嵐で荒れた海に、船乗りが油を流して波を鎮めていた。おまじないのように聞こえるが、この油は救命艇の正式な装備で、イギリスの博物館の記録では1998年まで積む義務があった。日本語の「油凪」や、寺田寅彦の墨流しの実験ともつながる、水面の薄い膜の話である。
今日の知ってた?
🌊 船乗りは嵐の海に油を流して、砕ける波を鎮めていた。救命艇に積む「ストームオイル」の義務は、アメリカでは1983年まで、英グリニッジ王立博物館群の解説によれば1998年まで続いた
背景:ストームオイルとは
ストームオイルは、荒天のときに海面へ少しずつ流すための油である。使われたのは主に植物油や魚油で、燃料の重油を流すわけではない。米海洋大気庁(NOAA)の対応部門の解説によると、アメリカの沿岸警備隊の手引きは、救命艇の海錨(シーアンカー)ごとに、植物油・魚油・動物油を1ガロン(約3.8リットル)、金属の容器に入れて備えるよう定めていた。海錨とは、水中で開いて抵抗を生む布の袋で、小舟の舳先を波に向けておくための道具である。
この規定は古くからのものだ。イギリスの1894年の商船法は、救命艇に「荒天時に使う油」を備えるよう求めていて、タイタニック号の救命艇もこの法律のもとにあった。NOAAの解説によれば、アメリカの義務は、覆いの付いた密閉型の救命艇に切り替わる中で1983年に外された。いまはアメリカの規則にも国際的な規則にも、この項目はない。
イギリス側で義務が続いた時期については、ロンドンのグリニッジ王立博物館群の収蔵品解説が手がかりになる。救命艇用の帆布の「油袋」の項に、救命艇は1998年まで搭載を求められていた、と書かれている。袋の中には麻くずや綿くずを詰めて魚油を含ませ、海錨と組み合わせて使うのが基本で、ボートの上げ下ろしや水先案内人を乗せるときにも役立ったという。
つまり「20世紀後半まで義務だった」という話は本当だが、中身は少し違う。大型船が嵐のたびに油を流していたというより、沈没のあとに海へ出る小さな救命艇のための装備として、規則に残り続けたのである。
もう少し詳しく
古代から知られ、フランクリンが確かめた。油が水面をなめらかにすることは、アリストテレスやプリニウスの時代から書き残されている。地中海の潜水夫が油を使って水面を静め、水中へ光を通したという記述である。これを実験で調べたのがベンジャミン・フランクリンだった。NOAAの解説によれば、彼は航海中に、ほかの船の調理場から出た脂っぽい排水のあたりだけ海面が静まっているのに気づき、のちにイギリスの池で試した。報告には、小さじ1杯にも満たない油で数ヤード四方が一瞬で静まったとある。別の記録では、小さじ1杯の油が約半エーカー(約2,000平方メートル)に広がったという。英王立化学会の教材がこの数字から計算すると、膜の厚さは約1ナノメートル、分子1層ほどになる。一方で、ポーツマス沖の大がかりな試験では白波は減ったものの、うねりは消えなかった。
19世紀には本気で検証された。英国の救命艇協会の機関誌(1884年)は、直近3年間の試験をまとめている。油の種類による差はあまりなく、外洋では目覚ましい例が報告された。沈みかけた船の船長がランプ油を2缶まいて、ボートを無事に下ろせた話や、油を入れた袋をつるした船の風上の舷が48時間濡れなかった話である。1ガロンで6〜8時間もったという。ところが同じ記事は、岸へ向かう救助用の救命艇には実用上の利点がないと結論している。大きな砕け波には効かず、遭難船へ向かって走ると、油を流した範囲から出てしまうからだ。ふつうの船の搭載ボートには積むよう勧めていて、「どこでも効く」ではなく「止まって耐える小舟に効く」という見立てだった。米海軍水路部のウィコフ大尉が集めた115件の報告も、4件を除いて効果があったとしていた。
なぜ効くのか。女性研究者アグネス・ポッケルスは、ドイツの自宅で皿洗いをきっかけに水面の膜を調べ、1891年にレイリー卿の仲介で論文を発表した。彼女の測定器は、のちにラングミュアの研究へつながっていく。いまの説明では、波で水面が伸び縮みすると油の膜の濃さにむらができ、それをならそうとする力(マランゴニ効果)が波の力を奪う。特に効くのは、風が最初に作る細かいさざ波である。さざ波が立たないと水面はなめらかなままで、風が波を押し上げる手がかりも減る。だから砕ける波には効いても、遠くから来た大きなうねりは消せない。
日本の研究と言葉。この現象は日本の研究とも関係が深い。九州大学応用力学研究所の光易恒らは、風で波を起こす水槽にラウリル硫酸ナトリウムという界面活性剤を溶かし、濃度を上げるほど風波が弱まることを確かめて、1981年の国際会議で発表した(論文は1986年)。2019年に中国・青島の水槽で魚油の膜を試した論文は、光易らの結果を比較の相手に挙げている。この実験では、油の上では風だけでは波が育たず、水面が風から受ける力はきれいな水の約20分の1まで落ちた。
寺田寅彦が海の油の研究をしたという記録は、今回あたった範囲では見つからなかった。ただ、同じ「水面に浮かぶ薄い膜」には手を伸ばしている。随筆『柿の種』の1932年12月の文章で、「墨流し」の現象を「分子物理学的の方面から」調べている、と書いた。理研の講演録でも、墨汁を流して粒子の性質を調べた研究が紹介されている。さらに彼は、1918年の文章で、夏の浜辺の凪を「海面が油を流したようにギラギラして」と描いた。海の静けさを油で言う感覚は日本語にもあり、辞書には波の立たない海面を指す「油凪」が載っている。理屈を知らなくても、船乗りが見ていた海の表情は同じだったのかもしれない。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
それで、実際どれくらい効いたのかがすごく気になる。気休めだったのか、命を救うレベルだったのか。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
ウィキペディアのストームオイルの記事を読んできた。仕組みはまだよく分からないけど、どうやら本当に効くらしい。
3. 海外の名無しさん
フランクリンは波を鎮める実験で、少しの油がどこまで広がるかを見ていた。あとから見ると、あれは分子の大きさに手が届く数字だったんだよな。本人はそこまで気づかなかったみたいだけど。
※注:厚さ約1ナノメートルという値は、フランクリンの記録を使った後世の計算です。本人が分子の大きさを計算したことは確認できませんでした。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
それは初耳。ただの宴会芸だと思ってた。分子がどれだけ薄いかって話につながるとはね。
5. 海外の名無しさん
フランクリンって、杖に油を仕込んでいたんじゃなかったっけ。友人と舟に乗って「波が高いな」とぼやいてから、杖で水面に触れて「静まれ」と言うと、本当に静まるやつ。
※注:広く語られる逸話ですが、今回あたった資料では確認できませんでした。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
待って、俺はガロン単位で流す話だと思ってた。杖に入るくらいの量で足りるの?
