ルーマニアの独裁者チャウシェスクの妻エレナは、国内では「世界的に有名な化学者」と呼ばれていた。ところが学歴は小学校どまりで、同僚の記憶では硫酸の化学式も分からなかったという。それでも博士号を持ち、海外の大学から名誉称号を集め、名前の付いた特許は36件に上る。いったいどうやって、そんなことができたのか。
今日の知ってた?
🧪 エレナ・チャウシェスクは小学校までの学歴のまま、「世界的な化学者」として国に祭り上げられた。論文は本物の研究者に書かせたものとされ、ペルー、アルゼンチン、イランなどの大学から名誉称号を受け、ロンドンでも名誉教授の肩書きを得た。
※注:元の投稿は「14歳で学校をやめた」と書いているが、今回確かめられた資料では「小学校まで」「4年生まで」という書き方で、やめた年齢までは分からなかった。
背景:エレナ・チャウシェスクとは
エレナは20世紀初めのルーマニアの農村に生まれた。生年は資料によって1916年とも1919年とも書かれている。学校は小学校までで、兄と一緒にブカレストへ出て、実験室の助手や繊維工場の工員として働いた。1939年に共産党へ入り、1947年に党の活動家だったニコラエ・チャウシェスクと結婚する。
夫は1965年に国の指導者となった。ソ連に従わない姿勢を見せたことで、西側からの受けはよかった。1968年のソ連のチェコスロバキア侵攻に反対し、翌1969年には米国のニクソン大統領がブカレストを訪れている。1975年には、のちに英国首相となるサッチャーもブカレストで夫妻に会った。サッチャー自身は化学を学んだ人である。1978年、チャウシェスクは共産国の元首として初めてロンドンを訪問した。東側の国でありながら西側にいちばん甘やかされたことが、「世界的化学者」づくりの土台になる。
エレナと化学の関わりは、夫が権力を握る前から始まっている。1950年から7年間、ブカレストの工科大学の夜間課程に通い、国立の化学研究所(ICECHIM)で働くようになった。ただし英ガーディアン紙が2021年に紹介した資料では、学位の記録ははっきりせず、ルーマニアの研究者は「彼女は研究所の未熟練の作業員だった」と話している。それでも1960年には常勤の研究者、1965年には所長になったとされる。
エドワード・ベアの著書によれば、同じ研究所の科学者がエレナと話したところ、クロマトグラフが何かを知らず、化学の1年生が習う硫酸の式 H2SO4 も分からなかった。1967年、エレナは博士論文「イソプレンの立体特異性重合」の審査を受ける。審査は公開が決まりだったが、この科学者が会場へ行くと扉には鍵がかかっていたという。ブカレストの化学の学部長が反対したため、ヤシの大学で審査を受けたという1984年のラジオ・フリー・ヨーロッパの報告もある。論文を実際に書いたのは、ヤシ大学の教授や研究者たちだったとみられている。
夫の権力が強まるにつれて、エレナ自身も政治の中枢に入っていった。1973年に党の政治局に入り、1980年には第一副首相となり、国の科学技術を束ねる評議会の議長も兼ねた。こうして、国の科学政策を握る席に、化学を分からない人物が座ることになった。
もう少し詳しく
肩書きは、外国から集められた。国内の称賛だけでは足りず、ルーマニアの外交官は海外の大学や学会に働きかけた。元情報機関トップのパチェパは、ニューヨークとワシントンの大学から称号を取ってくるよう命じられたと回想している。英語版ウィキペディアの一覧には、ペルーの国立工科大学、ブエノスアイレス大学、テヘラン大学などの名誉称号が並ぶ。一方で断った機関もある。1978年の訪英前にロンドン大学と王立協会が打診を受けたが、どちらも応じなかった。王立協会では、会長のトッド卿がルーマニアの使者を酒でもてなしたうえで「彼女は栄誉に値するか」と率直に尋ねると、答えは「いいえ」だったという。結局、王立化学協会(現在の王立化学会の前身)が名誉会員に、ロンドンの工科学校が名誉教授に迎えた。
西側の出版社も手を貸した。博士論文をもとにした本は英国の学術出版社ペルガモンから出ており、ノーベル化学賞受賞者ドロシー・ホジキンが序文を書いている。もっとも序文には「批評できるだけの専門知識が自分にはない」という趣旨の一文があり、読み返すとかなり苦しい。伝記作者ラヴィニア・ベテアは、称号を与えた外国の人々にも責任があると指摘している。
研究者は、名前を貸すしかなかった。1984〜89年にエレナの共著者だったブカレスト工科大学のテオドレスク教授は、研究所のゴム部門の成果はすべて、党の命令でエレナを筆頭著者にしなければならなかったと語る。研究の中身そのものは正しいが、彼女は読んでもいないだろう、というのが教授の見方だ。この名前は今も残っている。2021年にはルーマニアの研究者らが、エレナ名義の論文や書籍20点あまりの取り下げを出版社に求め、欧州特許庁に登録された36件の特許の取り消しも訴えた。米ワイリー社は4本の論文について調査を始めたと答えた。
