「子どもは親と一緒に食事ができない」その決まりを嫌って切符を替えた25歳の父…替えた先はタイタニック、同じ二等には唯一の日本人乗客も

「子どもは親と一緒に食事ができない」その決まりを嫌って切符を替えた25歳の父…替えた先はタイタニック、同じ二等には唯一の日本人乗客も 歴史

1912年4月、タイタニック号の二等船室に、ハイチ出身の技師ジョセフ・ラロッシュと、身重のフランス人の妻、3歳と1歳の娘の4人家族が乗っていました。一家がもともと予約していたのは、フランスの別の新造客船です。ところがその船では、子どもは親と一緒に食事ができない決まりでした。娘たちと離れるのを嫌ったジョセフは切符を替えます。替えた先が、10日早く出港するタイタニックでした。妻と娘たちは救命ボートで助かり、25歳のジョセフは帰りませんでした。海外掲示板では、その決まりがなぜあったのかを教え合うやり取りと、娘たちと同じ食卓を選んだ父親を思う声が並びました。

※注:元スレッドのタイトルは「記録に残る唯一の黒人の乗客」です。BBCの記事(2026年10月11日)も同じ言い方をしています。ただ、一緒に乗っていた娘2人もジョセフの子です。乗客と乗組員の記録を集めた研究サイト「エンサイクロペディア・タイタニカ」は「黒人の男性乗客は彼1人だったと考えられている」と書き、英語版ウィキペディアは「黒人の乗客は3人で、残りの2人は彼の子どもたち」としています。この記事では、アフリカ系の血を引くと分かっている乗客は父と娘2人の3人、大人は父1人、として紹介します。乗組員については確かめられなかったので、乗客に限った話です。

※注:文中の手紙は、もとはフランス語で書かれたものです。引用は、タイタニック歴史協会の記事に載っている英訳から当サイトで訳しました。

今日の知ってた?

🚢 1912年4月10日、ハイチ出身の技師ジョセフ・ラロッシュ(25歳)は、妊娠中のフランス人の妻ジュリエット(22歳)、娘のシモーヌ(3歳)とルイーズ(1歳)を連れて、フランスのシェルブールからタイタニック号の二等に乗った。

🍽️ 一家はもともと、フランスの新造客船「フランス」号を予約していた(一等だったとする資料が多い)。その船では子どもは船内の子ども部屋で過ごす決まりで、親と一緒に食事ができなかったため、切符を替えたと伝えられている。

🌊 4月15日未明の沈没で、妻と娘2人は救命ボートに乗って助かった。ジョセフは亡くなり、遺体は見つかっていない。

📜 記録で確かめられるかぎり、アフリカ系の乗客は父と娘2人だけだった。

🗾 同じ二等には、タイタニックにただ1人乗っていた日本人、細野正文もいた。日本人の乗客は1人だけだった。

背景:ジョセフ・ラロッシュとは

ジョセフ・フィリップ・ルメルシェ・ラロッシュは1886年5月26日、カリブ海の国ハイチの北部にある町カパイシャンで生まれました。ハイチは1804年にフランスの植民地から独立した国です。BBCは、ジョセフが独立を率いたジャン=ジャック・デサリーヌの玄孫(孫の孫)にあたり、地位も財産もある家で育ったと紹介しています。

1901年、15歳のジョセフは工学を学ぶためにフランスへ渡りました。米国の研究団体「タイタニック歴史協会」の会報に載った記事によると、当時のハイチには工学を学べる学校がなく、ハイチの司教に付き添われての留学でした。パリの北にある町ボーヴェに住み、ボーヴェと北部の都市リールで学んで、技師の資格を取っています。

留学中、司教の知人を訪ねた先で出会ったのが、パリ近郊ヴィルジュイフのワイン商の娘、ジュリエット・ラファルグでした。2人は1908年3月に結婚します。1909年2月に長女シモーヌが、1910年7月に次女ルイーズが生まれました。ルイーズは早産で、幼いころは体が弱く、治療にお金がかかったといいます。

