「戦犯としての刑が軽すぎると考えた日本の将軍が、自宅の庭に自分用の牢屋を建てた」。そんな話が海外の掲示板で話題になりました。主人公は、太平洋戦争でラバウルの第8方面軍を率いた陸軍大将・今村均(いまむら・ひとし)です。オーストラリアの軍事法廷で禁錮10年の判決を受けた今村は、部下たちが収容されていた南太平洋の島の刑務所で服役することを自ら願い出ました。刑期を終えたあとは、東京・世田谷の自宅の一角に3畳の小部屋をつくり、そこにこもって回顧録を書いたと伝えられています。
今日の知ってた?
⚖️ 1947年5月、ラバウルのオーストラリア軍事法廷は、第8方面軍の司令官だった今村均大将に、部下の行動を統制する義務を怠ったとして禁錮10年を言い渡した。
🏝️ 1950年に日本へ送還された今村は、巣鴨ではなく、元の部下が収容されていたマヌス島(ニューギニア本島の北にある島)の刑務所での服役を自ら願い出て、1953年8月に刑務所が閉鎖されるまでそこで過ごした。
🏠 1954年11月に刑期を終えて出所したのち、世田谷の自宅の一角に3畳の小部屋をつくって自らを閉じ込め、質素な暮らしを続けながら回顧録を書いたと伝えられる。1968年10月4日、82歳で死去。
背景:今村均とはどんな軍人だったか
今村均は1886年(明治19年)6月28日、宮城県の仙台に生まれました。父の今村虎尾は判事、つまり裁判官です。1907年に陸軍士官学校(19期)を、1915年に陸軍大学校を卒業し、陸軍の中枢を歩みます。1931年8月には参謀本部の作戦課長となり、満州事変の初期の作戦指導にあたりました。その後、関東軍の参謀副長や第5師団長などをへて、1940年には教育総監部の本部長として、兵士の心得を説いた「戦陣訓」の制定にも関わっています(平凡社『世界大百科事典』による)。
太平洋戦争が始まると、今村は第16軍の司令官として、オランダ領東インド(今のインドネシア)のジャワ島攻略を指揮しました。1942年3月1日に主力がジャワ島へ上陸し、オランダ軍は9日に降伏します。上陸の際、今村の乗った輸送船は味方の魚雷の誤射で沈み、今村は救助されるまで重油の浮いた海を泳いだとされます。
占領後の今村の軍政は、陸軍の中から批判が出るほど穏やかなものでした。防衛省防衛研究所の解説によると、今村は住民の安全に心を配って住宅地に軍が入り込むことを厳しく戒め、ジャワを押さえたあとは敵味方の区別なく緩やかに治める方針を指示しました。陸軍の中央からは「緩すぎる」と問題にされましたが、方針は変えなかったといいます。オランダによって流刑にされていた独立運動の指導者スカルノらを解放したことでも知られています。
1942年11月、今村はニューブリテン島(今のパプアニューギニア)のラバウルに置かれた第8方面軍の司令官に移り、ソロモン諸島とニューギニアの陸軍を指揮下に収めました。1943年5月に大将へ昇進。ガダルカナル島からの撤退にあたったあと、連合軍に包囲されて孤立したラバウルでは、要塞化を進め、畑を切り開いて食料を自給しながら終戦まで持ちこたえました。1945年9月6日、今村は海軍の草鹿任一中将とともに、ラバウル沖のイギリス空母グローリーの艦上で降伏文書に署名しています。オーストラリア戦争記念館には、このとき署名する今村の写真が残っています。
もう少し詳しく
問われたのは「部下を統制する義務」。降伏後の1946年4月、今村はラバウルの刑務所に収容されました。オーストラリアの軍事法廷での裁判は1947年5月に開かれ、起訴の内容は、第8方面軍の総司令官として部下の行動を統制する義務を怠り、その結果、部下がオーストラリアと連合国の人々に対して残虐な行為などの重い罪を犯した、というものでした。今村自身が手を下したことや、処刑を命じたことが問われたわけではありません。指揮官の監督責任を問う裁判です。判決は禁錮10年で、ハワイ大学の戦争犯罪資料プロジェクトは、この刑を「比較的軽い」と表しています。裁判の記録(整理番号R175)は、オーストラリア国立公文書館に残っています。
法廷では、罪状の多くを争っていた。「刑が軽すぎると考えた」という話からは、法廷で潔く罪を認めた姿を思い浮かべるかもしれません。ところが、今村が法廷に出した2通の陳述書は、そう単純ではありません。ハワイ大学のプロジェクトがまとめたところでは、今村は少数の不法な行為が起きたことは遺憾だと認めつつ、そのほかの多くの訴えには異議を唱えています。ラバウル周辺の戦場の過酷さを考慮してほしいと述べ、被害者とされたインド人、インドネシア人、中国人は捕虜ではなく、自ら日本軍に加わった労務者なので国際法の保護は及ばない、とまで主張しました。自分が戦争犯罪を命じたことも、知りながら見逃したこともない、というのが今村の立場でした。
オランダの法廷では無罪、そして自分からマヌス島へ。今村は1948年5月にジャワへ移され、今度はオランダの法廷で捕虜虐待の責任を問われます。防衛研究所の解説によれば、今村は責任を追及されるのは当然だとして求刑を受け入れる姿勢でしたが、1949年12月に無罪の判決が出ました。1950年1月に日本へ送還され、東京の巣鴨プリズンに送られます。ところが今村は、元の部下たちが収容されていたマヌス島の刑務所で服役することを自ら願い出ました。1950年3月に島へ移り、1953年8月に刑務所が閉鎖されるまで、旧部下数百人とともにそこで過ごしています。この申し出を聞いたマッカーサーが「初めて真の武士道に触れた」と語ったという話も日本では広く知られていますが、出どころははっきりしません。
