2013年、数学のQ&Aサイトに「クレオ」と名乗る回答者が現れました。数式処理ソフトでも答えが出なかった積分の質問に、早ければ数時間後、途中の計算を1行も付けずに答えの式だけを書き込む。そんな回答が2年あまりで39件。プロフィールには「病気のため、長い回答を書くのがとても難しいのです」とありました。正体探しは10年以上続き、2025年に作者だと認めたのは、理論物理を学んだソフトウェア開発者でした。
※注:舞台は英語圏の数学Q&Aサイト「Mathematics Stack Exchange(マセマティクス・スタック・エクスチェンジ)」。この記事の事実関係は、同サイトに残っている公開の記録、本人の投稿、海外メディアの報道で確認できた範囲で書いています。
今日の知ってた?
🧮 2013年11月から2015年12月にかけて、数学のQ&Aサイト「Mathematics Stack Exchange」で、「クレオ(Cleo)」というアカウントが39件の回答を投稿した。大半は難しい積分の問題で、答えの式だけを書き、途中の計算や説明を付けなかった。
⏱️ 最初に注目された回答が付いたのは、質問の約4時間半後。質問者は、数式処理ソフトのMathematicaでもMapleでも答えの式が見つからなかったと書いていた。
📝 プロフィールには「私の本当の名前はクレオ、女性です。病気のため、会話に参加したり長い回答を書いたりするのがとても難しいのです」と書かれていた。
🔍 2025年2月、ウズベキスタン出身でアメリカ在住のソフトウェア開発者ウラジーミル・レシェトニコフ氏が、クレオは自分が作ったアカウントだと認めた。
背景:答えだけを残す回答者「クレオ」
Mathematics Stack Exchange(以下、Stack Exchange)は、数学の質問を投稿すると、ほかの利用者が解き方つきで答えてくれるサイトです。米科学誌サイエンティフィック・アメリカンのポッドキャストは、「回答者がみんな大学院レベルの理系の学位を持っているYahoo! Answers(日本でいうYahoo!知恵袋)」というたとえで紹介しています。
2013年11月11日、ここに1つの積分の質問が投稿されました。平方根と対数が入り組んだ、見るからに手ごわい式です。質問者は、数式処理ソフトのMathematicaでもMapleでも「閉じた式」が見つからなかったと説明し、数値にすると約8.3722になることを示したうえで、「それでも閉じた式があるのではないかと、まだ期待しています」と書いていました。閉じた式とは、有限個の既知の関数や定数で書ける、すっきりした形の答えのことです。投稿の5分後には、「こんなおぞましい見た目の式に、閉じた式があると考える根拠はあるの?」というコメントが付いています。
4時間半後、回答が書き込まれました。「I = 4π arccot √φ」。円周率πの4倍に、黄金比φ(約1.618)の平方根のアークコタンジェント(逆余接)を掛けたものだ、という1行です。添えられていたのは、黄金比の説明ページへのリンクだけ。証明も、途中の計算も、ひと言の説明もありません。投稿したのは「クレオ(Cleo)」。それまでに回答を1件書いただけの、新しいアカウントでした。
この答えが正しかったことは、2日後に分かります。米マサチューセッツ州で特許関係の仕事をしている元物理学者、ロン・ゴードン氏が、変数の置き換えと部分積分を重ねる長い計算を投稿したのです。途中で8次の多項式が出てきたものの、式の対称性を使って2次方程式まで落とし込むと、そこから黄金比が現れた——と本人は振り返っています。計算に使った紙は、レポート用紙にして半冊ぶん。この解答には、これまでに1000を超える票が入っています。
クレオはその後も同じことを繰り返しました。2015年12月31日までに書いた回答は39件。報道によれば、どれも正しい答えでした。サイトに残っている投稿記録を見ると、早いものは質問の1〜2時間後、多くは24時間以内に付いています。途中の計算は、どの回答にもありません。
もう少し詳しく
「答えだけ」は回答と呼べるのか。説明を付けるのが当たり前のサイトで、クレオの回答は議論を呼びました。ゴードン氏は、数学者ハミングの言葉を引いてコメント欄にこう書いています。「『計算の目的は洞察であって、数字ではない』。結果そのものがよほど示唆に富むのでない限り、これを回答だとは認めない」。11月20日には、サイトの運営について話し合うページで「説明のない回答は役に立つのか」と問いかけ、「回答になっていない」という自分の通報が、「役に立つと感じる人もいる」という理由で退けられたことも明かしました。実際、クレオの1行には、これまでに差し引きで480を超える票が入っています。ゴードン氏は2023年の取材に、「『途中式を書け』と言われ続けてうんざりしていた人たちが、堂々と書かない誰かに喝采を送ったのだと思う」と話しています。
