「私を人嫌いだと言う人々よ、あなたがたは誤解している」31歳のベートーヴェンが弟たちに書き、誰にも見せなかった手紙

「私を人嫌いだと言う人々よ、あなたがたは誤解している」31歳のベートーヴェンが弟たちに書き、誰にも見せなかった手紙 人物・偉人

「耳が聞こえなくなっても名曲を書き続けた作曲家」として知られるベートーヴェン。けれど30歳前後の彼は、悪くなっていく耳のことを世間に隠し、人付き合いを避けて暮らしていました。周りから「気難しい人嫌い」と見られていた彼が、31歳の秋に弟たちへ宛てて書き、誰にも見せずにしまっておいた手紙があります。そこには、誤解されていた本心が綴られていました。

今日の知ってた?

📜 1802年10月6日、31歳のベートーヴェンは、ウィーン郊外の村ハイリゲンシュタットで、弟のカールとヨハンに宛てた長い手紙を書いた。

👂 手紙の中で彼は、自分が人嫌いだと思われているのは誤解で、本当は人の輪に加わりたかったのに、耳が聞こえないとどうしても打ち明けられず、身を引くしかなかったと告白している。絶望から命を絶つ寸前まで追い詰められたが、芸術のために思いとどまったとも書いている。

✉️ 手紙は送られないまま手元に残され、1827年に本人が亡くなったあと、遺された書類の中から見つかった。今では「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれている。

背景:ハイリゲンシュタットの遺書とは

ベートーヴェンは1770年にドイツのボンで生まれ、1792年にウィーンへ移りました。ウィーンではハイドンに師事するかたわら、まず腕の立つピアニストとして名を上げていきます。ところが20代の後半から、耳の調子がおかしくなり始めました。遺書の中で本人は、治る見込みのないまま、もう6年がたったと書いています。

耳のことを医師以外に初めて打ち明けたのは、1801年6月、ボン時代からの友人で医師のヴェーゲラーに宛てた手紙だったとされます。耳は昼も夜もブンブンと鳴り続け、小さな声は聞き取れないのに、大声で叫ばれると耐えられない。そのうえで彼は、「この2年ほど、人の集まりをほとんど避けてきた。『私は耳が聞こえない』と人に言うことができないからだ。ほかの職業ならまだしも、私の仕事にとってこれは恐ろしい状態だ。少なからずいる敵たちが、何と言うだろう」と書いています。音楽家にとって耳の病は、そのまま仕事の弱みでした。

1802年4月、ベートーヴェンは主治医シュミットの勧めで、ウィーン郊外の静かな村ハイリゲンシュタット(現在はウィーン市19区の一部)に移ります。都会の騒がしさを離れれば耳が休まり、回復するかもしれないという期待からでした。しかし夏が過ぎても聞こえは戻らず、10月6日、彼は弟たちに宛てて長い手紙を書きます。4日後の10月10日には、短い追伸を書き足しました。

手紙はこう始まります。「おお、私を意地の悪い、頑固な、人嫌いな人間だと思い、そう口にする人々よ。あなたがたは私をどれほど誤解していることか。私がそう見える本当の理由を、あなたがたは知らないのだ」。続けて彼は、生まれつき人との交わりを楽しむ陽気な性格だったのに、早くから孤独に暮らすしかなかったこと、音楽家として誰よりも完璧であるべき感覚に欠陥があるとは、どうしても口にできなかったことを打ち明けています。そばにいる人には遠くの笛の音や羊飼いの歌が聞こえているのに、自分には何も聞こえない。そうした屈辱が重なって絶望の淵に立たされ、「あと少しで、私は自ら命を絶っていただろう。私を引き止めたのは、ただ芸術だけだった」と書いています。自分の中にあるものをすべて作品にするまでは、この世を去ることなどできないと思えたのだ、と。

※ 手紙の引用は、英訳をもとに趣旨を変えない範囲で日本語にしたもの。

もう少し詳しく

宛先は「弟」ではなく「弟たち」。元スレのタイトルは「弟に宛てた手紙」と単数になっていますが、実際の宛先は2人の弟、カールとヨハンです。不思議なことに、原本ではヨハンの名前が入るはずの箇所が空欄のままになっていて、その理由ははっきりしていません。手紙の後半では、自分が死んだら主治医シュミットに病状を書き記してもらい、この手紙を添えてほしいと頼んでいます。せめて死後には世間に理解してほしい、という願いでした。わずかな財産は2人で等しく分けるように、とも書いています。

完全な秘密ではなかった。世間には隠していたものの、前の年にはヴェーゲラーら、ごく親しい友人には手紙で耳のことを打ち明けていました。ただ、この遺書そのものは生前、誰にも見せなかったと考えられています。

