「ローマ人が去ったあとのロンドンは、400年以上ほぼ空っぽだった」その間、町は1キロ西へ引っ越していた…?

「ローマ人が去ったあとのロンドンは、400年以上ほぼ空っぽだった」その間、町は1キロ西へ引っ越していた…? 歴史

ロンドンという街は、ずっと同じ場所にあったわけではありません。ローマ帝国がブリテン島から手を引いたあと、石の城壁に囲まれた都市ロンディニウムは400年以上ほぼ空っぽのまま置かれ、その間、人々は1キロほど西の川岸に別の町を作って暮らしていました。そして西暦886年、アルフレッド大王が古い城壁の中へ町を呼び戻します。海外掲示板で話題になっていたのは、この「町ごと出ていって、また戻ってきた」ロンドンの400年でした。

今日の知ってた?

🏛️ ローマ帝国の撤退後、城壁都市ロンディニウムは400年以上にわたってほぼ放棄されていた。その間、アングロサクソン人は約1キロ西の川岸に「ルンデンウィック」という交易の町を築いて暮らし、西暦886年、ヴァイキングへの備えとしてアルフレッド大王が古い城壁の中へ町を戻した。

背景:ロンディニウムとルンデンウィック

ロンディニウムは、西暦50年ごろにローマ人がテムズ川のほとりに築いた都市です。川を渡れる浅瀬があり、海から船が遡ってこられる位置でもあったため、属州ブリタンニアの交易と行政の中心になりました。2世紀末から3世紀にかけては全長3キロ近い石の城壁が巡らされ、囲まれた面積はおよそ1.4平方キロメートル。今日「シティ・オブ・ロンドン」と呼ばれている金融街の一帯と、大まかに重なります。

ところが西暦410年前後、ローマはブリテン島の防衛から手を引きます。税も軍も本国からの物資も途切れると、都市を都市として支えていた仕組みごと消えました。市場も公共浴場も維持されなくなり、石造りの建物は崩れるにまかされ、5世紀のうちにロンディニウムは町としての機能を失います。

その後、ブリテン島に定着したアングロサクソン人が7世紀ごろに作ったのが、ルンデンウィックでした。場所は城壁の外、テムズ川の岸沿いを1キロほど西に行ったあたり——現在のオルドウィッチからコヴェント・ガーデン、ストランド通りにかけての一帯です。8世紀の歴史家ベーダは、ここを「陸から海から、多くの民が集まる交易の地」と書き残しています。つまり城壁の中がしんとしていた間も、ロンドンという都市そのものは死んではおらず、少しだけ西にずれた場所で商売を続けていたことになります。

もう少し詳しく

「ほぼ放棄」という言い方が絶妙です。ローマ期の地層の上には、ロンドンのあちこちで「ダークアース」と呼ばれる黒っぽい土の層が積もっています。建物の瓦礫が片づけられないまま土に還り、その上が畑や牧草地として使われていたと考えられる層で、都市生活が止まったことを示す証拠とされてきました。ただし、この層をどう解釈するかは考古学者の間でも意見が分かれており、「完全な無人」と「細々とした居住の継続」のどちらだったのかは今も議論が続いています。実際、604年には城壁の内側のラドゲート・ヒルにセント・ポール大聖堂の前身が建てられ、ロンドン司教座が置かれました。町の暮らしは外の川岸にあったのに、教会だけは空いた城壁の中にあった——というねじれ方をしていたわけです。

なぜ、わざわざ城壁の外に出たのか。アングロサクソン人の交易は、船を岸に乗り上げて荷を下ろす「浜辺の市場」の形が基本でした。ローマ人が石で造った立派な埠頭より、傾斜のゆるい砂利の川岸のほうが都合が良かったのです。ルンデンウィックの「ウィック」は古英語で交易のための集落を指す言葉で、イプスウィッチやノリッジといった地名にも同じ要素が残っています。ストランド通りの「ストランド」も、そのものずばり「岸辺」を意味する古い言葉です。石の壁の中で暮らすより、開けた川岸に小屋を並べるほうが、当時の商売には合っていました。

そして886年、城壁の価値がよみがえります。9世紀に入るとヴァイキングの襲撃が本格化し、ルンデンウィックは無防備な川岸の町であるがゆえに繰り返し狙われました。871年から翌年にかけては、ヴァイキングの大軍がロンドンで冬を越しています。ここで西サクソンの王アルフレッド大王が、放置されていたローマの城壁に目をつけました。886年、彼は城壁の内側に町を作り直し、新しい区画と船着き場を整えて人を移します。この再建されたロンドンは「ルンデンブルフ」と呼ばれ、大王は娘婿にあたるマーシアのエゼルレッドに統治を任せました。平和なうちは無用の長物だった石の輪が、危険な時代になった途端に一番の資産に変わったわけです。

