戦場で持ち帰る戦利品にも格があって、古代ローマではそのてっぺんに置かれたものが決まっていた。ローマ軍の総司令官が、敵軍の総大将を戦場で自ら討ち取り、その鎧を自分の手で剥ぎ取ったとき。この条件をすべて満たしたときにだけ成立する栄誉で、スポリア・オピマと呼ばれた。ローマの長い歴史の中で、これが認められたのは3回だけだったとされている。
※注:スポリア・オピマ(spolia opima)はラテン語で「豊かな戦利品」ほどの意味。spolia が「剥ぎ取ったもの=戦利品」、opima が「肥えた/豊かな」で、英語の opulent(豪華な)と同じ語根にあたる。よく似た optima(最良の)とは別の単語である。
今日の知ってた?
⚔️ 古代ローマで最高の名誉とされた戦利品「スポリア・オピマ」が成立するのは、ローマ軍の総司令官が、敵軍の総大将を戦場で自ら討ち取り、その鎧を剥ぎ取ったときだけだった。剥いだ鎧は樫の木の幹に括りつけられ、勝者本人がそれを担いでカピトリヌスの丘へ登り、ユピテル・フェレトリウス神殿に奉納された。この条件を満たしたとされる例は、ローマの歴史を通じて3回だけである。
背景:戦利品なのに、なぜ3回しかないのか
日本の戦国時代でいえば、いちばん価値のある首は敵の大将の首、いわゆる大将首だった。スポリア・オピマはその感覚に近いが、条件がもう一段きつい。大将首を、味方の大将が自分で取ってこなければならないのである。
ローマ軍を率いる総司令官は、多くの場合その年の執政官だった。国のトップが軍のトップを兼ねる仕組みで、要するに一国の最高権力者が、自ら馬を駆って前線を突き抜け、相手国の王と直接ぶつかり、これを倒す、という状況が成立して初めて話が始まる。狙って起こせるものではない。
※ 執政官(コンスル)は共和政ローマの最高官職。定員2名、任期1年で、国政の主宰と軍の指揮をあわせて担った。
そのうえで、儀式の手順も決まっていた。討ち取った相手から剥いだ鎧を樫の木の幹に括りつけて戦勝記念の形にし、勝者はそれを他人に運ばせず自分で担いでカピトリヌスの丘を登る。そして丘の上のユピテル・フェレトリウス神殿に奉納する。建国者ロムルスが最初にやったとされる手順を、そっくりそのままなぞる形式だった。
※ カピトリヌスの丘はローマ七丘のひとつで、国家宗教の中心地。ユピテルはローマの最高神で、フェレトリウスはその別名のひとつ。この神殿はロムルスが建てたとされ、ローマ最古の神殿という扱いだった。/ロムルスはローマ建国神話の初代王で、狼に育てられた双子の兄とされる人物。実在は古代からすでに疑われている。
もう少し詳しく
3回の内訳。1回目は紀元前752年、建国者ロムルスがカエニナ人の王アクロンから。2回目は紀元前5世紀、アウルス・コルネリウス・コッススがエトルリア人の都市ウェイイの王ラルス・トルムニウスから。3回目は紀元前222年、その年の執政官マルクス・クラウディウス・マルケッルスが、北イタリアでの戦いでガエサタエ族の王ウィリドマルスを馬上から槍で討ち、その場で鎧を剥いだ。ハンニバルとの第二次ポエニ戦争が始まる少し前の話である。3件のうち、史実としての土台がはっきりしているのはこの3回目だけで、1回目は完全に伝承の領域にある。ギリシャの伝記作家プルタルコスは、このガリア人の王を別の名前(ブリトマルトス)で記している。
※ この「3回」という数え方そのものが、後世のローマ人が伝承と記録を整理して作った枠組みである。何をもって成立とするかの線引きには古代から議論があり、確定した回数として扱われているわけではない。
条件から漏れた英雄たち。敵の指揮官を一騎討ちで討ち取った例なら、他にもある。ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスとウァレリウス・コルウスはガリア人を相手に、スキピオ・アエミリアヌスはヒスパニア(現在のスペイン一帯)で王を相手に、それぞれ討ち取ったと伝えられる。それでも彼らのものはスポリア・オピマとして数えられていない。討ち取ったときに自分がローマ軍の総司令官ではなかった、という一点で対象外になったからである。武勇の中身ではなく、そのとき身に付けていた肩書きが判定を分けていた。