資格はあっても、仕事は思うようにいきませんでした。エンサイクロペディア・タイタニカは、人種差別のためにフランスでは給料の良い職に就けなかった、と書いています。歴史協会の記事も、当時は人種的な偏見から肌の色の濃い若者が雇われにくかったとしたうえで、職には就けたものの、若くて経験がないことを口実に安い給料しか払われなかった、と伝えています。娘の治療費もかさむなか、ジョセフはハイチへ戻って技師として働くことを決めました。

ハイチでは1911年、母の姉妹の夫、つまり義理のおじにあたるシンシナトゥス・ルコントが大統領になっていました。BBCは、このおじが数学教師の職を用意していたと伝えています。エンサイクロペディア・タイタニカは、仕事を約束していたのではないかと「推測されている」という書き方にとどめています。

出発は、当初もっと先の予定でした(1912年の後半とする資料と、1913年とする資料があります)。ところが1912年3月、ジュリエットが3人目を身ごもっていることが分かります。お腹が大きくなって旅がつらくなる前に、そして生まれたばかりの子を連れた長旅を避けるために、一家は出発を早めました。切符は、ハイチで一家を待つジョセフの母が、歓迎の贈り物として買ってくれたものです。

当時の大西洋航路の客船は、運賃によって一等・二等・三等に分かれていて、客室だけでなく食堂や甲板も等級ごとに別でした。一等は富裕層、二等は学者や聖職者、旅行者といった中流の人々、三等は新天地へ向かう移民が中心です。

もう少し詳しく

「フランス」号の決まり。母が用意したのは、フランスの海運会社(通称フレンチ・ライン)の新造船「フランス」号の切符でした。4本の煙突を持つ豪華客船で、1912年4月20日に、フランスの港ル・アーヴルからニューヨークへ向けて最初の航海に出る予定でした。等級については、一等だったとする資料が多くあります(BBCなど)。エンサイクロペディア・タイタニカと歴史協会の記事は、等級までは書いていません。

歴史協会の記事によると、当時この会社には、子どもは船内の子ども部屋で過ごさせるという決まりがあり、親と一緒であっても食堂には入れませんでした。ジョセフとジュリエットはこれに納得がいかず、ジョセフは、2人の娘と引き離されるのは受け入れられないと言い張って、切符を替えることにしたといいます。

替えた先が、英国の海運会社ホワイト・スター・ラインの新造船、タイタニック号の二等でした。こちらも最初の航海で、出港はフランス号より10日早い4月10日です。タイタニックの二等は、ほかの船の一等に並ぶ設備だったとブリタニカ百科事典が書いています。エンサイクロペディア・タイタニカによると、一家の切符は41ポンド11シリング7ペンスでした。

この記事は1995年に協会の会報に載ったもので、会員が次女ルイーズ本人と、一家の系譜を調べていたルイーズの弟の妻に取材して書いています。つまり食事の決まりの話は、家族に伝わっていた経緯ということになります。フランス号の側の資料で、決まりそのものを確かめることはできませんでした。

タイタニックでの最初の夜。4月10日、一家はパリから列車でシェルブールへ向かいました。タイタニックは大きすぎて港に入れないため、沖に停泊した船まで、連絡船「ノマディック」で運ばれています。

翌11日、ジュリエットが寄港地のクイーンズタウン(現在のアイルランドのコーヴ)から父親に出した手紙が残っています。そこには、船が動き出したのは食事の最中で、動いているとは信じられないほど揺れなかったこと、そして「娘たちは昨夜よく食べました」と書かれています。パリからの列車で知り合ったフランス人の一家と同じテーブルに着いたこと、ジョセフが娘たちを連れて屋根のある甲板を散歩していて、乳母車に乗ったルイーズをシモーヌが押していること、船の人たちがとても親切なことも。ジョセフが望んだとおり、一家はそろって食卓を囲んでいました。

