パリの陸軍士官学校で、ナポレオンと同じ年に卒業した同期生がいました。名前はアントワーヌ・ド・フェリポー。卒業時の席次はフェリポーが41位、ナポレオンが42位です。それから14年後の1799年、二人は中東の港町アッコの城壁をはさんで、攻める側と守る側に分かれて向き合うことになりました。海外の掲示板では「学生時代のいがみ合いが戦場で決着した」という話として広まっていますが、確かめられる事実と、あとから付け足された脚色が混ざっています。
今日の知ってた?
🏰 1799年のアッコ包囲戦で、町を守るオスマン帝国側の砲兵と城壁の補強を任されたのは、ナポレオンと同じ1785年にパリの陸軍士官学校を出たフランス人の王党派、フェリポーだった。席次はフェリポー41位、ナポレオン42位(58人中)。ナポレオンはこの包囲に失敗し、エジプト遠征は行き詰まった
背景:同じ士官学校を出た二人
ナポレオンは1779年5月にシャンパーニュ地方のブリエンヌ陸軍幼年学校に入り、1784年10月30日にそこを出てパリの陸軍士官学校(エコール・ミリテール)へ移りました。ナポレオン財団の年譜によると、1785年に「58人中42位」で卒業し、同じ年の11月には南仏ヴァランスの連隊に配属されています。パリにいたのは1年に満たない期間でした。
フェリポーは1767年生まれで、ナポレオンより2歳年上です。英語版ウィキペディアによると、16歳でパリの士官学校に入り、そこでナポレオンと出会いました。二人は1785年9月1日の試験を経てそろって任官し、席次はフェリポーが41位、ナポレオンが42位でした。フェリポーのほうが長く在籍していたので、ナポレオンは短い期間でほぼ同じ順位に届いたことになります。
その後の道は、フランス革命で真っ二つに分かれます。コルシカ出身の小貴族だったナポレオンは革命政府の軍で出世し、1793年のトゥーロン攻囲戦で名を上げました。一方のフェリポーは王政を支持する側に残り、1791年に軍を辞めて国外へ亡命します。亡命貴族の軍に加わって共和国と戦い、1795年にはフランスに戻って王党派の蜂起を企てましたが、捕まって処刑の前夜に脱走したと伝えられています。
フェリポーの名を英国で知らしめたのは、1798年の脱獄劇でした。英国海軍のシドニー・スミス提督は、捕虜としてパリのタンプル塔の監獄に2年ほど入れられていました。フェリポーは偽の命令書を用意して警察の役人になりすまし、スミスを連れ出して、ノルマンディーから漁船で英国の軍艦へ逃がしたとされています。この縁で、フェリポーは英国軍の大佐の位を得て、スミスとともに地中海へ向かいました。
もう少し詳しく
アッコで何が起きたか。1798年にエジプトへ上陸したナポレオンは、翌1799年に北のシリア方面へ兵を進め、3月20日にアッコ(フランス語ではサン=ジャン・ダクル)を囲みました。ナポレオンは部下への手紙で、2週間もあれば落とせると見込んでいたといいます。ところが、町を治めるオスマン帝国の総督ジャッザール・パシャは降伏を拒みました。ジャッザールの右腕だったユダヤ人の側近ハイム・ファルヒが防衛の指揮をとり、フェリポーが中世の古い城壁の補強と大砲の配置を受け持ちました。海からはスミスの艦隊が砲撃で支えています。決定的だったのは、ナポレオンが海路で送った攻城用の重砲をスミスが途中で奪い取り、フェリポーがその大砲を城壁に据えてフランス軍に向けたことでした。フランス軍がようやく城壁に穴を開けて突入すると、その奥にはフェリポーとファルヒが築いた二つ目の壁が待っていました。
撤退とその後。フランス軍の陣営ではペストが広がり、約2,000人の兵士が亡くなったとされます。ナポレオン財団の年譜によると、5月10日の8度目の攻撃が失敗した後、ナポレオンは包囲を解くことを決め、5月20日から21日にかけて兵を引きました。英国のシェイペル手稿財団は、これをナポレオンにとって最初の大きな敗北と紹介しています。ナポレオンはエジプトに戻ったあと、8月に軍をクレベール将軍に任せて少人数で帰国し、10月9日にフランスに上陸、11月のブリュメール18日のクーデタで政権を握りました。アッコで足止めされなければ、帰国の機会もその後の歴史も違っていたかもしれません。
勝った側のフェリポーは、勝利を見届けられなかった。フェリポーは包囲のさなかの1799年5月に、32歳で亡くなりました。死因は熱病ともペストともいわれ、スミスは「休む間もなく日に当たり続けたせいで熱を出し、それがもとで亡くなった」と書き残しています。ナポレオンは後にセントヘレナ島で、「あの男がいなければ東方への鍵を手にしていた」という意味のことを語ったと伝えられています。
