『ナルニア国ものがたり』の第1作『ライオンと魔女』は、4人のきょうだいが空襲を避けてロンドンから田舎の屋敷へ疎開するところから始まります。この設定には元になった体験がありました。第二次世界大戦が始まった1939年9月、作者C・S・ルイスのオックスフォードの家にも、ロンドンから疎開してきた少女たちが住み始めていたのです。
※注:『ライオンと魔女』(原題 The Lion, the Witch and the Wardrobe)は、日本では岩波書店の瀬田貞二訳で長く親しまれてきた。2017年にはKADOKAWAから河合祥一郎訳の『ライオンと魔女と洋服だんす』も出ている。
今日の知ってた?
🦁 1939年9月2日、C・S・ルイスの自宅「キルンズ」に、ロンドンから疎開してきた3人の少女がやって来た。ルイスはその年の暮れに、のちの『ライオンと魔女』となる物語の最初のメモを書いている。これが約10年後に『ライオンと魔女』(1950年刊)として形になった。戦争中にキルンズに来た疎開の少女は、合わせて11人にのぼる。
背景:「ハーメルンの笛吹き作戦」と呼ばれた大疎開
英国政府が子どもたちの疎開を始めたのは1939年9月1日。ドイツがポーランドに侵攻したその日で、英国がドイツに宣戦布告する2日前のことです。作戦の暗号名は「パイド・パイパー(ハーメルンの笛吹き)作戦」。帝国戦争博物館(IWM)によると、最初の3日間だけで150万人が、安全とされた地方へ送られました。2025年の米スミソニアン誌の記事によれば、このうち子どもは約80万人。元の投稿は「数千人の子どもたち」と書いていますが、実際の規模は数十万人単位です。戦争全体では約400万人が家を離れ、英国史上最大の人口移動とされています。
疎開は強制ではなく任意でした。それでも、空襲への恐れ、都市の学校の休校、学校ごとにまとめて移動する仕組みが後押しして、多くの家庭が子どもを見知らぬ人の家へ送り出しました。親には持ち物の一覧が配られ、ガスマスク、着替え、寝間着、歯ブラシ、タオル、暖かいコートなどを持たせるよう指示されていましたが、全部をそろえられない家庭も多かったといいます。駅や受け入れ先では、婦人ボランティア団体の会員1万7,000人が子どもたちの世話をしました。
受け入れ先での暮らしは子どもによって大きく違いました。IWMは、都会の貧しい地区から来た子どもの多くが農場の動物を見たことも、野菜を食べたこともなかったと伝えています。新しい環境で生き生きと育った子もいれば、農作業に駆り出されたり、冷たい扱いを受けたりした子もいました。しかも、予想されていた空襲はすぐには来ませんでした。1939年の暮れには多くの親が子どもを呼び戻し、1940年1月までに疎開した人のほぼ半数が家に帰っています。本格的な空襲「ザ・ブリッツ」がロンドンを襲うのは1940年9月から。フランスの陥落とブリッツの始まりを受けて、1940年の夏から秋にかけて疎開の第2波が起き、1944年にはドイツのV兵器(ミサイル)による攻撃で第3波が起きました。
もう少し詳しく
キルンズにやって来た少女たち。ルイスの家キルンズには、親しい年上の女性ジェイニー・ムーア、兄のウォレン、庭師のフレッド・パクスフォードが暮らしていました。米誌『クリスチャン・ヒストリー』(2021年)によると、最初の3人の少女が着いたのは1939年9月2日、まさに最初の疎開の波の中でした。9月15日、40歳のルイスは友人への手紙に「家に疎開の子どもが3人いるが、みんな本当に良い子たちだ」と書いています。ただ、この3人はその年のうちにキルンズを離れました。1940年1月から7月までは別の3人、秋にはさらに2人が来ています。のちに疎開の少女の一人は、庭と池とテニスコート、そして鶏のいる家に来たことを「影の中から日なたに出たようだった」と振り返っています。
物語はどこまで疎開の影響を受けたのか。ルイスが物語の最初のメモを書いたのは1939年の暮れです。ただし本格的に書き進めたのは10年近くたってからで、本が英国で出たのは1950年10月16日でした。スミソニアン誌によれば、作中で第二次世界大戦にはっきり触れるのは冒頭の「空襲を避けてロンドンから疎開した」という一文だけです。スミソニアン誌は、ルイスの戦時中の体験が物語の冒頭の場面を与えたと書いています。ただし、ペベンシー家の4人のモデルが最初の3人だった、という話ではありません。戦争の影は、配給で手に入りにくかったイワシ、生クリーム、バターといったごちそうを楽しそうに描く書きぶりにも見える、と研究者は指摘しています。白い魔女をヒトラーになぞらえる研究者もいますが、「暴君はみんなああいう姿をしている」と、特定の人物に結びつけることに慎重な見方もあります。