地名だけが、引っ越しの記憶を残しました。人が城壁の中へ戻ったあと、西のルンデンウィックがあった一帯は「エアルド・ウィック」、つまり「古いほうの集落」と呼ばれるようになります。これがなまって残ったのが、現在のオルドウィッチという地名です。1000年以上前の人が「あっちは古い町のほう」と言っていた呼び方が、通りの名前として今のロンドンの地図にそのまま載っている——この話でいちばん効くのは、たぶんこの一点だと思います。

※補足:ローマ軍がブリテン島から撤退した410年ごろ、日本は古墳時代でした。アルフレッド大王がロンドンへ人を戻した886年は平安時代の前期にあたり、菅原道真が讃岐守として現在の香川県へ赴任した年です。城壁の中が空いていた400年あまりは、日本でいえば古墳時代から平安時代前期までが、まるごと収まってしまう長さになります。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
ロンドンで不動産を買えたかもしれない、唯一の時代じゃないか。城壁つきの物件が400年以上も空いていたなんて、今のロンドンの家賃から考えると悪い冗談にしか聞こえない。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
案外、家賃が高すぎて誰も住めなくなったから放棄されたのかもしれないぞ。そう考えるとロンドンは1600年前から一貫していることになる。

3. 海外の名無しさん
「ほぼ放棄された」という書き方が絶妙なんだよな。行政の中心としての機能が消えたという意味であって、人っ子ひとりいなくなったという話ではない。何しろ城壁に囲まれた都市だぞ。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
そこは考古学者の間でも決着していない。ローマ期の地層の上に「ダークアース」と呼ばれる黒い土の層が広く積もっていて、瓦礫が土に還って畑や牧草地になった跡だと見られている。ただ、それが完全な無人を意味するのか、細々と人が住み続けた結果なのかは今も議論中だ。だから「ほぼ」という言葉が入っている。

5. 海外の名無しさん(>>3への返信)
記事の面白いところはそこじゃなくて、ローマの城壁都市が空いている間に、サクソン人がコヴェント・ガーデンのあたりに別の町を作って商売していた、という部分だと思う。町が消えたんじゃなくて、横にずれたんだ。

6. 海外の名無しさん
そもそもロンドンがあの場所にあるのは、ローマ人が地図を見て適当に決めたからじゃない。イングランド南東部の大河であるテムズ川に面していて、今のロンドン橋のあたりに干潮時なら歩いて渡れる浅瀬があった。ローマ人が来るずっと前から使われていた渡河点なんだ。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
城壁の西端にあたるラドゲートから、コヴェント・ガーデンまでは歩いて20分ほど。「都市が移動した」と言うと大移動を想像するけれど、実際は駅ひとつ分ずれた程度の距離でしかない。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
今のコヴェント・ガーデンを「中心部ではない」と思う人はまずいないだろうね。イギリスの道路距離の起点になっているチャリング・クロスもこの一帯だ。ただし中世のロンドン市民から見れば、あそこは間違いなく城壁の外の西側だった。

9. 海外の名無しさん
このスレで一番ぞくっとしたのは、オルドウィッチという地名が古英語の「古いほうの集落」から来ているという点だ。誰も説明していないのに、地名そのものが引っ越しの記録になっている。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
通りとしてのオルドウィッチが整備されたのは1905年だけれど、名前自体はその一帯に残っていた古い呼び名を復活させたものだよ。おまけに同じ名前の地下鉄駅もあって、こちらは1994年に廃止されて今も封鎖されたまま眠っている。古い集落の名前がついた駅が、また使われなくなって放置されているの、出来すぎている。

11. 海外の名無しさん
アルフレッド大王の目線で考えると完全に「掘り出し物件」だよな。頑丈な城壁が一式そろった土地がまるごと空いている。ゼロから城塞都市を築くより、掃除して住んだほうが圧倒的に安い。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
テムズ川があるのも大きい。船をそのまま城壁のすぐ内側まで入れられて、川自体が南からの防壁にもなる。立地としては破格だ。ヴァイキングに追われている王が探していた条件が、そっくりそのまま空き家で放置されていた。

