アメリカの街から歩道が消え、どこへ行くにも車が要るようになった——その形をいちばん強く決めた人物として名前が挙がるのが、ニューヨークのロバート・モーゼスである。彼が引いた高速道路と橋は、六十年経った今も毎日使われている。ただ、本人は生涯、運転免許を取らなかった。
※注:モーゼスは建築家でも技師でもない。公園や橋を管理する公的機関の長を渡り歩いた行政官である。設計図を引いたのは彼が雇った技術者たちで、彼が握っていたのは「どこに何を通すか」を決める権限のほうだった。
今日の知ってた?
🚗 ロバート・モーゼス(1888〜1981)は、40年以上にわたってニューヨーク市と州の公園・橋・自動車道を作り続け、「マスタービルダー(都市を築いた男)」と呼ばれた。評伝『The Power Broker』が挙げる数字では、手がけた自動車道は約670キロ(416マイル)、大きな橋は13本、遊び場は658か所。一度も選挙で公職に就かないまま、最大で12のポストを同時に兼ねていた。そして本人は生涯、運転免許を取らなかった。移動はすべて、運転手つきの車の後部座席だった。
背景:選挙に出ないまま、40年ニューヨークを作り変えた男
ロバート・モーゼスが公職に関わり始めたのは1920年代。州の公園委員会の長として、当時まだ農地と別荘地だったロングアイランドに公園と自動車道を通す事業から始まった。そこから市の公園局長、橋とトンネルの公社総裁、都市再開発の調整役と役職を増やしていき、1930年代の終わりには、ニューヨークで大きな土木事業を動かそうとするなら彼を通さないと話が始まらない状態になっていた。
面白いのは、その権力の出どころが選挙ではなかったことだ。1934年に州知事選に出て大敗して以来、彼は有権者の審判を受けていない。代わりに使ったのが「公社」という仕組みである。橋やトンネルの通行料を自分の財布として持ち、そこから次の事業の資金を出す。市長も知事も任期が来れば入れ替わるが、通行料収入を握った公社の総裁は入れ替わらない。市長が代わっても彼だけが残り続けた、というのがモーゼスの40年だった。
※注:ここでいう「公社」は、州や市が設立するが議会の予算を通さずに独自の収入で動く公的法人のこと。日本の旧・道路公団に近い立て付けと考えると分かりやすい。
彼が大量に作った道路は「パークウェイ」と呼ばれる形式が中心だった。並木と芝生に囲まれた景観重視の自動車専用道で、当時のアメリカでは「休日に家族でドライブして公園やビーチに行くための道」という位置づけだった。この点があとで大きな争点になる。
もう少し詳しく
執務室は、車の後部座席だった。モーゼスは移動時間を惜しんで、専用車の後部を仕事場に改造させていた。書類を広げ、口述筆記の担当者を同乗させ、走っている間じゅう決裁を続ける。つまり彼は毎日、自分が作らせた道路の上を通っていた。ただし運転席ではなく後部座席から、しかもハンドルを握る人間としてではなく、書類を読みながらである。渋滞にはまっても、彼にとっては書類が一枚多く読める時間でしかなかった。
公共交通は、構想から外れていった。モーゼスの事業で一貫していたのは、鉄道とバスに使える余地をあらかじめ残さなかったことだ。1964年に開通したヴェラザノ・ナローズ橋には、計画段階で鉄道や歩行者用の通路を通す案も出ていたが、いずれも実現していない。作った時点で車しか通れない構造にしてしまえば、後から鉄道を足すには橋を作り直すしかない。この「あとから直せなくする」やり方が、ニューヨークの交通を長く縛ることになった。
※注:ヴェラザノ・ナローズ橋はブルックリンとスタテンアイランドを結ぶ吊り橋。開通当時は世界最長の支間長で、今も自動車専用のままである。
「バスが通れない陸橋」の話。モーゼスをめぐって最も有名なのが、ロングアイランドのパークウェイに架かる陸橋がわざとバスの通れない低さで作られた、という指摘である。1974年に出たロバート・キャロの評伝『The Power Broker』は、車を持たない層——多くは黒人や移民の労働者——をジョーンズビーチのような公共のビーチから遠ざけるための設計だった、と述べた。この本はピューリッツァー賞を受け、以後この話は「設計そのものが差別になりうる例」として教科書的に引かれるようになった。
ただし、この点には研究者からの異論もある。パークウェイはそもそも法令上も設計上もバスや貨物車を通さない規格の道路で、陸橋が低いのは形式上の帰結にすぎない、という反論である。意図があったかどうかは本人が語っていない以上、確定はしない。一方で、意図の有無とは別に「バスで行けない場所に公共のビーチを作った」という結果のほうは動かない、というのが今の主な受け止め方になっている。