「遺書」を書いてから25年近く生きた。遺書と呼ばれてはいますが、書いた本人はこのあとウィーンに戻り、作曲を続けました。ハイリゲンシュタットの滞在中に仕上げた交響曲第2番は、翌1803年4月にウィーンで初演されました。交響曲第3番『英雄』も、第5番も、第9番も、すべてこの手紙より後に書かれた作品です。聴力はその後も衰え続け、晩年は筆談用のノートに頼って会話するようになりました。「会話帳」と呼ばれるこのノートは、130冊あまりが今も残っています。1827年3月26日、ベートーヴェンはウィーンで56年の生涯を閉じました。遺書は同じ3月、秘書だったシンドラーと、ボン時代からの友人ブロイニングが遺品の書類の中から見つけ、その年の10月に公表されています。

原本はハンブルクに、書いた家はウィーンに。遺書の原本は1888年から、ドイツのハンブルク州立・大学図書館に収められています。スウェーデン出身の歌手ジェニー・リンドとその夫が寄贈したものです。遺書を書いたとされるハイリゲンシュタットの家は、現在ウィーン・ミュージアムが運営する「ベートーヴェン・ミュージアム」として公開されています。

難聴の原因は今も分かっていない。原因については、耳硬化症、感染症の後遺症、鉛中毒などさまざまな説があり、決着はついていません。2023年には遺髪からDNAを取り出して調べた研究が発表されましたが、難聴の原因を特定するには至りませんでした。2024年には、別の研究チームが本人のものと確認された遺髪から高い濃度の鉛を検出し、難聴に影響した可能性を指摘しています。ただし、それだけで説明がつくと断定されたわけではありません。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
いちばん刺さったのは、そばにいる人には遠くの笛の音が聞こえているのに、自分には何も聞こえなかったっていうくだり。音楽で生きている人間が、隣で「ほら、笛が聞こえるね」と言われて黙るしかない。その場面を想像するだけでつらい。

2. 海外の名無しさん
時代の空気も大きかったと思う。当時は本人にどうしようもないことでも、平気で笑いものにされた。それに今でこそ「耳が聞こえないのに名曲を書いた伝説の人」だけど、この頃の彼はまだ伝説じゃなくて、ウィーンで評判の作曲家の一人くらいの立場。耳のことが知れたら笑いものになるか、少なくとも仕事を失うと考えたのは無理もないよ。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
しかも当時は、作曲家である前に腕利きのピアニストとして売れてたんだよね。友人への手紙でも、耳のことが知れたら敵たちに何と言われるか、ってまず心配してるくらいだし。ライバルに弱みを知られるのが本気で怖かったんだろうな。

4. 海外の名無しさん
このタイトルだと「本当は人懐っこい人だった」みたいに読めるけど、いろんな人の証言によれば、ベートーヴェンは耳を悪くする前からかなり付き合いにくい人だったらしいよ。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
どっちも本当なんだと思う。もともと気難しいところがあって、そこへ耳のことを隠す必要まで重なったら、誰も近づけなくなる。本人がいくら「誤解だ」と書き残していても、周りからは偏屈な人にしか見えなかったんだろう。

6. 海外の名無しさん
耳が遠くなっただけじゃなくて、ひどい耳鳴りにも苦しんでいたらしい。個人的には、あそこまで追い詰められたのは耳鳴りの影響も大きかったんじゃないかと思ってる。重い耳鳴りのつらさは、なった人にしか分からない。耳を大事にすれば耳鳴りになる確率が1%でも下がるなら、みんな本当に耳を大事にしてくれ。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
耳鳴りのことは、ヴェーゲラーっていう友人への手紙にも出てくるね。周りの声は聞こえにくいのに、頭の中では昼も夜も音が鳴りやまない。その二つが同時に来るんだから、しんどさは想像を超えてると思う。

8. 海外の名無しさん
耳がほとんど聞こえなくなってからは、ピアノに棒を取り付けてその端を歯でくわえ、あごの骨に伝わる振動で音を確かめながら作曲していた、って話をよく聞くよね。

※ 広く知られた逸話だが、同時代の一次史料での裏付けははっきりしていない。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
いわゆる骨伝導ってやつか。本当なら、今どきの骨伝導イヤホンと同じ仕組みを200年前に自力で使ってたことになる。耳がだめになっても音楽をあきらめない執念がすごい。

10. 海外の名無しさん
「遺書」って呼ばれてるけど、実際にはこの後25年近く生きてるんだよね。ここで思いとどまってくれたから、『英雄』も第5番も第9番も生まれた。「芸術のために生きる」と決めた人の手紙だと思って読むと、印象がまるで変わる。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
第9の初演のときには、もうほとんど聞こえていなかった。客席が大喝采しているのに気づかず、歌手に袖を引かれて振り返って、そこで初めて拍手に気づいた、という有名な話がある。

※ よく語られる場面だが、拍手が起きたのが第2楽章の後か曲の終わりか、振り向かせたのが誰かなど、細部は伝える資料によって食い違う。

12. 海外の名無しさん
晩年は「会話帳」っていう筆談用のノートで人と話してたんだけど、その会話帳には、あとから書き足された偽の書き込みが150か所ほどあるんだって。書き足したのは秘書のシンドラーで、自分を一番の側近に見せたかったんじゃないかと言われてる。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
そのシンドラーって、この遺書を見つけた一人でもあるんだよな。一瞬「じゃあ遺書も怪しいのか?」と思ったけど、原本がハンブルクの図書館に残っていて本人の筆跡だから、そこは心配ないらしい。