4月14日の夜。タイタニックは14日の午後11時40分ごろ氷山に衝突し、15日の未明に沈みました。歴史協会の記事によると、客室係が船室に来て、救命胴衣を着けるように告げました。ジョセフは現金や宝石など、値打ちのある物をすべてポケットに入れます。ジュリエットは英語が分からず、事情がのみ込めないまま、英語を流暢に話す夫に連れられて救命ボートのところまで行ったといいます。BBCは、ジョセフが妻を起こし、2人で眠っている娘たちを抱いて甲板へ上がったと伝えていて、細かいところは資料によって違います。

ジュリエットと娘2人は救命ボートに乗り、ジョセフは船に残りました。その後のジョセフに何が起きたのかは分かっていません。BBCは、遺体は見つからなかったと書いています。

救命ボートは全部で20隻、定員は合わせて1,178人で、乗っていたおよそ2,200人の半分ほどしか乗せられませんでした。英国の事故調査委員会の報告書によると、二等の乗客285人のうち、助かったのは118人です。女性は93人のうち80人、子どもは24人全員が助かった一方で、成人男性は168人のうち14人(8.33%)にとどまりました。乗客のどの等級の男性と比べても、いちばん低い割合です。「女性と子どもを先に」という指示は、「女性と子どもだけ」と受け取った士官と、「近くに女性と子どもがいなければ男性も」と受け取った士官とで、運用が分かれたとされています。

ジュリエットたちがどのボートに乗ったのかも、はっきりしません。本人は番号を覚えておらず、爵位のある女性が一晩じゅうオールを漕いでいたこと、ボートの底に氷のように冷たい水がたまって足が凍えたことだけを覚えていたそうです。エンサイクロペディア・タイタニカは「おそらく10号ボート」としています。

残された家族。3人は客船カルパチア号に救助されました。幼い娘たちは袋に入れられて甲板へ引き上げられ、長女シモーヌはその怖さをあとあとまで覚えていたといいます。4月18日にニューヨークに着いても、迎えは誰もいませんでした。ジュリエットは凍えた足の手当てを受けたあと、ハイチ行きをやめてフランスへ帰ることを決めます。5月にル・アーヴルに着き、父親の家に戻りました。

その年の12月17日に男の子が生まれ、父と同じジョセフと名づけられました。ジュリエットは船会社に補償を求め、1918年に15万フランを受け取ると、自宅の一室で布を染める小さな仕事を始めています。ハイチで一家を待っていたおじのルコント大統領は、沈没から4か月後の1912年8月、大統領宮殿の爆発で亡くなりました。

長女シモーヌは1973年に64歳で、ジュリエットは1980年1月に90歳で亡くなりました。ジュリエットの墓には、「タイタニック号で海に消えたジョセフ・ラロッシュの妻」と刻まれた銘板があるそうです。次女ルイーズは1995年、あの日一家を運んだ連絡船ノマディックに83年ぶりに乗っています(英語版ウィキペディアによる)。ノマディックはいまも、北アイルランドのベルファストで保存・公開されています。ルイーズは1998年1月28日、87歳で亡くなりました。その時点で存命だったタイタニックの生存者は、あと6人でした。

同じ二等にいた、ただ1人の日本人。タイタニックには、日本人の乗客が1人だけ乗っていました。鉄道院の官僚だった細野正文(当時41歳)です。ロシア留学を終えて日本へ帰る途中で、英国のサウサンプトンから二等に乗りました。ラロッシュ一家と同じ等級です。

細野は、降ろされかけた救命ボートにまだ空きがあるという声を聞き、先に1人が飛び乗ったのを見て自分も飛び乗った、と書き残しています。二等の成人男性で助かった14人のうちの1人でした。エンサイクロペディア・タイタニカの救命ボート別の名簿では、細野もラロッシュの妻子も、10号ボートの欄に載っています。ただ、妻子のほうは先に書いたとおり「おそらく」という扱いなので、同じボートだったと言い切ることはできません。