3畳の小部屋と『幽囚回顧録』。巣鴨に戻った今村が刑期を終えて出所したのは、1954年11月です。J-CASTの記事によると、今村はその後、世田谷の自宅の一角に3畳の小部屋をつくって自らを閉じ込め、質素な暮らしを続けながら『幽囚回顧録』(1966年)を書きました。3畳は畳3枚分、およそ5平方メートルの広さです。英語圏では「刑務所をそっくり再現した牢屋を庭に建てた」と紹介されることが多いのですが、日本語の報道や事典で確かめられるのは「自宅の一角の3畳の小部屋」というところまでで、本物の独房を再現したものだったかどうかは分かりません。この回顧録は2010年7月、産経新聞出版から『我ら戦争犯罪人にあらず』の題で復刊されました。同じ記事は、戦勝国が敗戦国を、それも後からつくった法で裁くことへの今村の無念さがにじむ本だと紹介しています。日外アソシエーツの『20世紀日本人名事典』は、今村の身の処し方を「軍人の鑑とされた」と記しています。自分で自分を閉じ込めた人が、裁判のあり方には納得していなかった。どちらも今村均の一面です。今村は1968年10月4日、82歳で亡くなりました。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
罪悪感という心の牢屋に住んでる人っているよな。この人の場合、それを本当に庭に建てちゃったわけだ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
比喩をそのまま実物にするとは。小説でこれをやったら「さすがにあからさますぎる」って編集者に赤を入れられるやつだよ。
3. 海外の名無しさん
名前は今村均。終戦のとき、ニューギニアから南太平洋一帯の日本軍の降伏を担当した陸軍の大将だ。オーストラリア軍に拘束されて、連合国の捕虜の殺害を含む戦争犯罪で裁かれた。
1946年4月には、ラバウルにいたオーストラリア軍の司令官に手紙を書いて、部下の戦犯裁判を早く進めるために自分の裁判を急いでほしいと頼んでいる。罪状は「部下を統制する義務を怠り、残虐行為などの重い罪を犯させた」というもの。1947年5月1日から16日までラバウルの軍事法廷で裁かれて、禁錮10年。東京の巣鴨プリズンで服役して、1954年に釈放された。部下の罪に対する自分の責任を考えれば刑が軽すぎると考えて、庭に刑務所を再現した建物をつくり、1968年に亡くなるまでそこで過ごしたんだ。
※ 実際には、1950年3月から1953年8月までは本人の希望で南太平洋のマヌス島の刑務所におり、巣鴨に移ったのはその後(防衛省防衛研究所の略歴による)。日本語の資料では、出所後につくったのは「自宅の一角の3畳の小部屋」とされている。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
皮肉なことに、弟のほうは戦争が終わったあとも中国に残って、国民党側について共産党軍と戦ったんだよな。
※ 弟の今村方策(日本陸軍では大佐)のこと。終戦後も山西省に残った日本兵の一人で、国民党側の軍閥・閻錫山(えん・しゃくざん)の軍に加わり、1949年4月、太原(たいげん)が共産党軍に攻め落とされた際に亡くなったとされる。
5. 海外の名無しさん
うちのひいじいちゃん、たぶんその降伏の場にいたと思う。海軍でニューギニアやフィリピンのあたりにいて、正式な降伏式典の写真を持ってたんだ。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
うちのじいちゃんも陸軍であのへんにいたらしいんだけど、軍の記録の大半が昔の火事で焼けちゃってて、何をしてたのか分からないんだ。写真が残ってるなんて、それだけですごく貴重だよ。
7. 海外の名無しさん
これだけは言わせてほしい。名誉ある行いだったと思う。償いようのないことをして、お上が「もう償いは済んだ」と言っても、自分が負っていると思う分だけ払い続ける。そこには少なくとも、認めるべき何かがあるよ。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
でも、いちばんひどい目に遭った人たちのために、実際に何かするほうが良かったんじゃないか。せめて働いて、被害者の家族に送金するとかさ。庭でじっと座ってるよりは。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
日本では、回顧録の印税を戦死した部下や処刑された部下の遺族のために使った、って話が伝わってるらしい。ただ、それも被害を受けた側じゃなくて、身内の側への償いなんだよな。
※ 日本でよく語られる話だが、裏付けとなる資料は確認できなかった。
10. 海外の名無しさん
英語版の記事にある「今村の父親は裁判官だった」って一文、さらっと書いてあるけど地味に効いてくる情報だと思う。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
で? 彼に判決を出したオーストラリアの軍事法廷が、そんなことを考慮したとはとても思えないけど。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
そういう意味じゃなくて、裁判官の息子が最後は自分で自分を裁いた、っていう皮肉が面白いって話でしょ。正義感を親から受け継いだ、みたいな。
13. 海外の名無しさん
そもそも戦争犯罪をやらなければ、庭に牢屋なんか建てずに済んだんじゃないの?