14. 海外の名無しさん
スレの途中から、英語圏お約束の作曲家ダジャレ大会が始まってた。「弟ならきっと彼のバッハ(back=味方)についてたのに」「それはヘンデル(handle=扱う)のが大変そう」「せめて頼れる人のリスト(Liszt)くらい作っておけば」。英語だとちゃんと成立してるのが悔しい。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
最初の一発は「どこにでもハイドン(hidin’=隠れてる)ふざけたやつがいる」だったね。ちなみにハイドンは実際にウィーンでベートーヴェンを教えた先生だから、ネタとしては一応筋が通ってる。

16. 海外の名無しさん
映画『不滅の恋/ベートーヴェン』でクラシックが好きになった。誰もいないと思ってピアノに頭をつけ、響きを体で感じながら弾く場面がずっと忘れられない。脚色の多い映画だけど、あの場面だけで耳の苦しみが伝わってくる。

17. 海外の名無しさん
実は昨日、補聴器の店に電話して予約を入れたところなんだ。半年くらい前、何かを口にしたあとにひどい反応が出て、めまいと吐き気のあと両耳の鼓膜がパンパンに腫れた。それから聞こえは悪くなる一方。悔しいのは、ベースを買って2か月、毎日練習してた時期だったこと。タブ譜を見て弾くことはできるけど、曲を聴いて耳で音を拾う昔ながらの練習が、今はほとんどできない。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
補聴器を買う前に、まず耳鼻科で診てもらったほうがいい。鼓膜や中耳の問題なら治療で聞こえが戻ることもあるし、内耳が傷んでいるなら話が変わる。どこが原因かを検査で調べないまま補聴器を勧めてくる店は、正直ちょっと怪しいよ。

19. 海外の名無しさん(>>17への返信)
音を楽しめなくなるのは本当につらいと思う。でもベースならチューナーで音を合わせておいて、バンドのほうに合わせてもらえばいい。音楽はまだ十分楽しめるはずだから、へこまずに続けてほしい。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
ありがとう、優しいな。自分が楽しむのもそうだけど、聴いてくれる人に楽しんでもらいたいんだ。いつか地元の小さな店で、少人数の前で演奏するのが目標。

21. 海外の名無しさん
難聴で意外と知られていないのが、認知症との関係。耳が聞こえにくくなっても脳は必死に聞き取ろうとして、そこに処理能力をどんどん割いてしまう。そこへ聞こえないことによる孤立が重なると、認知症にとって最悪の条件がそろうらしい。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
2020年に出た研究報告でも、暮らしの中で手を打てる認知症のリスク要因のうち、難聴への早めの対処がいちばん効果が大きいと推計されてた。補聴器をためらってる人は、耳のためだけじゃなく頭のためだと思って使ってほしい。

23. 海外の名無しさん
母は長い年月をかけて、少しずつ耳が聞こえなくなっていった。気づいたのは20代半ばで、40代半ばには補聴器をつけても静かな場所でしか聞き取れなくなった。若い頃は社交的な人で、父が牧師だったから、教会の人たちを家に招いてもてなすのが日常だったらしい。子ども3人に手がかからなくなって働きに出ようとしたけど、耳のせいで思うようにいかず、苦労して教員の養成課程を終えたのに、結局教師にはなれなかった。耳のことをずっと恥じていて、家族が代わりに説明しようものなら本気で怒った。少しずつ友達とも疎遠になって、最後は耳を使わずにできる掃除の仕事を一人で続けていた。人生最後の20年ほどは、そのお客さんたちが母の友達だった。引退したくなかったのは、辞めたら人との付き合いがなくなるからだと思う。今でも思い出すと泣けてくる。会いたいよ、母さん。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
お母さんの話、ベートーヴェンの手紙とそのまま重なるね。人が好きなのに、聞こえないと言えないから離れていくしかない。お客さんが友達だったっていうところで、こっちまで泣きそうになった。

25. 海外の名無しさん
10年以上、難聴の治療に関わる仕事をしてきた。聞こえるようになった人の変わりようは本当にすごいよ。表情が明るくなって、また人の輪に戻っていく。耳が遠くなってきた家族がいたら、責めずに一度検査を勧めてあげてほしい。

まとめ

「気難しい人嫌い」と見られていたベートーヴェンは、実は耳のことを言い出せずに人の輪から身を引いていました。弟2人に宛てた手紙は送られないまま、死後に見つかって「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれています。コメント欄には、難聴や耳鳴りに悩む本人や家族の体験談が次々に寄せられました。芸術のために生きると決めた31歳の彼は、その後25年近く書き続け、第9を世に送り出しています。

元ソース: ベートーヴェンは難聴を秘密にしていた。送らずじまいの手紙で、人嫌いと誤解されていた本心と、命を絶つことまで考えた苦しみを打ち明けていた

コメント

  1. Reddit名無しさん says:

    若きベートーベンがモーツアルトを訪問して、金儲けの方法を尋ねたんだとさ。
    難聴の原因は妊娠時に母親がわずらっていた梅毒だとさ。