討ち取ったのに認められなかった男。紀元前29年、マルクス・リキニウス・クラッススがマケドニアでバスタルナエ族と戦い、その王デルドを一騎討ちで討ち取った。彼はカエサル・ポンペイウスと三頭政治を組んだあのクラッススの孫にあたる。討ち取った事実自体は、当時の権力者アウグストゥスも否定しなかったと伝えられる。それでも鎧の奉納は認められなかった。理由は手続き上の理屈で、クラッススはあくまで前執政官としてアウグストゥスの指揮権の下で戦ったのであって、自分自身の権限で戦った総司令官ではない、というものだった。凱旋式のほうは認められたが、アウグストゥスとの共同開催という形になったとされる。
※ 前執政官(プロコンスル)は、執政官を務めた後などに属州の統治と軍の指揮を任される役職。指揮権は自前ではなく、あくまで国(この時期は事実上アウグストゥス)から預かったものという扱いになる。/アウグストゥスはローマ帝国の初代皇帝。長い内乱を制して権力を握った直後の時期にあたる。
アウグストゥスの狙いについては、クラッススが2つの名門の血を引く人物で、ここでローマ史上4人目の栄誉まで背負わせれば有力な対抗馬が一人できてしまうから、という見方が有力である。ただしこれは動機の推測であって、本人がそう述べた記録が残っているわけではない。
神殿にも政治が絡んでいた。奉納先であるユピテル・フェレトリウス神殿は、まずユリウス・カエサルが修復し、その後アウグストゥス自身がもう一度修復している。建国者ロムルスと直接結びついた神殿を自分の手で建て直すことには、明らかに政治的な意味があった。歴史家リウィウスは、アウグストゥスが「修復のときにコッススの奉納した亜麻の胸当てを自分の目で見た。そこにはコッススが執政官だったと記されていた」と語った、という話を書き残している。コッススが当時どの官職にあったかは古代から論争のある点で、しかもこの証言はクラッススの一件と時期が近い。都合が良すぎるのではないか、と疑う研究者もいる。
その後のクラッスス。アッピア街道沿いには、いまも高さ20メートルあまりの円筒形の巨大な墓が残っている。埋葬されているのはクラッススの母カエキリア・メテッラで、碑文には彼女の名と、彼女がつながる2つの名門の名しか刻まれていない。外壁には戦勝記念の飾りと縛られた捕虜の浮彫がある。栄誉を封じられた息子が、母の葬儀という形でしか自分の戦功を語れなかったのだ、と読む人もいる。そしてこの墓が建った後、クラッススの名は史料からぱたりと消える。
※ アッピア街道はローマから南へ延びる古代の幹線道路。沿道に有力者の墓が並んでいた。/古代ローマでは、身内の葬儀に大金を投じることは「家族への務め」として非難されにくかったとされる。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
たった3回というのが効いている。戦利品の格付けの話かと思って読み始めたら、条件が「敵の総大将を、味方の総大将が自分で討ち取ること」だった。日本でいう大将首を、大将本人が取ってこないと成立しない仕組みということになる。そりゃ3回で済む。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
しかも相手が総大将であれば良いという話ではなく、討った側も総司令官でなければならない。両軍のトップが同じ戦場のどこかで鉢合わせして、片方が片方を倒す。運と無謀さが両方そろわないと起きない事故みたいな条件だ。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
現代に置き換えると、軍のトップが最前線まで自分で駆けていって相手国の司令官と直接やり合う、という絵になる。書いていて笑ってしまったが、ローマではそれが最高の名誉として制度に組み込まれていたわけだ。
4. 海外の名無しさん
3回の内訳を調べたので置いておく。1回目が紀元前752年、ロムルスがカエニナ人の王アクロンから。2回目が紀元前5世紀、コッススがウェイイの王ラルス・トルムニウスから。3回目が紀元前222年、マルケッルスがガエサタエ族の王ウィリドマルスから。史料の裏がそこそこ取れているのは3回目だけらしい。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