正体探しは10年以上続いた。クレオのプロフィールは、途中で書き換えられています。2013年の時点では、インドの数学者ラマヌジャンの言葉として、眠っている間に現れた手が楕円積分をいくつも書いていった、という夢の話が引かれ、「あなたは1つの公理系に縛られているわけではない。直感と想像力を使って、いつでも自分の公理系を作ればいい」という一文が添えられていました。ロシア語の独立系メディア「メドゥーザ」によると、2015年の初めに現在の文面に変わりました。「私の本当の名前はクレオ、女性です。病気のため、会話に参加したり長い回答を書いたりするのがとても難しいのです。その点は申し訳なく思っています。数学が好きで、このサイトの役に立てるよう精一杯やっていますが、私の回答が誰にとっても役に立つわけではないことは分かっています」。
2015年の大みそかを最後に回答は止まり、あとには謎だけが残りました。正体として名前が挙がったのは、物理学者スティーヴン・ホーキング、女性で初めてフィールズ賞を受けた数学者マリアム・ミルザハニ、数学者テレンス・タオ(本人が取材に対してメールで否定)、あるいはスーパーコンピューター。証明を付けずに驚くような公式を書き残したラマヌジャンになぞらえる声もありました。「クレオは15歳だ」という噂まで広まりましたが、レシェトニコフ氏は2025年2月、X(旧Twitter)に、クレオが年齢を名乗ったことは一度もなく、なりすましが言い出したことだ、と書いています。
決め手は「予備のメールアドレス」。手がかりを積み上げたのはネットの有志でした。海外掲示板Redditのある利用者は、クレオが答えた質問の投稿者たちがいつ活動していたかを調べ、いくつかのアカウントが同じ時期にまとまって動いていることに気づきます。その中に、最初の積分を質問した「ライラ・ポドレスニー(Laila Podlesny)」と、「ウラジーミル・レシェトニコフ」の名前がありました。ただ、この利用者が出した結論は「大学で知り合った友人グループが、共同で運営していたのではないか」というものでした。
2025年1月、ユーチューバーのジョー・マッキャン氏がこの調査をもとにした動画を公開します。それを見た視聴者の1人が、ポドレスニーのプロフィールに載っていたGmailアドレスで「パスワードを忘れた場合」の手続きを試したところ、再設定用に登録された予備アドレスの先頭の数文字が表示されました。それが、レシェトニコフ氏が自分のプロフィールで公開しているアドレスの書き出しと一致したのです(マッキャン氏は動画の中で、他人のメールへのログインを試すようなことは真似しないでほしいと断っています)。
マッキャン氏から連絡を受けたレシェトニコフ氏は、クレオは自分が作ったと認めました。2月には自分のStack Exchangeのプロフィールに、Base64という方式で符号化した文字列を載せています。元に戻すと「Creator of Cleo(クレオの作者)」。ポドレスニーと、同じくクレオに質問を出していたアカウント「オクサナ・ギンメル(Oksana Gimmel)」のプロフィールには、「クレオの別人格。ウラジーミル・レシェトニコフが作成」と読める文字列が加わりました。Xにはこう書いています。「明かすつもりはまったくなかった。でもジョー・マッキャンが連絡してきて、私とクレオを結びつけるとても説得力のある証拠を示したので、認めるしかなかった」。
つまり、クレオを有名にした最初の質問は、本人が別のアカウントから投稿したものでした。ただしマッキャン氏は、関係を疑われた質問者のアカウントがすべて氏のものだったわけではない、とも説明しています。サイトの投稿記録を数えると、クレオが答えた39問の質問者は19アカウント。その中には、レシェトニコフ氏本人の名義や、上の2つのアカウントから出た質問も含まれています(氏が自分のものだと認めたアカウントは、ほかにもう1つあると報じられています)。なお、マッキャン氏によれば、氏はクレオのアカウントのパスワードを忘れたと話していて、クレオのプロフィールそのものは書き換えられていません。