「学生時代の宿敵」はどこまで本当か。二人が同じ士官学校で学び、同じ年に41位と42位で任官したことは記録で確かめられます。仲が悪かったという話もあり、英語版ウィキペディアは、1910年の英国の伝記作家ノーウッド・ヤングの本を出典に「ナポレオンはフェリポーの優秀な成績に嫉妬して嫌っていた」と書き、2008年の歴史作家ポール・ストラザーンの本を出典に、二人のけんかの間に割って入った上級生が蹴られたという話を紹介しています。ただし、元の投稿にある「しょっちゅう殴り合っていた」という言い方は、こうした伝記の逸話をふくらませたものとみられます。さらに、よく一緒に語られる「石を混ぜた雪玉で血が出るほどの雪合戦をした」という話は、ナポレオン財団によれば1784年初めのブリエンヌ幼年学校での出来事です。その頃フェリポーはすでにパリにいたはずで、彼がその雪合戦にいたことを示す記録は見当たりません。フェリポーを雪合戦の敵役として描いたのは、1927年のアベル・ガンス監督の映画『ナポレオン』です。また、アッコの防衛を「フェリポーが一人で仕切った」ように語るのも言い過ぎで、総督ジャッザール、側近ファルヒ、スミスの艦隊がそろって初めて守り切れた戦いでした。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
フェリポーとナポレオンはパリの士官学校の同期で、1785年に卒業してる。席次はフェリポー41位、ナポレオン42位。しかもナポレオンのほうが2歳年下。石や砂利を混ぜた雪玉で血まみれの雪合戦をしてたって話もあるよ。
※ 雪合戦の話は、ナポレオン財団によれば1784年初めのブリエンヌ幼年学校での出来事で、フェリポーが加わっていたことを示す記録は確認されていない。フェリポーが雪合戦の相手として登場するのは1927年の映画『ナポレオン』。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
フェリポー「急げ!大砲に砂利入りの雪玉を詰めろ!」
ナポレオン「あいつ……またやりやがった」
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
14年越しの雪合戦の第2ラウンド、会場はアッコの城壁でございます。
4. 海外の名無しさん(>>1への返信)
あのナポレオンを42位にした学校、採点が厳しすぎるだろ。上の41人はいったい何者だったんだ。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
58人中42位って聞くと微妙だけど、ナポレオンはパリの学校に1年もいなかったんだよ。ほかの生徒より短い在籍で卒業試験を受けてるんだから、順位だけで見るのはかわいそう。
6. 海外の名無しさん
歴史小説に出てきたら「ご都合主義すぎる」って編集者に削られるタイプの筋書きだな。学生時代の因縁の相手が、15年後に一番大事な戦いの城壁の上にいるって。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
因縁の相手が最後に結ばれる流れかと思ったら、城壁と大砲で返事してきたっていうね。
8. 海外の名無しさん
結果的にはナポレオンに大きな恩を売った形になってるのが皮肉。アッコで負けてエジプト遠征が行き詰まったから、ナポレオンはパリに帰って、ちょうどいい時期に総裁政府をひっくり返せた。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
しかも帰国のときは、陸のアブキールで勝った話を大きく宣伝して、アッコの負けは目立たないようにしてる。パリに着いたら「無敵の英雄が帰ってきた」扱い。宣伝のうまさは戦術以上かもしれない。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
置いていかれた側の話が好き。クレベール将軍はある日、「今日から君がエジプトの全軍の責任者だ。私はもうフランスに向かった」っていう書き置きを受け取ったんだよな。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
クレベール、気の毒すぎる。しかもその後エジプトで暗殺されてるんだよ。貧乏くじの引き方が完璧。
12. 海外の名無しさん
アッコ包囲戦はオスマン帝国と英国が組んでフランス共和国と戦った戦いなんだから、「フランス人二人のけんか」にまとめるのはちょっと無理がある。守備の総大将は総督ジャッザール・パシャで、守備隊は約5,000人。英国艦隊が海をふさいで援軍を止め、砲術の専門家としてフェリポーがいた、という形だよ。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
