「2人が知ったのは発売のあとだった」プロデューサーが2人に知らせずエレキを足した「サウンド・オブ・サイレンス」が全米1位になるまで

「2人が知ったのは発売のあとだった」プロデューサーが2人に知らせずエレキを足した「サウンド・オブ・サイレンス」が全米1位になるまで 音楽・エンタメ

アコースティックギター2本で静かに歌ったその曲は、最初に世に出たとき、ほとんど誰にも聴かれなかった。2人は活動をやめ、ひとりはイギリスへ渡った。ところが1年あまり後、プロデューサーが本人たちに知らせないまま、エレキギターとドラムを重ねてシングルとして出し直す。その版が全米1位になった。サイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」が世に出るまでの、少し変わった経緯である。

今日の知ってた?

🎸 「サウンド・オブ・サイレンス」の大ヒット版は、2人の知らないうちに作られていた。1964年3月に録音したアコースティック版に、プロデューサーのトム・ウィルソンが1965年6月、エレキギター・ベース・ドラムを重ねて録音した。この版がシングルとして出て、1966年1月1日付の米ビルボード誌のチャートで1位に。2人がこの版のことを知ったのは、発売のあとだった。

背景:売れなかったデビューアルバム

ポール・サイモンとアート・ガーファンクルは、ニューヨークで育った古くからの友人どうしである。「サウンド・オブ・サイレンス」はサイモンが21歳のときに書いた曲で、ガーファンクルによれば、1963年11月に形になりはじめ、歌詞は3か月ほどかけて1964年2月19日に仕上がった。サイモン自身は、タイル張りで声がよく響く自宅の浴室にこもり、明かりを消し、水道の水を流しながら作ったと語っている。2人がこの曲を米コロムビア・レコードのプロデューサー、トム・ウィルソンの前で歌ってみせたことが、契約につながった。

録音は1964年3月10日、ニューヨークにあったコロムビアのスタジオで行われた。アコースティックギター2本とウッドベースだけの、簡素な伴奏である。この曲を収めたデビューアルバム『水曜の朝、午前3時』は同じ年の10月に出たが、売れたのは数千枚ほどだった(米ウルティメット・クラシック・ロックは約2,000枚、英語版ウィキペディアは発売時で約3,000枚としている)。ちょうどビートルズがアメリカを席巻していた時期で、フォークの二重唱はその波にのまれた。

がっかりした2人は活動をやめる。サイモンはイギリスに渡ってクラブで歌い、ガーファンクルはニューヨークの大学に戻った。サイモンはロンドンでソロのアルバム『ポール・サイモン・ソングブック』を録音し、そこでもこの曲をギター1本で歌い直している。つまり元スレのタイトルにある「失敗したバンド」は、正確には、デビュー作が売れずに活動をやめていた2人組のことである。

もう少し詳しく

火をつけたのはボストンの深夜放送。1965年の春、ボストンのラジオ局WBZの深夜番組のDJがアルバムからこの曲をかけはじめ、反響はフロリダなどにも広がった。英語版ウィキペディアや米ウルティメット・クラシック・ロックによると、アメリカ東海岸でこの曲がラジオでかかっていると知ったウィルソンは、手元にあった1964年の録音に電気楽器の伴奏を足すことにした。ちょうどボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、エレキの伴奏でフォークをロックに寄せた時期である。

ディランの録音のあとで、数時間の重ね録り。作業は1965年6月15日、ウィルソンが手がけていたディランの録音の流れで行われ、その現場にいたスタジオ奏者も加わった。サイモン&ガーファンクルの公式サイトは、ベースのジョー・マック、ドラムのバディ・ザルツマン、ギターのヴィニー・ベルとアル・ゴルゴーニの名前を挙げている(英語版ウィキペディアは顔ぶれを一部違えて伝えている)。ゴルゴーニによれば、作業は2時間ほどで終わり、彼はサイモンのアコースティックギターの弾き方をなぞるようにエレキで弾いた。歌と元のギターはそのまま残し、そこに音を足しただけで、2人はスタジオに呼ばれていない。