13. 海外の名無しさん
むしろ気になるのは、なぜいったん城壁の外に出たのかという話。アングロサクソンの商人は船を岸に乗り上げて荷を下ろすやり方だったから、ローマ式の石造りの埠頭を必要としていなかったんだ。傾斜のゆるい川岸のほうが商売しやすかった。ストランド通りの名前が「岸辺」の意味なのはその名残だよ。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
つまり平和なうちは城壁はただの邪魔な石の輪で、ヴァイキングが来た瞬間に最強の設備に化けたわけだ。同じ土地の価値が、時代の危険度ひとつでここまで反転するの面白いな。

15. 海外の名無しさん
安全が保証されるなら、西暦800年ごろのヨーロッパを旅してみたい。まだ崩れきっていないローマの遺跡が、後の時代に建て替えられる前の状態でそのへんに転がっているのを見たいんだ。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
どうせ時代を選べるなら400年を狙えばいいのに。その頃ならまだ廃墟じゃなくて、全部ちゃんと建っていて現役で使われている状態だぞ。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
いや、廃墟とそこで普通に暮らしている人々の組み合わせにこそ味があるんだよ。全盛期のローマより、広場で羊が草を食んでいる時代のローマのほうを見てみたい。

18. 海外の名無しさん
ローマ撤退後のブリテン島って、今でいうポストアポカリプスそのものだよな。前の世界の巨大な建造物が崩れかけたまま残っていて、作り方の知識は失われていて、かつてここにいた高度な人々の伝説だけが語り継がれている。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
古英語に『廃墟』という詩が残っていて、作者は崩れたローマの建造物を見て「巨人たちの手仕事」と呼んでいる。君が想像している感覚が、まさに当時の人の言葉で書き留められているんだ。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
あの詩、歌われている遺跡はバースの温泉施設だという説が有力だそうだ。石造りの浴場から湯気が上がっていた頃を想像しながら崩れた壁を眺めている。1200年前の人が書いた廃墟めぐりの感想文が読めるって、よく考えるとすごい話だ。

21. 海外の名無しさん
城壁の中が完全な無人でなかった証拠として、604年には内側のラドゲート・ヒルにセント・ポール大聖堂の前身が建てられて、司教座が置かれている。町の暮らしは外の川岸にあったのに、教会だけは空いた城壁の中にあった。この構図がやけに絵になる。

22. 海外の名無しさん
ゲームのアサシンクリード ヴァルハラがちょうどこの数十年前の時代を舞台にしていて、荒れ果てたロンディニウムを歩き回れる。地元の人に頼まれて盗賊を追い払うと、それが後の街の再建につながっていく、という筋書きになっている。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
雰囲気は悪くないけれど、考証の正確さは期待しないほうがいい。あのゲームのロンディニウムはかなり誇張されていて、すぐ横にテムズ川が流れているのに、なぜか巨大な水道橋の遺跡がそびえ立っていたりする。水に困っていない街に水道橋はいらないんだ。

24. 海外の名無しさん
ローマ本体もよく似た経過をたどっている。ナポレオンが入城した頃の人口は最盛期の2割以下だった。水道橋が壊れ、穀物の輸送が止まり、戦争が繰り返された結果、100万人都市が2万人ほどの田舎町に戻ってしまったんだ。大都市を維持するには、それを支える他の都市が要るということだね。

25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
オスマン帝国時代のアテネも、アクロポリスのふもとに数千人が住むだけの「マラリアの湿地」と書かれている記録がある。「永遠の都市」というイメージのほうが、案外あとから近代が作ったものなんだよな。

まとめ

ローマが去ったあとの400年余り、ロンドンは消えたのではなく、城壁の外へ1キロほど引っ越していました。そしてヴァイキングの脅威が高まった886年、アルフレッド大王が古い石の壁の中へ町を連れ戻します。コメント欄では、「ほぼ放棄」という言葉の慎重さをめぐる指摘から、ダークアースの解釈、城壁の外を選んだ交易のかたち、そしてオルドウィッチという地名に残る「古いほうの集落」の記憶まで、細かい訂正と補足が次々に飛び交っていました。都市が動いた痕跡が、今も通りの名前として残っているのが何より面白いところです。

元ソース: ローマ時代のロンドンは、ローマ帝国がブリテン島から撤退したあと400年以上ほぼ放棄されていた。886年、アルフレッド大王がヴァイキング対策として城壁都市に人を戻すまで

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