です。書き手の名前が分からないため「アノニモ・ガッディアーノ」と呼ばれ(アノニモは「名前の分からない人」の意味)、1530年代から1540年代に書かれたとされています。そこに、こんな場面が出てきます。

レオナルドが連れと一緒に、サンタ・トリニタ教会に近いスピーニ家の邸宅の前を通りかかった。ベンチに集まっていた人たちがダンテの一節について議論していて、レオナルドを呼び止め、説明を求めた。ちょうどそこへミケランジェロが通りかかったので、レオナルドは「ミケランジェロが説明してくれますよ」と答えた。からかわれたと思ったミケランジェロは、怒ってこう言い返した。「お前が自分で説明しろ。青銅で鋳造するつもりで馬を設計しておきながら、鋳造することもできず、恥じて放り出したお前が」。そう言うと背を向けて立ち去り、レオナルドはその言葉に顔を赤くして、その場に残された——。

「馬」とは、レオナルドが1480年代に、当時ミラノを治めていたルドヴィコ・スフォルツァの依頼で取り組み始めた巨大な騎馬像のことです。原寸大の粘土の原型までは作られましたが、1494年、用意されていた青銅はフランス軍の侵攻に備える大砲のために回されてしまい、像が鋳造されることはありませんでした。

ただし、この話を伝えているのはこの写本だけです。2人が生きた時代に近い記録ではあるものの、書かれたのは、2人がともにフィレンツェにいた時期から30年以上あと。書き手がその場にいたのかどうかも分かりません。伝え聞いた話として読むのが無難です。ヴァザーリもレオナルドの伝記で、2人のあいだには「たいへんな反感」があったと書いています。けれども『フィネストレ・スッラルテ』の解説は、当時の伝記は話を面白くするために芸術家の一面を大げさに描きがちで、2人の衝突を裏付ける記録は見つかっていない、と注意をうながしています。

記録から分かる2人の接点としては、『ダビデ像』の置き場所をめぐる話があります。1504年1月25日、像をどこに据えるかを話し合う委員会が開かれ、レオナルドも委員の一人でした。レオナルドは、屋根のある回廊(ロッジア・デイ・ランツィ)に置くという建築家ジュリアーノ・ダ・サンガッロの案に賛成しています。結局、像は政庁舎の入り口の脇に置かれました。先の解説は、2人の不和の原因として記録からたどれるものがあるとすれば、この一件だろう、としています。

消えた壁画と、日本にあった模写。広間は1560年代、ヴァザーリの手で大きく作り替えられ、壁は新しい戦争画で覆われました。2人の伝記を書いた本人が、2人の競作の舞台を塗り替えたことになります。ヴァザーリの壁画の奥にレオナルドの絵が残っているのではないか、という説もあり、2011年から2012年にかけて壁に小さな穴を開ける調査が行われましたが、関係者の意見が割れて打ち切られました。

レオナルドの構図を伝えるのは、後の時代の模写です。ルーヴル美術館には、16世紀の模写に17世紀の画家ルーベンスが手を入れた素描があります。もう1点、中央の軍旗の奪い合いを描いた16世紀の板絵『タヴォラ・ドーリア』は、日本と縁の深い作品です。東京富士美術館(東京都八王子市)が所蔵していましたが、2012年にイタリア共和国へ寄贈され、いまはフィレンツェのウフィツィ美術館の所蔵になっています。寄贈のときに結ばれた協定で、その後も日本で公開されることになり、2015年から2018年にかけては「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」として国内を巡回しました。この展覧会では、サンガッロが写した『カッシナの戦い』の板絵も、日本で初めて公開されています。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
美術学校のころに読んだ話だと、ミケランジェロはレオナルドの名声がずっと面白くなかったらしい。レオナルドより23歳も年下で、当時はまだ20代。気難しくて、すぐ人とぶつかる若者だったそうだ。レオナルドのほうは正反対で、人あたりがよくて世渡りがうまく、誰からも好かれる紳士だったとか。どっちも天才だけど、性格はまるで逆だったんだね。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画を頼んだ教皇ユリウス2世とも、しょっちゅう言い争っていたらしいよ。教皇のほうも相当な短気だったそうだから、似た者同士だったのかもしれない。