2人が知ったのは発売のあとだった。エレキ版は1965年の秋にシングルとして発売された。英語版ウィキペディアによると、2人はこの版のことを発売まで知らされていなかった。サイモンはその秋デンマークにいて、業界誌ビルボードのヒットチャートに自分たちの曲が載っているのを見て知り、別の業界誌キャッシュボックスでも確かめた。友人の歌手アル・スチュワートは、初めてこの版を聴いたサイモンは「ぞっとしていた」と振り返っている。一方のガーファンクルは「面白いね。何か起きるかもしれない。売れるかもしれない」と受け止めたという。ただ後年には、この音作りは歌詞の力をかき消してしまったとも語っている。演奏したゴルゴーニ本人も、のちに自分のギターをひどいと評し、もう聴けないと話した。

1位、そして急ごしらえの2枚目。シングルはビルボード誌の1966年1月1日付のチャートで1位になり、その後ビートルズの「恋を抱きしめよう」と首位を入れ替わりながら、1月22日付でもう一度1位に返り咲いた。サイモンはアメリカに戻り、2人は再び組んで、急いで次のアルバムを作った。それが1966年1月17日に出た『サウンド・オブ・サイレンス』で、エレキ版のこの曲と、次のヒット「アイ・アム・ア・ロック」が入っている。売れなかったデビュー作からわずか1年3か月での逆転だった。

トム・ウィルソンという人。重ね録りを決めたウィルソンは、1931年テキサス州生まれのアフリカ系アメリカ人で、ハーバード大学を1954年に優等で卒業している。若いころは500ドルの借金で小さなジャズのレーベルを作り、サン・ラやセシル・テイラーの最初期のレコードを出した。コロムビアではディランのアルバム3枚と「ライク・ア・ローリング・ストーン」を手がけ、その後は別の会社に移って、フランク・ザッパ率いるマザーズ・オブ・インヴェンションのデビュー作や、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの2枚目を制作した。フォークからロックへ、さらにその先へと音楽が変わっていく現場に何度も立ち会った人物で、1978年に47歳で亡くなっている。

日本では映画『卒業』とともに。この曲は、マイク・ニコルズ監督の映画『卒業』(1967年)で冒頭と終わりの両方に使われ、サウンドトラックにも入った。日本でもオリコンのシングルチャートで1位になり、チャートに59週とどまった。日本では、この曲を映画の場面と結びつけて覚えている人も多いだろう。録音そのものも2013年に米議会図書館の国家録音登録簿に選ばれ、国の音の遺産として保存されることになった。2015年にはヘヴィメタルのバンド、ディスターブドが重厚なカバーを出し、こちらも全米チャートに入った。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
元のバージョンはただの「サイレンス」だったんだよ。そこでプロデューサーが「サウンド」のほうに力を入れるっていう天才的な発想をしたわけだ。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
冗談のつもりだろうけど、ジョン・ケージの『4分33秒』は本当に何も演奏しない曲で、しかも彼のいちばん有名で重要な作品とされてるからな。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
あれは無音の曲じゃなくて、演奏しない4分33秒のあいだに会場で起きる音全部が作品なんだよ。咳払いも、椅子のきしむ音も含めて。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
分かってるって。でもそう考えると「サウンド・オブ・サイレンス(静寂の音)」って、『4分33秒』の別題にぴったりじゃない?

5. 海外の名無しさん
元はアコースティックだけで、そこにエレキとドラムのバンドを足したんだよね。よく聴くと、元の録音の少し揺れるテンポに合わせようとして、ドラムがずれてるところがいくつかある。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
しかもその奏者たち、ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」の録音を終えたばかりだったらしい。2人がもう別々の道に進んだあとだったから、結果的にはこの判断が大正解だった。

7. 海外の名無しさん
しかもそのへんのプロデューサーじゃないんだよ。トム・ウィルソンはディランの60年代の名盤、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、マザーズ・オブ・インヴェンションのデビュー作まで手がけた人。47歳で亡くなったのが本当に惜しい。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
「ライク・ア・ローリング・ストーン」の録音にアル・クーパーがいたのも、この人の縁だったって話だね。クーパーは本当はギターを弾きたかったのに、マイク・ブルームフィールドのうまさに気後れして、オルガンに座ったらしい。あの有名なオルガンはそうやって生まれたとか。