7. 海外の名無しさん
BPの弁護士がこの話を読んだら「裁判長、弊社はメキシコ湾全体を落ち着かせようとしただけです」って言い出すぞ。
※注:BPは2010年にメキシコ湾で大規模な原油流出事故を起こした石油会社です。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
多くの海の生き物が死んだのは確かですが、彼らはとてもなめらかに揺れていました。弊社は平和を愛する企業です。
9. 海外の名無しさん
ウィキペディアのフランクリン持ち上げっぷりが笑える。「最初に発見したのはフランクリン。船で船長に説明されて」って、それは教わったと言うんだよ。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
「いただき」ってフランクリンは言ったんだろうな、たぶん。船乗りが何百年も知ってたことに論文の名前を付けるのは学者の特技。
11. 海外の名無しさん
スウェーデンには「波に油を注ぐ」って言い回しがある。場を落ち着かせるって意味だ。語源がこれだとは考えたこともなかった。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
英語にも「荒れた水に油を注ぐ」がある。少し古い言い方だけど。このスレを見るとアメリカでは使わないのかな。
13. 海外の名無しさん
このスレで好きなのは、本物の船乗りに向かって「直感的におかしい」だけを根拠に言い返してる人がいるところ。調べもせずに。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
今のこの掲示板らしいな。昔なら「水面油まき歴20年のプロです、説明しましょう」って人が必ず現れたのに。
15. 海外の名無しさん
昔は適当なことを言っても誰にも確かめられなかったんだろうな、とは思う。「ばあちゃんが鯨の脂を足に塗って壊血病を治した」でも通りそうだ。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
記事を読んでないだろ。油の膜が伸び縮みして濃さにむらができ、それが波のエネルギーを奪うって説明がちゃんとある。フランクリンやレイリー卿、ポッケルスが調べた話だ。
17. 海外の名無しさん
救命艇の備品には昔から入ってたはずだよ。今も積んでるかは知らないけど、備品の点検表で見た記憶がある。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
今の救命艇には無いね。でも90年代の艇にはガロン缶が積んであったのを覚えてる。中身は植物油だった。
19. 海外の名無しさん
『白鯨』にも出てくるよ。序盤の教会の説教で、神が起こした嵐の海に油を注ごうとする者は災いだ、みたいなことを言う。説明なしで通じてたんだな。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
かっこいい一節だな。当時の読者にとっては、海の上の常識を使った比喩だったわけか。
21. 海外の名無しさん
でも船は動いてるんだから、油をまいた場所なんてすぐ後ろに置いていくだろ。局所的な効果だとしたら意味あるのか不思議だ。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
油の膜は思ったより速く、広く広がるんだよ。厚さは分子1個分くらい。止まって耐える救命艇なら、海錨から少しずつ流せば周りに残るし。
23. 海外の名無しさん
俺の乗ってた船の救命艇の備品表には、2010年の時点でまだ「波鎮め油」があった。義務じゃなくても残ってた例だと思う。
24. 海外の名無しさん
もう積まなくてよくなったのは環境のせい?それとももっと良い方法ができたの?素朴に気になる。
25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
まだ積んでる船を見たことがあるよ。今は生分解性の油になってた。植物油や魚油なら害が小さいのは救いかな。
まとめ
海に油を流す話は迷信ではなく、効くのは砕ける波で、うねりは消えない。救命艇の油はアメリカで1983年、英国の博物館の記録では1998年まで義務だった。コメント欄は効果への驚きと、BPをからかう冗談、実際に救命艇の油を見た船乗りの記憶が入り交じり、長く続いた現場の知恵に科学が追いついた話として盛り上がっていた。
参考資料
- 米海洋大気庁(NOAA)対応・復旧部「場合によっては、船はわざと油を流す」(2016年・英語)
- グリニッジ王立博物館群 収蔵品解説「救命艇用の油袋」(英語)
- 光易恒「風波研究の回想」日本学士院紀要B(2015年・英語)
- 青空文庫 寺田寅彦『柿の種』(日本語)
元ソース: 今日知った話:船乗りは嵐のとき海に油を流して波を鎮めており、20世紀後半まで船には「ストームオイル」の搭載が義務づけられていた

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