「太ったなら歩け」と消された地下鉄の駅。エレナの逸話でよく語られるのが、ブカレストのピアツァ・ロマーナ駅だ。設計者の一人ソリン・カリネスクが地元紙アデヴァルルに語ったところでは、1985年にエレナが路線の計画を見て「駅が多すぎる、間引け」と命じた。そこで設計チームは、いちばん大事なこの駅を紙の上でだけ消し、のちに元へ戻す形にした。工事は表に出さずに進められ、電車は1年ほど駅を素通りしていたという。ホームが危険なほど狭いのは、そのためとされる。「労働者や若者が太ってきたから歩かせればいい」という理由も伝わるが、こちらは工事関係者の記憶として語られている話で、記録で確かめられたものではない。
日本にも来ていた。外務省の資料によれば、チャウシェスク大統領は1975年4月に夫人を伴って国賓として来日し、三木武夫首相と会談している。今回調べた範囲では、日本の大学がエレナに学位を贈ったという記録は見つからなかった。
結末はクリスマスだった。1989年12月、国民の蜂起で夫妻はブカレストを脱出したものの捕らえられ、25日に軍事法廷で有罪とされて、その日のうちに銃殺された。エレナは手を縛る兵士に「恥を知りなさい。母親のようにお前たちを育ててやったのに」と言ったと伝えられる。王立化学会は、亡くなる数日前に称号の取り消し手続きが始まっていたと説明している。一方、ルーマニアの博士号は取り消されなかった。CO2を「コドイ」(ドイはルーマニア語で2)と読んだとされることから付いたあだ名は、今も語り継がれている。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
そしてこの夫婦は最後に、国民全員が何年も待ち望んでいたクリスマスプレゼントを贈ってくれたわけだ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
記憶だと、あの人は最後まで怒っていたんだよね。裁判でも処刑の場でも、怯えるどころか「茶番だ」「こんなことが許されるのか」と周りを罵っていた。あれだけしてやったのに、という顔で。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
夫のほうは「ああ、ここで終わりか」と悟った感じだったのに、妻だけは最後まで受け入れられなかった。裏切られたことが許せなかったんだろうな。
4. 海外の名無しさん(>>2への返信)
転落の速さがすごい。前の日まで国の隅々まで支配していたのに、次の日には国民も軍も離れて処刑されていた。独裁者が倒れるときは軍か外国の手によることが多いけど、ルーマニアは民衆から始まった珍しい例だと思う。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
民衆が独裁者を倒せたというときは、たいてい軍や警察が見逃しているんだよ。銃を持った側がどっちに付くかで全部決まる。
6. 海外の名無しさん(>>4への返信)
当時の国際情勢も忘れちゃいけない。ベルリンの壁が崩れた直後で、東側全体が揺れていた時期だ。もちろんルーマニアの人たちの勇気を軽く見るつもりはないけど。
7. 海外の名無しさん(>>1への返信)
正直なところ、あれは正義というより取り巻きの保身だったと思う。革命そのものは本物だったけど、裁判と処刑は、イオン・イリエスクのような側近たちが沈む船から飛び降りた宮廷クーデターみたいなものだった。実際、彼らはそのあと何年も権力に居座ったし。
8. 海外の名無しさん(>>1への返信)
当時のドイツのニュースで遺体が映ったのを覚えている。あの年の子どもが見るものじゃなかったな。ルーマニアにいた友人は10歳くらいで、テレビで全部見たと言っていた。
9. 海外の名無しさん
ブカレストで特に混む地下鉄の駅が台所くらいの広さしかないのは、エレナのせいなんだよ。近くに大学があって、学者を嫌っていた彼女が「学生は太って怠けている、歩かせろ」と駅を消させた。設計者たちは逆らえないけど本当に消すわけにもいかず、こっそり小さなホームを作ったらしい。作り話みたいだけど、あの夫婦ならやりかねない。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
素朴な疑問なんだけど、そもそもこの夫婦はどうしてそこまでの権力を持てたの? 小学校しか出ていない人が研究所の所長になれる国って何なんだ。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
ニコラエは学はないけど党内政治は抜群にうまかったんだよ。前の指導者が死んだあと、妥協の候補として党のトップに選ばれた。最初の数年は暮らしもよくなって人気があったし、古参が死に絶えるころには、もう逆らえる人がいなくなっていた。