3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
50代の大御所と、売り出し中の20代に同じ広間の壁を任せて、戦いの絵で競わせる。発注したフィレンツェの政府も、なかなか人が悪いと思う。

4. 海外の名無しさん
でも最後には、2人で手を組んでシュレッダーと戦ったんだよね。

※注:アメリカの人気アニメ・コミック『ミュータント・タートルズ』にかけた冗談です。主人公の亀の忍者4人には、レオナルド、ラファエロ、ドナテロ、ミケランジェロと、ルネサンスの芸術家の名前が付いています。シュレッダーは4人の宿敵です。

5. 海外の名無しさん
細かいことを言わせてもらうと、「同じ壁に並んで」は正確じゃない。2人が頼まれたのは同じ広間の壁画だけど、原寸大の下絵を作った場所からして別々なんだ。レオナルドはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の一室で、ミケランジェロは別の建物の部屋。肩を並べて筆を動かしていたわけじゃないよ。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
壁の位置も、向かい合わせだったという説明と、同じ壁の左右だったという説明の両方を見かけるね。どちらにしても、ミケランジェロは下絵の段階でローマに呼ばれてしまって、広間の壁に描くところまでは行っていないはず。

7. 海外の名無しさん(>>5への返信)
じゃあ「同じ職場の同僚」というより、「同じコンペに呼ばれて、それぞれ自分の作業場にこもっていた2人」のほうが近いのか。そっちのほうが、かえって火花が散りそうだ。

8. 海外の名無しさん
2人が選んだ場面が、また対照的なんだよ。レオナルドは、馬にまたがった兵士たちがもつれ合って軍旗を奪い合う、いかにも戦争画という激しい場面。ミケランジェロは、川で水浴びをしていた兵士たちが、敵襲の知らせにあわてて岸へ上がる場面。戦いの絵を頼まれて、裸の男たちの群像を描く口実を見つけてくるあたり、さすが彫刻家だと思う。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
政府は「フィレンツェの勝ち戦を描いてくれ」と頼んだはずなのに、出てきた案が水浴びの場面。最初の打ち合わせの空気を想像すると、ちょっと笑ってしまう。

10. 海外の名無しさん
ダンテの一節をめぐる話は初めて知った。レオナルドは親切のつもりで話を振ったのかもしれないのに、ミケランジェロはからかわれたと受け取って、よりによって未完に終わった馬の像の話を持ち出すんだから。痛いところを突く才能まであったらしい。

※注:本文で紹介した、16世紀の写本「アノニモ・ガッディアーノ」に残る逸話のことです。伝えているのはこの写本だけで、実際にあったやりとりかどうかは確かめられていません。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
ただ、あの馬は「鋳造する腕がなかった」というのとは少し違うんだよね。原寸大の粘土の原型まではできていたのに、用意してあった青銅が、フランス軍の侵攻に備える大砲に回されてしまった。レオナルドのせいじゃない。まあ、嫌味としては一級品だけど。

12. 海外の名無しさん
『ダビデ像』は、もともとフィレンツェの大聖堂の屋根の高いところに並べる予定だったんだ。完成したあと、どこに置くかを決める委員会が開かれている。その委員の一人がレオナルド・ダ・ヴィンチで、彼は政庁舎の入り口という目立つ場所に置く案には乗らなかった。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
フィレンツェ中の人が『ダビデ像』に見とれている横で、レオナルドだけが「もう少し奥のほうに置いたらどうだろう」と言っている。そんな図を想像してしまった。

14. 海外の名無しさん(>>12への返信)
記録に残っているレオナルドの意見は、屋根のある回廊に置くという別の委員の案に賛成する、というものだったそうだよ。大理石の質に不安があるから屋根の下に、という理由が挙がっていたらしい。嫌がらせだったのかどうかは、記録からは分からない。

15. 海外の名無しさん
この2人、たしかラファエロやドナテッロとも知り合いだったはずだよ。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
ドナテッロが亡くなったのは1466年で、レオナルドはまだ14歳、ミケランジェロは生まれてもいないよ。ラファエロのほうは1504年ごろからフィレンツェに来ていて、レオナルドの絵から多くを学んだと言われている。……ところで、亀の話をしてるんだよね?