本人が語った理由。メドゥーザによると、レシェトニコフ氏はウズベキスタン国立大学で理論物理を学び、首都タシケントでソフトウェア開発者として働いたのち、アメリカに移ってマイクロソフトにも勤めた人物です。Stack Exchangeには2011年から自分の名前で参加していて、いまもプロフィールに「理論物理をバックグラウンドに持つソフトウェア開発者」と書いています。
趣味は、数式処理ソフトでは解けない積分の閉じた式を探すこと。クレオが現れる1か月前の2013年10月、氏は自分の名前で、運営について話し合うページにこんな相談を書いていました。数値から式の形を言い当てる道具や自作のプログラムを使って答えの見当をつけると、数値計算では何百桁、何千桁まで一致する。それなのに、証明だけがどうしてもできないことがある。そういう「予想」を、長い前置きなしに、人の関心を引く形で投稿するにはどうすればいいだろうか——。
マッキャン氏の動画で紹介された本人の説明は、この相談とつながっています。積分の質問を投稿しても、「これのどこが面白いの?」「なぜ閉じた式があると思うの?」といったコメントが返ってくることに不満があった。そこで別のアカウントから質問を出し、クレオとして答えの式だけを書く。説明のない謎めいた答えがほかの利用者への挑戦状になって、証明に取り組んでもらえると考えた、というものです。マッキャン氏によれば、氏自身、書いた式が正しいと毎回確信できていたわけではありませんでした。一方で最初の積分については、自分でも解けていて、ほかの人がどう解くのかを見たかったと話したそうです。
2013年11月の「説明のない回答は役に立つのか」という議論には、レシェトニコフ氏も自分の名前で意見を書いていました。証明のある回答のほうが常に役に立つと認めたうえで、答えだけの回答にも意味がある場合がある。絶望的に見える積分でも証明を探してみようという気にさせるし、答えの形が証明の手がかりになることもある、という内容です。
動画では、やめた理由といまの気持ちも紹介されています。目的は面白い数学の問題に関心を集めることで、人を困らせたり、あざむいたりすることではなかった。本気で腹を立てる人が出るとは思っておらず、これ以上刺激したくなくてクレオをやめ、その後は自分の名前で、説明を付けた質問を続けた。そして、「嫌な思いや不信感よりも、楽しさのほうを多く生んでいたことを願っています。傷つけた人がいたなら、心からおわびします」。なお、女性を名乗ったことや、病気に触れたプロフィールの文面について本人がどう説明しているかは、今回確認した資料には出てきませんでした。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
面白い話だよね。難しい積分の答えの見当はついたのに、それが正しいという証明だけができない。自分の名前で聞いても誰も乗ってくれないから、質問する役と答える役のアカウントを分けた。そうしたら、みんなが競って証明を始めたわけだ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
「ネットで正しい答えがほしければ、質問するな。間違った答えを書き込め。誰かが必ず訂正しに来る」っていう、あの冗談を地で行ってるな。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
いや、それは少し違うよ。正確に言うと……あっ、やられた。
4. 海外の名無しさん(>>2への返信)
それ、「カニンガムの法則」って名前まで付いてるんだよ。今回は間違った答えじゃなくて、「説明のない正解」で人を動かしたわけだけど。
※ カニンガムの法則:「ネットで正しい答えを得るいちばんの方法は、質問することではなく、間違った答えを書き込むことだ」という経験則。ウィキを考案したウォード・カニンガムにちなんでこう呼ばれる。
5. 海外の名無しさん
自分はずっと、先に答えを出しておいて、質問も自分で投稿してたんだろうと思ってた。有名になった最初の質問を出したアカウントも本人のものだったそうだから、半分くらいは当たってたな。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
半分、というのがたぶん正確なんだよ。本人も、書いた式が正しいと毎回確信してたわけじゃないらしい。数値では合うけど、厳密な証明がない。だからほかの人に確かめてほしかった。みんなが何時間もかけて証明して、結果は合っていた。それが伝説になった。
7. 海外の名無しさん(>>5への返信)
でも、何のためにそこまで? ネットの掲示板で感心されたかっただけなの?