「ルーシーのモデル」を名乗った少女。後の疎開者の中で最も知られているのが、ジューン・フルーエットです。1943年の夏から1945年1月までキルンズで暮らし、16歳の彼女は、体の弱った71歳のムーアに代わって、鶏25羽とウサギ30羽の世話を含む家事の多くを引き受けました。兄のウォレンは日記に、その「聖人のような」存在をありがたく思ったと書き、ルイス自身も手紙で彼女の献身ぶりを褒めています。ルイスは彼女の演劇学校の学費も出しました。のちにジークムント・フロイトの孫と結婚してジル・フロイトとなった彼女は、2014年の取材で「自分がルーシーの着想の元だった」と語っています。ただしこれは、ルイスの継子ダグラス・グレシャムから聞かされた話で、ルイス本人の言葉として残っているものではありません。
戦場を知る作家の目。ルイスは第一次世界大戦に従軍し、1918年のアラスの戦いで味方の砲弾の破片を受けて負傷しています。子どもたちが戦いに臨む場面の描き方には、その経験がにじむとも言われます。ルイスはエッセイの中で、子どもは残酷な敵に出会うかもしれないのだから、せめて勇敢な騎士の話は聞かせておくべきだ、という趣旨のことを書きました。疎開の少女たちを迎えた家から生まれたこの物語は、いまでは1億1,500万部以上が売れ、約60の言語に訳されています。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
しゃべるライオンばかり注目されるけど、親を戦場に残したまま見知らぬ他人の家で暮らすことになるって、子どもにとっては相当な出来事だよね。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
しかも良い話ばかりじゃなかった。ひどい虐待や放置、こき使われた子もいた。受け入れ先の選び方も屈辱的で、子どもを並ばせて大人が欲しい子を選んでいく競りみたいなものだったと聞く。うちのおじ二人も疎開したけど、男の子二人を一緒に引き取る家がなくて離ればなれにされた。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
小学5年の担任の先生も同じ話をしてた。屋外のトイレや水道のない家に慣れていなくて、トイレに行けずに我慢し続けた子もいたって。あの先生、たぶん自分が経験した人だったんだと思う。
4. 海外の名無しさん(>>2への返信)
うちの祖母とその兄も離ればなれになった。祖母はロンドンに残って爆弾が落ちるのを見ていて、兄は北部へ。戻ってきたときにはすっかり北部なまりになってたらしい。そして留守の間に父親が結核で亡くなっていたことを、誰も手紙で知らせていなかった。
5. 海外の名無しさん(>>1への返信)
イギリスの学校に通ってたとき、親友のおばあさんが疎開経験者だった。親とまた会えるのかわからない怖さを、何十年たってもはっきり覚えていて話してくれた。再会はできたけど、それだけ深く残る体験だったんだと思う。
6. 海外の名無しさん
2005年の映画は賛否あるけど、冒頭で空襲を見せたのはすごく良かったと思う。戦争から逃げてきた子どもたちが、行った先でまた別の戦争の真ん中に放り込まれる。しかも今度は巻き込まれる側じゃなくて、戦う側として。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
重いことをごっこ遊びの中で消化するのって、まさに子どもがやることなんだよね。大人も本当はそうなんだけど、忘れてるだけで。
8. 海外の名無しさん(>>6への返信)
原作やBBCのドラマ版より戦闘が多くて、ほのぼの感が薄いって不満はあったね。それはわかる。でも自分はちょうどいい年齢で観たから、甘めに評価してる。
9. 海外の名無しさん
この背景を知ると、エドマンドがターキッシュ・ディライト(トルコの砂糖菓子)にあそこまで夢中になるのも、魔法のせいだけじゃなく、ずっと納得がいくし象徴的に見えてくる。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
当時は配給制の真っ只中だったからね。甘いものなんてめったに手に入らなかった。
11. 海外の名無しさん(>>9への返信)
日本の古い翻訳では、このお菓子が「プリン」になってるって聞いたことがある。知らないお菓子より、子どもが「食べたい!」ってなる物にしたんだろうね。
※注:瀬田貞二訳でターキッシュ・ディライトが「プリン」と訳されているという話は広く知られているが、本記事では訳書の本文で確認できていない。