1件目が建国神話の主人公という時点で、この「3回」という数え方自体が半分は伝承の産物だと分かる。ロムルスの実在はプルタルコスの時代にはもう疑われていた。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
そこは現代の感覚で見ないほうがいいと思う。ローマ人にとって重要だったのは「ロムルスが実在したか」ではなく、「ロムルスがやったとされる手順を、いま自分が正確になぞれるか」だった。儀式の正しさが先にあって、歴史はその根拠として後ろに置かれている。
7. 海外の名無しさん
ずっと「最良の戦利品」という意味だと思い込んでいた。オピマをオプティマ(最良の)の変形か何かだと勝手に読んでいたらしい。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
惜しいけれど別の単語で、optima(最良の)ではなく opima のほう。意味は「豊かな」「肥えた」で、直訳すると「豊かな戦利品」になる。同じ音を二回見ているようで、まったく違う語を見ている。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
英語の opulent(豪華な)と同じ語根だと知って腑に落ちた。「一番いいやつ」ではなく「中身が詰まっていて重い」という手触りの言葉で、剥ぎ取った鎧を自分で担いで丘を登る話にはこちらのほうが合っている。
10. 海外の名無しさん
響きが良すぎて真似したくなる。部署で一番おいしい案件をかっさらってきた同僚に「ぶんどりウス・マキシムス」の称号を授けたい。ラテン語は語尾を整えるだけで、どんな俗な話でも国家儀式みたいな顔になるのがずるい。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
それ、ローマ人も本気でやっていた。大きな戦功を立てると「アフリカを制した者」といった添え名が正式な名前に足されて、そのまま子孫まで受け継がれていく。ぶんどりウス・マキシムスは冗談として案外遠くない。
12. 海外の名無しさん
儀式の描写がいい。剥いだ鎧を樫の木の幹に括りつけて、それを勝者本人が担いで丘を登り、神殿に納める。部下に運ばせないという一点に、この制度の言いたいことが全部入っている気がする。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
納め先のユピテル・フェレトリウス神殿は、ロムルスが建てたとされるローマ最古の社という扱いで、規模はごく小さかったらしい。壮麗な大理石の神殿ではなく、建国のときのままの小屋みたいな場所に、数百年に一度だけ鎧が届く。その落差がいい。
14. 海外の名無しさん
条件から漏れた人たちの話が地味に効く。トルクァトゥス、ウァレリウス・コルウス、スキピオ・アエミリアヌス。三人とも敵の指揮官を一騎討ちで倒しているのに、そのとき自分が総司令官ではなかったという一点だけで対象外になっている。強さではなく肩書きで判定が割れる。
15. 海外の名無しさん
政治が絡む部分がいちばんえぐい。紀元前29年、クラッススがマケドニアで敵の王を一騎討ちで討ち取った。討ち取った事実そのものはアウグストゥスも否定しなかったと伝えられる。それでも奉納は認められなかった。理由は「彼は前執政官であって、自分の権限で戦った総司令官ではない」という手続き上の理屈だった。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
このクラッススは三頭政治のクラッススの孫で、母方もローマ屈指の名門。ここで史上4人目の栄誉まで背負わせたら、初代皇帝と並ぶ看板を持った男が一人できてしまう。理屈のほうが後から用意されたように見える。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
ただ当時の空気も考えたい。長い内乱がやっと終わったばかりで、次の権力争いの種を撒くことだけは避けたかった、というのは分かる。やり口はえげつないが、動機としては理解できる範囲だと思う。
18. 海外の名無しさん