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
本人の説明では、誰も相手にしてくれない問題に関心を集めたかったそうだ。10年以上、自分だと名乗らなかったんだから、称賛がほしかったわけじゃないというのは信じていい気がする。
9. 海外の名無しさん
数学に詳しくないので教えてほしい。「途中の計算を見せない」って、そんなに問題なの? 答えが合ってるなら、それでいいのでは。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
どうやってその答えにたどり着いたかが書かれていないと、ほかの人には確かめようがないんだ。確かめられない答えは、適当に書いた数字と見分けがつかない。それにあのサイトは、解き方を後の人のために残しておく場所でもあるから。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
しかも、数式処理ソフトでも答えの式が出なかった積分だからね。そこに式が1行だけ置かれて、2日後に別の人が長い計算で確かめてみたら、ぴったり合っていた。そりゃ騒ぎになるよ。
12. 海外の名無しさん
当時、あのサイトを毎日のぞいてた。難問が上がって、しばらくするとクレオの1行が付く。コメント欄は「説明してくれ」と「いや、これはすごい」で真っ二つ。あの空気は今でもよく覚えてる。
13. 海外の名無しさん
学生のころ、答えは合ってるのに「途中式がない」と減点され続けた身としては、正直ちょっと胸がすく話だ。先生のほうが正しかったと分かったのは、大人になってからだけど。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
クレオに票を入れた人の何割かは、まさにその気持ちだったと思うよ。最初の積分を証明した本人も、あとになってそんなふうに振り返ってた。
15. 海外の名無しさん
証明なしで公式だけを書く、と聞くとどうしてもラマヌジャンを思い出す。あちらはほぼ独学で、公式は女神が夢の中で教えてくれると語っていたそうだけど。
※ ラマヌジャン:インドの数学者(1887〜1920年)。証明を付けないまま膨大な数の公式をノートに書き残した。女神が夢で公式を示したという話は、本人が語ったとして伝わる逸話。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
クレオも最初のころは、プロフィールにラマヌジャンの夢の話を引用してたんだよ。なぞらえられるのは、分かったうえでやってたんだと思う。
17. 海外の名無しさん
正体がソフトウェア開発者と聞いて納得した。途中の計算なしで答えだけ、というのは、不具合を指摘されたプログラマーの決まり文句「自分のパソコンでは動いてます」の数学版だろ。
18. 海外の名無しさん
ホーキングだ、フィールズ賞の数学者だ、スーパーコンピューターだと10年騒いで、正体は積分が趣味の開発者。このオチ、個人的にはいちばん好きだ。趣味で積分の答えを探している人がいる、というだけでうれしくなる。
19. 海外の名無しさん
話としては面白いけど、病気を理由にしたところだけは引っかかる。実際にそういう事情で長い文章を書けない人はいるわけで、説明しない理由に持ち出してよかったのか、とは思う。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
そこは同感。ただ、本人も「傷つけた人がいたなら心から謝りたい」と言ってるそうだし、やめたのも、本気で怒る人が出てきたからだと聞いた。悪意でやっていた人の振る舞いには見えないんだよな。
21. 海外の名無しさん
クレオが女性だと思われていたから、「説明しないのはおかしい」と食ってかかる人が多かった面はあると思う。同じことを男性の名前でやっていたら、あそこまで疑われただろうか。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
どうだろう。あのサイトは、誰が書いても「説明を付けて」と言われる場所だよ。逆に、謎の女性数学者という人物像があったから、ここまで語り継がれたとも言える。両方あったんじゃないかな。
23. 海外の名無しさん
正体の明かし方が、いかにも開発者らしくて笑った。自分のプロフィールに暗号みたいな文字列を載せて、解読すると「クレオの作者」。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
Base64は暗号というより、ただの置き換えだけどね。圧縮ファイルみたいなもので、展開すれば誰でも読める。つまり、ほぼ堂々と名乗ったのと同じだよ。
25. 海外の名無しさん
今はAIが答えだけを出してきて、人間がその確認に追われている。10年以上前に、同じ構図をひとりで作っていた人がいたと思うと、妙に先を行っていた話だ。
まとめ
答えの式だけを39件残して姿を消した「クレオ」は、積分が趣味のソフトウェア開発者が作ったアカウントでした。本人は、注目されにくい問題に関心を集めたかったと説明しています。コメント欄では、正体のオチを面白がる声と、病気を理由にしたことや女性の名前だったことへの引っかかりが、割れたまま並びました。途中の計算のない1行が、ほかの人たちに何ページもの計算を書かせた——それだけは確かです。

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