12. 海外の名無しさん
疎開のことは『ベッドかざりとほうき』で知った(C・S・ルイスの話は知らなかった)。楽しい映画だよ。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
いい映画だよね。実写とアニメの合成という同じ手法の『メリー・ポピンズ』の陰に隠れがちだけど、子どもたちはこっちのほうがずっと面白い。
14. 海外の名無しさん
疎開って任意だったんだね。祖父ときょうだいはリバプールから北ウェールズに疎開したけど、曾祖母が寂しくなって連れ戻したらしい。ずっと強制だったと思い込んでた。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
強制に見えたのは、選べなかった人が多かったからだと思う。家を焼かれたり、親が子どもの面倒を見られなかったり。楽しく過ごせた子もたくさんいたけど、ひどい目にあった子もたくさんいた。
16. 海外の名無しさん(>>14への返信)
うちの曾祖母は、コベントリーの家が並ぶ一角に本当に爆弾が落ちるまで、祖父を疎開させなかった。それくらい手放すのは決心がいることだったんだろう。
17. 海外の名無しさん
父方の祖父母は二人とも疎開した。祖父は西部の農場に行って家族の一員みたいに扱われ、動物の世話や乗馬を覚えて、一生その頃の話を楽しそうにしてた。祖母は逆にロンドン近郊の家で召使いみたいに扱われて、聞いても絶対に話してくれなかった。
18. 海外の名無しさん
学校で『おやすみなさいトムさん』を読んだ人いる?あれも同じ疎開が舞台の本。偏屈なおじいさんと疎開の男の子の話で、泣いたなあ。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
大好きな本。「子どもが親元を離れる」設定って、児童書作家にとっては宝の山だったんだろうね。寄宿学校ものもそう。ディズニーみたいに最初から親を退場させる手もあるけど。
20. 海外の名無しさん
ロンドンからの話ばかりだけど、リバプール、マンチェスター、バーミンガム、グラスゴー、ベルファストなど、イギリス中の都市から子どもたちが疎開してるんだよ。数千人どころの話じゃない。
21. 海外の名無しさん
パディントンも疎開の子どもたちから着想を得たって話だよね。首から名札を下げて駅にぽつんといる姿が、まさにそれ。
※注:作者マイケル・ボンドが疎開の子どもたちの姿を着想の一つに挙げていたと広く紹介されているが、本記事では一次資料を確認できていない。
22. 海外の名無しさん
子どもの頃、家族でアイルランドの親戚を訪ねたとき、パブで年配のイギリス人のグループに会った。ブリッツのときに一緒に送られてきた人たちの同窓会だったんだ。何十年たっても集まるんだなと思った。
23. 海外の名無しさん
薬局で、杖を2本ついた高齢の女性を家まで車で送ったことがある。5歳でロンドンからドーキングに疎開して、ポリオで何年も病院にいたそうだ。戦後、両親は迎えに来なかった。亡くなったのか、来なかっただけなのか今もわからない、それでも幸せな人生だったって笑ってた。
24. 海外の名無しさん
独身の学者先生の家に、知らない女の子たちがいきなり3人。最初は相当戸惑ったと思うけど、その日々から衣装だんすの向こうの国が生まれたなら、少女たちには感謝しかないね。
まとめ
ナルニアの入り口にあたる「疎開した子どもたちが田舎の屋敷へ」という設定は、1939年9月にルイスの家へ実際にやって来た少女たちから生まれました。ただし物語が形になったのは10年近く後で、元の投稿の「数千人」も実際には数十万人規模です。コメント欄には、祖父母や先生から聞いた疎開の思い出が次々に寄せられました。楽しかった人もいれば、口を閉ざした人もいる。ファンタジーの裏にある現実の重さを感じさせるスレでした。
参考資料
- スミソニアン誌「第二次世界大戦はC・S・ルイスの『ナルニア国ものがたり』にどう影響したか」(2025年・英語)
- 帝国戦争博物館(IWM)「第二次世界大戦の疎開児童」(英語)
- クリスチャン・ヒストリー誌「子どもの目の高さで」(第140号、C・S・ルイス特集)(2021年・英語)
元ソース: 1939年、ナチスの空襲を逃れて数千人の子どもがロンドンから田舎へ疎開した。そのうち3人の少女がC・S・ルイスの家に滞在し、子どもたちが田舎の屋敷に疎開する名作『ライオンと魔女』の着想を与えた

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