9. 海外の名無しさん
個人的には、飾りのない元のアコースティック版のほうがずっと好き。でも正直、電気版が出なかったら、自分はこの曲を一生知らなかったと思う。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
分かる。元の版には、ほかでは出せない空気がある。あの歌詞そのものが、飾らずに歌ってくれって言ってるような気がするんだよ。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
サイモンはこの曲を作るとき、ギターを持って浴室にこもって、明かりを消して、反響の中で歌ってたんだって。そりゃ静かで親密な音が似合うわけだ。

12. 海外の名無しさん
自分はエレキにして正解だったと思うな。元の版も悪くないけど、ギターとドラムで勢いが出た。そうじゃなかったら、考え事をしたい夜にしかかけない、ラジオでは流れない曲で終わってたはず。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
アコースティック版は二人のハーモニーが主役で、本当にきれいな録音なんだよ。電気版は当時にしても音質があまりよくない。でもあれがあったからポール・サイモンを知れたわけで、感謝はしてる。聴くのは10回中9回アコースティック版だけど。

14. 海外の名無しさん
ポール・サイモンは音楽の天才だから、サイモン&ガーファンクルがうまくいかなくても、ソロで絶対に成功してたと思う。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
どうだろう。重ね録りの時点で、彼はもうイギリスでソロのアルバムを1枚出してたけど、ほとんど売れてなかった。レコード会社もそう何度もチャンスはくれなかったはず。いずれ曲作りで世に出たかもしれないけど、今ぼくらが知っているポール・サイモンとは、かなり違う音楽をやってたかもね。

16. 海外の名無しさん
この曲が流行ったときには、2人ってもう解散してたんじゃなかった?売れたから宣伝のためにまた組むことになって、ポール・サイモンはかなり不満だったって聞いたことがある。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
サイモンはヨーロッパにいて、業界誌のチャートを見て初めて知ったらしい。自分の曲が勝手にエレキになって全米で売れてたら、そりゃ複雑な気分だよな。

18. 海外の名無しさん
ポール・サイモンは、ウディ・アレンの『アニー・ホール』にも出てる。しかも小柄すぎて、ウディ・アレンが大男に見えるっていう。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
会ったことあるよ。こっちは背が高いほうなんだけど、本当に驚くくらい小柄な人だった。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
ずっとアート・ガーファンクルが190センチくらいある大男なんだと思ってた。実はポール・サイモンが小さいだけだったのか。「コール・ミー・アル」のビデオでチェビー・チェイスと並ぶと、よく分かるよ。

21. 海外の名無しさん
この2人、最初にレコードを出したときは「トム&ジェリー」って名前だったんだよね。高校生のころの話。

22. 海外の名無しさん
このタイトル、読んでるうちに頭の中でケイシー・ケイサムの声になった。曲をかける前に彼が話す小ネタそのもの。「時は1964年」って前置きが足りないくらいだ。

※注:ケイシー・ケイサムは、全米のヒットチャートを紹介する長寿ラジオ番組「アメリカン・トップ40」の司会者。曲の前に短い裏話を添える語り口で知られた。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
最近、豆知識スレのタイトルを釣り記事みたいに書くのが流行ってるのは変だと思う。でもケイシーの声で読むと、ちょっとだけ許せる。

24. 海外の名無しさん
「失敗したバンド」って言うけどさ、どのバンドだって見つけてもらうまでは「失敗したバンド」だよ。

25. 海外の名無しさん
子どものころマペットの番組でサイモンを見て、何年も「サイモン・アンド・ガーファンクル」を一人の名前だと思ってた。大人になって父に「サイモンと一緒にいる人は誰?」と聞いたら、父がなんとも言えない顔をしてたよ。

まとめ

デビュー作が売れずに活動をやめていた2人の曲を、プロデューサーのトム・ウィルソンが本人たちに知らせないままエレキで作り直し、それが全米1位になった。コメント欄では「元のアコースティック版のほうが好き」という声と「電気版がなければ知らなかった」という声が並び、多くの人がその両方にうなずいていた。名曲の運命は、作った本人の手を離れたところで決まることもあるらしい。

参考資料

元ソース: 今日知った話:売れなかったバンドが、プロデューサーにこっそり作り直された曲で一躍スターに。それがサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」

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