公園とビーチを大量に作った人でもある。批判ばかり並ぶが、ニューヨークの公園の多くは彼の時代に整備されたものだ。ジョーンズビーチのような大規模な海浜公園、市内に散らばる数百の遊び場、プール、動物園。「金持ちのための都市」を作ったと言われる一方で、庶民が休日に行ける場所を大量に用意したのも同じ人物である。コメント欄でも「complicated(一言では言えない)」という評価が繰り返し出てくる。
ドジャースがロサンゼルスへ移った理由にも、彼の名前が出てくる。1950年代、ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)の球団側はブルックリン内の一等地に新球場を建てたいと考えていたが、モーゼスはその用地取得に協力せず、代わりにクイーンズのフラッシング・メドウズを勧めた。ブルックリンにこだわった球団オーナーは西海岸行きを選び、1957年シーズンを最後に球団はニューヨークを去った。彼が勧めた土地には、のちに別の球団の本拠地が建っている。
終わりは、住民運動と、上からの一手だった。1950年代後半から、モーゼスの計画に反対する住民運動が各地で立ち上がる。中心にいたのが、のちに『アメリカ大都市の死と生』を書くジェイン・ジェイコブズである。ワシントン・スクエア公園を貫く道路の計画は撤回され、マンハッタン南部を横断する高速道路の構想も1960年代を通じた反対運動の末に消えた。決定打は1968年、州知事が彼の資金源だった橋・トンネル公社を新設の交通公社に統合したことだった。通行料という財布を取り上げられて、モーゼスの40年は終わった。
日本にも、似た構図はある。1960年代の日本でも、川や堀を埋めて、あるいはその真上に高速道路が架けられた。東京の日本橋の上を首都高速が横切っているのはその代表例で、現在は地下に移す工事が進んでいる。当時としては土地買収がいらない合理的な手だったが、半世紀後に「戻す」ために莫大な費用を払っているという点で、モーゼスが残した宿題とよく似ている。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
「運転できなかった」ではなく「自分で運転する必要が一度もなかった」が正確なところだと思う。あの立場の人間には運転手がついていた。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
それはそう。バス路線を設計する人がバスを運転したことがないのと同じで、車が何かを知らなかったわけじゃない。そこまで矛盾とは言えないと思う。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
でも運転するのと運転されるのは、体験としてまったく別物だよ。後部座席で静かに新聞を読んでいられる人間は、自分が作った渋滞の当事者には一度もならない。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
しかもその送迎は公費だった。評伝の言い方だと「金で買えるものは全部税金で手に入ったから、彼は金銭で腐敗する必要がなかった」。この一文が一番怖い。
5. 海外の名無しさん
究極の皮肉は、あれだけの数の高速道路を作っておいて、その全部をリムジンの後部座席からしか体験しなかったことだよな。合流も、車線変更も、駐車場探しも、一度もやっていない。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
通勤路まで違ったらしい。公園局の執務室は市街地じゃなく郊外の景色のいい場所にあった。街を切り裂く道路を引いている当の本人は、緑の中を走って出勤していたことになる。
7. 海外の名無しさん
「地域住民の声を時間をかけて丁寧に聞き取り、そのうえで正反対のことをやる人だった」という言い方をどこかで見て、うまいこと言うなと感心した。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
前半で真面目に頷きかけたじゃないか。返してくれ、その二秒。
9. 海外の名無しさん
一番有名なのは、ロングアイランドのパークウェイに架かる陸橋がバスの通れない高さで作られている、という話だと思う。狙って低くしたと長く言われてきた。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
これは有名なぶん異論もあるんだよね。パークウェイはそもそも法令でバスも貨物車も通せない規格の道路だから、陸橋が低いのは形式上の帰結にすぎない、という反論がある。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