12. 海外の名無しさん(>>10への返信)
ソ連から距離を置いたおかげで西側に受けがよかったのも大きい。外では歓迎されて、国内では配給と停電、なのに本人は大理石の巨大な宮殿暮らし。崩れるのも当然だった。
13. 海外の名無しさん
ポリメリ(ポリマー)をポリペリと言い間違えたとして有名だよ。ルーマニア語で「メリ」はリンゴの木、「ペリ」は梨の木だから、「ポリ梨」「ポリすもも」とか、革命まではみんな声をひそめて冗談にしていた。
※ 当時の小話として語られている話で、本当に言い間違えたのかは確かめられなかった。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
CO2の読み方でもやらかしていて、「コドイさん」と呼ばれてた。ドイはルーマニア語の2だから、シーオーツーを「コーツー」と読んだようなものだね。化学者を名乗る人が。
15. 海外の名無しさん
ルーマニアにはこんな言い回しがある。あの女と彼女の博士論文は、同じ部屋にいたことが一度もない。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
うまいこと言うなあ。論文の中身を聞かれたら一言も答えられなかっただろうに、誰も聞けなかったのが独裁ってことか。
17. 海外の名無しさん
あまり笑えない話だけど、この人の名前の特許が今も36件残っているんだよ。ガーディアンの記事に出ていた。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
まだ取り消されていないのか。特許はまだしも、「彼女の」博士号がそのままなのにはさすがに驚いた。
19. 海外の名無しさん
オックスフォードで本当に化学を学んだマーガレット・サッチャーと二人きりで話して、研究の自慢を始めたら面白かっただろうな。どんな顔をして聞くのか見てみたい。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
夫も4年しか学校に行っていなくて、あとは靴職人の修業だったはず。ドラマの『チェルノブイリ』で、女性の科学者が党の幹部に靴工場の出だと突きつける場面を思い出した。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
学校教育を過大評価しすぎでは。二十年以上も国を支配したんだから、頭は悪くなかったと思う。少なくとも権力の握り方は知っていた。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
裏取引がうまいのと、政治や歴史や外交を分かっているのは別の話だよ。それを補うのが教育で、4年で終わった人が国を動かすとこうなるという見本じゃないか。
23. 海外の名無しさん
夫のほうは「カルパチアの天才」「思想のドナウ川」と呼ばせていたんだから、夫婦そろって称号が好きだったわけだ。独裁者の妻に学位が付くのもよくある話で、ジンバブエのムガベ夫人は中国語の学位があるのに中国語で話せなかったと言われている。
24. 海外の名無しさん
ルーマニア人としては、これなんて入口でしかないと言いたい。あの時代は腐敗と嘘と無茶な計画だらけで、歴史の教科書まで書き換えられていた。まだ公開されていない文書もあるから、全部分かるのはずっと先だと思う。
25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
民主化したと言っても半分くらいだと思っている。秘密警察の古株は新しい組織に看板を替えて残ったし、役所の仕事を高値で請け負う連中のなかにも顔が見える。清算は終わっていないよ。
まとめ
小学校までの学歴の女性が「世界的化学者」になれたのは、国家が研究者に論文を書かせ、外交官が称号を集め、西側の機関がそれに乗ったからだった。コメント欄は最期の怒りや地下鉄の駅の話で盛り上がり、ルーマニアの人からは、これは当時の異常さのほんの入口だという声も出ていた。
参考資料
- ガーディアン「『正すべき道義の問題』エレナ・チャウシェスクの不正な研究が残した長い尾」(2021年・英語)
- アデヴァルル「ブカレストの謎:地下鉄ピアツァ・ロマーナ駅」(2010年・ルーマニア語)
- ルーマニアTV「ブカレスト地下鉄の謎:ロマーナ駅の狭いホームはエレナのせい」(2014年・ルーマニア語)
- ウィキペディア英語版「エレナ・チャウシェスク」
元ソース: 14歳で学校をやめたエレナ・チャウシェスクが著名な化学者を名乗り、代筆された研究で名誉学位まで得ていたと今日知った

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