神殿そのものが政治の道具になっているのも面白い。ユピテル・フェレトリウス神殿はカエサルが修復し、その後アウグストゥスがもう一度修復している。建国者ロムルスと直接つながる神殿を自分の手で建て直す、というのは意味が分かりやすすぎる。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
そこで出てくるのがリウィウスの伝える話で、アウグストゥスは「修復のときにコッススの奉納した亜麻の胸当てを自分の目で見た。そこにはコッススが執政官だったと書かれていた」と語ったという。コッススの官職は古代から論争があった点で、しかもこの証言はクラッススの一件と時期が近い。出来過ぎだと見る研究者もいるらしい。
20. 海外の名無しさん
クラッススのその後を追うと、アッピア街道沿いの有名な円形の墓に行き着く。高さ20メートル超の円筒で、埋葬されているのは母のカエキリア・メテッラ。碑文は彼女の名と二つの名門の名だけで、他には何も書かれていない。外側には戦勝記念の飾りと縛られた捕虜の浮彫がある。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
戦功を正面から語れなくなった男が、母の墓という形でしか語れなかった、という読み方をする人がいる。そう見るかどうかは別として、この墓が建った後、クラッススの名前は史料からぱたりと消える。何も書かれていないというのが一番落ち着かない。
22. 海外の名無しさん
ローマには最高の栄誉とされるものが3つあったと聞いたことがある。凱旋式、草の冠、そしてスポリア・オピマ。この3つのあいだに序列はあったのか、両方もらった人はいたのかが気になる。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
希少さでいうと草の冠がよく最上位に挙げられる。元老院も将軍も授与できず、全滅の危機を救われた兵士たち自身が戦場の草を編んで指揮官に贈るものだったから。大プリニウスもローマ史全体で数人しか名前を挙げられなかったという。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
複数もらった例なら、スッラが紀元前89年のノラの戦いで草の冠を受け、紀元前81年にはミトリダテス6世に勝って凱旋式も挙げている。ちなみに彼を主人公にした『The Grass Crown(草の冠)』という長編小説もあって、共和政末期を扱ったシリーズの一冊になっている。
25. 海外の名無しさん
子どもの頃、祖父の家の箪笥の上の引き出しに、やけに重いピストルが入っていた。持って下りたら大人たちの空気が一瞬で変わって、質問はぜんぶ流された。戦争中に持ち帰ったものらしい、という程度しか教えてもらえないまま、いまは親戚の誰かが持っている。敵から何かを剥ぎ取って持ち帰る、という行為の後味だけは、2000年経っても変わらないのかもしれない。
まとめ
古代ローマで最高位とされた戦利品スポリア・オピマは、ローマ軍の総司令官が敵の総大将を戦場で自ら討ち取り、その鎧を剥いで樫の木に掛け、自分で担いでユピテル・フェレトリウス神殿に奉納したときにだけ成立した。この条件を満たしたとされる例は建国以来3回だけで、しかも1回目は伝説の王ロムルス、確かな土台があるのは紀元前222年のマルケッルスの例だけである。コメント欄は「大将首を大将本人が取ってこいという無茶」への感心から始まり、opima は optima ではなく「豊かな」の意だという言葉の話へ流れ、最後は紀元前29年に確かに敵の王を討ちながら手続き上の理屈で栄誉を封じられたクラッススの話に落ち着いた。彼の名は母の巨大な墓を残した後、史料から消えている。制度の頂点にあった栄誉が、最後は誰に許すかという政治の問題になっていたというのが、この話のいちばん人間くさいところだった。
元ソース: 古代ローマで最も名誉ある戦利品は「スポリア・オピマ」だった。ローマ軍の総司令官が敵軍の総大将を戦場で自ら討ち取り、その鎧を剥ぎ取ったときにだけ成立し、ローマの歴史で3回しか起きなかったとされる

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