意図の証明は難しいと思う。ただ、意図がどうであれ「公共のビーチに公共交通では行けない」という結果は残ったわけで、そこは分けて考えたほうがいい。
12. 海外の名無しさん
運輸長官だった人が「あの高速道路は差別的だ」と言ったとき、さすがに言いすぎだろうと思ったんだ。でも調べたら、比喩じゃなくて陸橋の高さの話だった。設計は差別的でありうる、という意味がやっと分かった。
※注:アメリカの運輸長官だったピート・ブティジェッジ氏が2021年に述べたもの。念頭にあったのがロングアイランドの陸橋だと言われている。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
その話に驚けるうちは幸せだよ。アトランタの高速道路網がどこを通っているか地図で見てみるといい。同じ景色が出てくるから。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
アトランタに限る必要ある?「アメリカの大都市の高速道路網」でいいだろ、それ。
15. 海外の名無しさん
アメリカ社会で「なんでこうなってるんだ」と思うことは、たいてい石油と自動車の業界か、人種の問題にたどり着く。モーゼスは「両方でいいのでは?」と答えた数少ない人物だと思っている。
16. 海外の名無しさん
ヴェラザノ橋には鉄道と歩道を通す案もあったんだよな。今あの橋を歩いて渡れたら景色は最高だろうに、結局は車だけが通る橋になった。
17. 海外の名無しさん
その結果、1.5キロ先のスーパーに歩いて行けない街ができあがった。距離の問題じゃなくて、途中に人間が歩ける道が存在しないという問題なんだよな。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
日本に住んでいたとき、東京の日本橋という古い橋の真上を高速道路が横切っていて驚いた。1960年代に川の上に架けたらしい。今は地下に移す工事をしていると聞いて、どこの国も同じ宿題を抱えているんだなと思った。
19. 海外の名無しさん
土木技師をしているが、この時代に決まった線形の後始末を今も毎日やっている。地獄への道は善意で舗装されている、と言いたいところだけど、半分くらいは善意ですらなかったのが厄介なところ。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
擁護するわけじゃないけど、当時は自動車そのものが未来の象徴だった。1930年代のアメリカで「これからは鉄道とバスに投資すべきだ」と言える人はほとんどいなかったと思う。彼が特別だったのは思想じゃなくて、それを一人で実行できる権力を持っていたことのほうだ。
21. 海外の名無しさん
公園を大量に作った人でもある、という点は忘れないでほしい。ジョーンズビーチも、市内の遊び場も、プールも彼の時代のものだ。一言で片づけられない人物だと思う。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
そこはセットで覚えるべきところで、そのビーチに向かう道の陸橋がバスを通さない高さだった、という話が続くんだよ。作ったのは事実、届かない人がいたのも事実。
23. 海外の名無しさん
評伝の見積もりでは、彼の事業で立ち退きになった人は延べ50万人規模とされている。当時の中規模都市がまるごと一つ消える計算で、この数字だけは何度見ても現実味がない。
24. 海外の名無しさん
意外なのは、本人はほとんど資産を持っていなかったという話。車も運転手も公職の役得で、引退のときには収入が途切れないよう名誉職を用意してもらったくらいだ。彼が集めていたのは金じゃなくて権限だった。
25. 海外の名無しさん
もっと知りたい人にはロバート・キャロの『The Power Broker』を勧める。とんでもない厚さだけど、モーゼス個人の話を超えて、あの時代のニューヨークがどう動いていたかの記録として読める。
まとめ
アメリカの都市を車中心に作り変えた最大の当事者が、生涯ハンドルを握らなかった。コメント欄はこの皮肉を面白がる声から始まり、「運転手つきなら矛盾ではない」「いや、運転されるのと運転するのは別物だ」という応酬を経て、低い陸橋やヴェラザノ橋の設計といった具体的な話に移っていった。当時としては自動車が未来そのものだった、という擁護も出る一方で、公園を大量に作った功績とバスで行けない設計とを「セットで覚えるべきだ」という整理が落としどころになっている。彼が残した道路は、今日も同じ場所を走っている。

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