帰国後の細野については、女性と子どもが優先のなかで生き残ったことを卑怯だと非難する声があった、と伝えられてきました(ナショナル ジオグラフィック日本版など)。一方で、当時の新聞や教科書を調べ直しても、語られてきたほどの批判は見当たらなかったとする検証もあり(ジャーナリスト安藤健二氏の調査。日本語版ウィキペディアが紹介しています)、実際にどの程度のものだったのかははっきりしません。細野は、船の便箋に書いた手記を自分では公表しないまま、1939年に亡くなりました。手記は1997年に改めて報じられ、注目を集めています。孫にあたるのが、音楽家の細野晴臣さんです。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
ジョセフ・ラロッシュはハイチ出身の技師で、人種差別のせいでフランスではなかなか仕事に恵まれなかったんだ。25歳のとき、身重のフランス人の妻ジュリエットと幼い娘2人を連れて、ハイチで新しい生活を始めようとしていた。一家はもともとフランス号の一等を予約していたんだけど、子どもが親と一緒に食事できない決まりだと知って、タイタニックの二等に替えた。妻と娘たちは助かった。ジョセフは助からなかった。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
その食事の決まり、どういう理屈だったのか誰か説明してほしい。子どもが親と一緒に食べられないって、かなり不思議に聞こえる。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
当時、乳母を雇えるような家では、子どもは乳母と一緒に子ども部屋で過ごすものだったんだよ。親のところへ連れて行かれるのは1日に1時間ほどで、済んだらまた子ども部屋へ戻される。食事も家族とは別で、いつも子ども部屋で食べていた。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
それはつらいなあ…。食べる場所が別なのはまだ分かるんだ。親と会えるのが1日に1時間で、一緒の食事は一度もなし、というのがきつい。

5. 海外の名無しさん(>>3への返信)
英国に『Further Back in Time for Dinner』というドキュメンタリー番組があってね。現代の中流家庭が、1900年代から1940年代までの食卓を順に体験するんだ。最初のほうの回では、幼い息子だけ食卓に着かせてもらえなくて、台所で使用人と一緒に食べていたよ。

※注:英BBCの番組です。邦題が確認できなかったので、原題のまま紹介しています。

6. 海外の名無しさん
食事の決まりについてもっと調べてみたんだけど、フランス号の側の資料では、はっきりしたものを見つけられなかった。たぶん当時の習慣をそのまま映した決まりなんだと思う。裕福な家の幼い子は、大人と同じ食卓には着かず、子ども部屋で乳母に世話をされながら食べるものとされていた。船会社はそれを船の上にも当てはめたんだろうね。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
一等の食堂は、正装して出かける超高級レストランみたいなものだったからね。いまでも子どもお断りの店や大人専用のホテルはあるし、高い料金を払った客に静かな夕食を、という発想そのものは分からなくもない。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
子どもをうるさく感じる人がいるのは本当だよ。2人の子の父親として、よく知っている。

9. 海外の名無しさん
それでもジョセフは、静かで豪華な食堂より、娘たちと同じテーブルを選んだんだよね。父親としてごく当たり前のことをしただけなのに、それが行き先を変えてしまった。そこがいちばんこたえる。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
フランス号の出港は4月20日で、タイタニックが沈んだ5日後なんだ。切符を替えていなければ、一家は港で沈没の知らせを聞く側だったことになる。

11. 海外の名無しさん
ただの想像だけど、娘たちが肌の色のことで嫌な目に遭わないよう、自分の目の届くところで食事をさせたかった、という面もあったのかもしれない。資料にそう書いてあるわけじゃないけどね。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
奥さんが寄港地から父親に出した手紙が残っていて、船の人たちはとても親切だと書いてあるそうだよ。娘たちは昨夜よく食べました、とも。少なくとも最初の晩は、ジョセフが望んだとおりの食卓だったんだと思う。