ジャッザールって名前自体がアラビア語で「肉屋」の意味なんだよね。容赦のない人物だったけど、指揮官としては有能だった。降伏を求めたナポレオンに「この町が欲しければ、私と兵が一人残らず死んでからにしろ」と返したって話もある。
※ ジャッザールの返事の文言は広く語られている逸話だが、一次史料での裏付けは確認できなかった。
14. 海外の名無しさん(>>12への返信)
ジャッザールの側近だったユダヤ人のハイム・ファルヒも忘れないであげて。フランス軍がやっと城壁を破ったら、その奥にファルヒとフェリポーが作った二つ目の壁があったっていうのが、この戦いで一番好きな場面。
15. 海外の名無しさん
勝負が決まったのは、もっと前だと思う。ナポレオンは攻城用の大砲を船で送ったんだけど、その船団をシドニー・スミスが捕まえた。ナポレオンは重い大砲なしで城を攻めることになり、しかも自分の大砲で撃ち返された。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
そのスミスを、前の年にパリの監獄から脱走させたのがフェリポーなんだよな。偽の命令書を作って役人になりすまして。つまりフェリポーは二度ナポレオンの邪魔をしてる。
17. 海外の名無しさん
正直、アッコがなぜここまで持ち上げられるのかは分からない。補給は細る一方で、援軍も来ない、兵はペストで倒れていく。エジプトでいずれ負けるのは時間の問題だったと思う。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
それはそうなんだけど、ナポレオン本人が後で「あそこを落としていれば東方の玉座を築き直せた」みたいなことを言ってるから、本人にとっては特別な負けだったんだろうね。
19. 海外の名無しさん
ナポレオンの戦歴をスポーツの指標みたいに点数化した分析だと、38回の会戦で負けは5回。しかもアッコは3度目の負けで、戦略的には初めての大敗、そして10年以上続く連勝の前の最後の負け。負かしたほうは一生自慢できる。
※ 戦歴の点数化は、個人がブログで公開した分析にもとづく数字で、数え方によって勝敗の数は変わる。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
いや、フェリポーは包囲の最中に熱病かペストで死んでるから、自慢する時間はなかったんだよ。勝ちを見届けずに32歳で亡くなってる。そこが一番切ない。
21. 海外の名無しさん
アベル・ガンス監督の1927年の映画『ナポレオン』は、幼年学校の雪合戦から始まって、フェリポーが敵役で出てくる。アッコのことも匂わせてるらしい。ガンスは全6部作の構想を最後まで撮れなかったから、この因縁を回収する場面が見られないのが惜しい。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
雪合戦の宿敵って設定自体、たぶんあの映画で広まったんだろうな。映画としては最高だけど、史実と混ざって語られるようになったのはちょっと困りもの。
23. 海外の名無しさん
同期で一番下のほう、58人中56位だったデ・マジって人はナポレオンの親友だったらしい。こっちは王党派のまま革命と戦ったのに、ナポレオンが権力を握ったあとで許されて、宮廷の役職をもらったんだとか。同じ王党派でも、運命がまるで違う。
※ デ・マジの席次と後年の役職については、今回の資料では確認できなかった。
まとめ
パリの士官学校で同期だったナポレオンとフェリポーが、1799年のアッコで敵味方に分かれたのは事実です。ただ、石入りの雪合戦は別の学校の話で、アッコの防衛もフェリポー一人の手柄ではありませんでした。コメント欄は「小説のような筋書き」と面白がる声と、ジャッザールやスミスの役割を補う声に分かれ、勝ちを見届けずに亡くなったフェリポーを惜しむ声も多く見られました。
参考資料
- ナポレオン財団「ナポレオン1世」(年譜。ブリエンヌ入学、士官学校の席次、アッコの包囲解除、帰国とクーデタ)(フランス語)
- ナポレオン財団「ブリエンヌ=ル=シャトーのナポレオン1世博物館」(幼年学校の在籍期間と1784年の雪合戦)(英語)
- シェイペル手稿財団「ナポレオンと、知られざる英国の名提督との因縁」(シドニー・スミスとアッコ)(2023年・英語)
- ウィキペディア英語版「アントワーヌ・ル・ピカール・ド・フェリポー」(英語)
元ソース: 今日知った話:士官学校時代のナポレオンには、罵り合いと殴り合いを繰り返した宿敵フェリポーがいた。15年後、アッコ包囲戦の防衛を指揮してナポレオンに初めての大敗を味わわせたのはその男だった

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