17. 海外の名無しさん
レオナルドの『絵画論』には、彫刻家をこき下ろすくだりがあるんだよ。彫刻家は汗と大理石の粉にまみれて、顔じゅう粉だらけでパン屋みたいになる。それに引きかえ画家は、きれいな服を着て、音楽を聴きながら軽い筆で優雅に描ける、という内容。

※注:レオナルドの覚え書きを弟子がまとめた『絵画論』に収められている一節です。絵画と彫刻を比べた文章で、彫刻という仕事一般について書かれています。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
粉まみれで一日じゅう石を彫っている側からしたら、たまったもんじゃないね。相手が23歳年上の人気者となれば、なおさらだ。

19. 海外の名無しさん
ミケランジェロは自分のことを彫刻家だと思っていて、絵は本業じゃないという意識だったんだよね。その人が、乗り気じゃなかったと言われるシスティーナ礼拝堂の天井画をあそこまで描き上げたんだから恐ろしい。ローマに行く機会があったら、ぜひ見てほしい。入るまで何時間も並ぶことがあるから、予約してから行くのがおすすめだよ。美術に詳しくない自分でも、あれには言葉が出なかった。

20. 海外の名無しさん
レオナルドのほうは、ミケランジェロに何を言われても、たいして気にしていなかったんじゃないかな。空を飛ぶ機械に、水の流れに、人体の解剖。調べたいことが多すぎて、ノートを埋めるのに忙しかった人だから。絵は、数ある仕事のひとつだったんだと思う。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
でも例の写本の逸話だと、馬の像のことを言われたレオナルドは、顔を赤くしてその場に残されたことになっているよ。気にしていないようで、あれだけは効いたのかもしれない。

22. 海外の名無しさん
ウォルター・アイザックソンが書いたレオナルドの伝記をちょうど読んでいるところなんだけど、ミケランジェロは、近くにいたら相当しんどい人だったみたいだね。それと、レオナルドの人生は連続ドラマにしたら絶対に面白いと思う。

23. 海外の名無しさん
ラファエロは、バチカン宮殿の壁画『アテナイの学堂』にこの2人を描き込んだと言われているよ。中央で天を指さしている哲学者プラトンはレオナルドの顔。手前でひとり石の台にもたれて考え込んでいる哲学者は、ミケランジェロがモデルなんだとか。

※注:バチカン美術館の解説は、手前の哲学者ヘラクレイトスを「ミケランジェロの肖像」と紹介しています。プラトンのモデルがレオナルドだという説も広く知られていますが、ラファエロ本人は説明を残していません。

24. 海外の名無しさん
ミケランジェロは88歳まで生きたんだよね。1475年生まれでその年齢は、ちょっと信じられない。レオナルドが亡くなってからも、45年近く作り続けたことになる。

25. 海外の名無しさん
天才2人に大きな壁を1枚ずつ任せて、残ったのが模写だけ。この話でいちばん切ないのはそこだと思う。もし両方とも完成していたら、世界でいちばん混み合う広間になっていただろうね。

まとめ

1504年のフィレンツェでは、52歳のレオナルドと29歳のミケランジェロが、同じ広間の壁画を1枚ずつ任されていました。ただし下絵の作業場は別々で、ミケランジェロはローマへ、レオナルドはミラノへ去り、どちらも未完のまま原作は失われています。コメント欄では「同じ壁に並んで」という紹介に訂正が入り、馬の像をめぐる捨て台詞の逸話や、『ダビデ像』の置き場所の話に花が咲きました。もし2枚とも完成していたら、と想像したくなる競作です。その面影を伝える模写の1枚が、日本の美術館を経ていまに残っているのも、不思議な縁かもしれません。

元ソース: ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチはライバルだった。2人は何度か顔を合わせていて、同じ壁に並んで作業したことまである

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