13. 海外の名無しさん
そもそも一家がハイチへ向かっていたのは、フランスで人種差別に遭って、力に見合う仕事に就けなかったからなんだよね。工学を修めた技師だったのに。

14. 海外の名無しさん
おじさんの名前がシンシナトゥス・ルコントって、響きが強すぎる。大統領になるべくしてなった名前だと思う。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
そのおじさんは、沈没から4か月後の1912年8月に、大統領宮殿の爆発で亡くなっているんだ。ハイチで一家の到着を待っていた親族にとっても、つらい年だったはず。

16. 海外の名無しさん
奥さんと娘さんたちがその後どうなったのか知りたい。そのままハイチで暮らしたのか、それともフランスへ戻ったのか。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
フランスへ戻ったそうだよ。お腹にいた子はその年の12月に生まれた男の子で、父親と同じジョセフと名づけられた。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
次女のルイーズさんは晩年、タイタニック歴史協会の催しに招かれているんだ。協会のツアーを企画していたのがマイケル・ラッドという人で、ルイーズさんと並んだ写真が残っている。この人、俳優ポール・ラッドのお父さんなんだよ。

※注:ポール・ラッドは、映画『アントマン』シリーズなどで知られる米国の俳優です。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
いちばんの豆知識は、いつもコメント欄に転がっているんだよなあ。

20. 海外の名無しさん
ひとつ引っかかったんだけど、「記録に残る唯一の黒人の乗客」なのに、娘さんが2人一緒に乗っていたんだよね? 当時の人に聞いても、いまの多くの人に聞いても、娘さんたちも黒人だと答えるんじゃないかな。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
ウィキペディアには「黒人の乗客は3人」とあって、残りの2人が娘さんたちだよ。「唯一の」というのは父親本人を指した言い方で、1人で乗っていたという意味じゃない。娘さんたちが当時どう分類されていたのかまでは、自分には分からない。

22. 海外の名無しさん
二等の成人男性で助かったのは、168人のうち14人だけなんだよね。乗客の男性のなかでいちばん低い割合。妻と子をボートに乗せて自分は残る、というのは、あの夜の二等の男性のほとんどがたどった道だったんだ。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
その14人のうちの1人が、あの船でただ1人の日本人乗客だったそうだよ。降ろされる途中のボートにまだ空きがあると聞いて飛び乗った、と本人が書き残している。

24. 海外の名無しさん
映画『タイタニック』は何度も観たのに、この一家のことは今日まで知らなかった。あの船の二等に、娘たちと夕食をとるために切符を替えた父親がいたなんて。

25. 海外の名無しさん
英語が分かるのは、一家でジョセフだけだったそうだね。英語の指示が分からない妻をボートのところまで連れて行って、自分は残った。最後まで父親だった人だと思う。

まとめ

1912年、ハイチ出身の技師ジョセフ・ラロッシュは、子どもが親と一緒に食事のできない客船を嫌って、タイタニックの二等に切符を替えました。妻と娘2人は助かり、25歳の本人は帰りませんでした。コメント欄では、食事の決まりの背景にあった当時の子育ての習慣を教え合うやり取りや、「唯一の黒人の乗客」という言い方への疑問、残された家族のその後を尋ねる声が並び、娘たちと同じ食卓を選んだ父親を思う書き込みもありました。妻が船から出した手紙には、娘たちは昨夜よく食べました、とあります。

元ソース: タイタニック号で記録に残る唯一の黒人の乗客ジョセフ・ラロッシュは、別の客船の一等を予約していたが、その船では子どもが親と一緒に食事をできなかったため、タイタニックの二等に替えた。妻と娘たちは沈没から生還したが、彼は助からなかった

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