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
まあ、その時点ではもう過去は変えられないからな。できることは、これからどう生きるかだけだ。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
だったら牢屋じゃなくて、タイムマシンを作るべきだったな。そっちのほうが確実に問題を解決できる。
16. 海外の名無しさん(>>13への返信)
彼が問われたのは、部下の戦争犯罪を止めなかった責任。自分で手を下したわけじゃない。本人が捕虜の処刑を命じて、あとから後悔した、って話とは違うんだ。そういう立場の人が自分なりに償おうとしたら、これくらいしかなかったんだと思う。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
日本の戦犯をかばうつもりはないけど、彼の立場はかなり複雑だよ。ラバウルは連合軍に包囲されて孤立してたし、指揮下の部隊と直接連絡が取れないことも多かった。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
さらに言うと、当時の日本軍は殴ることで規律を保つ組織だった。将校が下士官を殴り、下士官が兵を殴る。暴力が上から下へ流れていく軍隊に、「降伏する者は臆病者だ」という考えが加われば、捕虜がどう扱われるかは想像がつく。
それを止められたのは、上官の命令だけだったはず。部隊と離れていても、人として守るべき線を部下に命じることはできた。彼はそれを分かっていたんじゃないかな。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
その「捕虜になるのは恥」っていう考えを兵士に叩き込んだ戦陣訓づくりには、今村本人も関わってたんだよな。そう考えると、責任を感じる理由は一つじゃなかったのかもしれない。
※ 平凡社『世界大百科事典』によれば、今村は1940年に教育総監部本部長となり、戦陣訓の制定に関与した。戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず」の一節で知られ、1941年1月に陸軍大臣・東条英機の名で示された。
20. 海外の名無しさん
意外に思う人もいるだろうけど、彼自身は戦争犯罪に手を下していない。自分の信念に本気で従ったんだと思う。ちなみに自分の国は、第二次大戦で日本からいちばんひどい目に遭わされた国のひとつだ。部下の残虐行為を止められなかった将軍なら、山下奉文の例もある。
※ 山下奉文はフィリピン方面の司令官。部下の残虐行為の責任を問われ、1946年に米軍の軍事法廷の判決で処刑された。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
ただ、ラバウルの法廷に出した本人の陳述書を読むと、罪状のほとんどは争ってるんだよ。被害者は捕虜じゃなくて、自分から日本軍に加わった労務者だったから国際法の保護の外だ、とまで言ってる。法廷では責任をほとんど認めなかった人が、出所後に自分を閉じ込めた。そこがこの話のいちばん分からないところだと思う。
22. 海外の名無しさん(>>20への返信)
その一方で、石井四郎みたいに疑いようもなく黒なのに、まるごと免責された人間もいるんだから、戦後の裁きって本当にばらばらだよな。
※ 石井四郎は、人体実験を行った関東軍の731部隊の部隊長。米国は実験データの提供と引き換えに、訴追を見送ったとされる。
23. 海外の名無しさん
正直、自分が人生でほしいのも、自分の庭と、その中で静かに過ごせる小さな場所だけなんだよな…。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
どうせ「刑務所ごっこ」してる間に、奥さんがサンドイッチとレモネードを差し入れてくれてたんだろ。裏庭つきで、出たくなったらいつでも出られる刑期ってわけだ。
25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
日本の資料だと、広さは畳3枚分、だいたい5平方メートルらしいぞ。ビジネスホテルのシングルルームの半分もない。そこにこもって回顧録を書いてたと思うと、ごっこで済む広さじゃないよ。
まとめ
今村均は、部下の残虐行為を防げなかった監督責任を問われ、オーストラリアの軍事法廷で禁錮10年の判決を受けた日本の陸軍大将です。巣鴨ではなく元の部下がいるマヌス島での服役を自ら選び、出所後は自宅の3畳の小部屋にこもって回顧録を書きました。その一方で、法廷では罪状の多くを争い、回顧録には戦勝国による裁きへの無念さもにじんでいます。
コメント欄では「名誉ある償い」と評価する声と、「被害者のためになることをすべきだった」「刑務所ごっこだ」という冷ややかな声が並び、自分で手を下していない指揮官の責任をどこまで問えるのか、という議論にも広がっていきました。

コメント
日本国民への謝罪だ
外国なんて全然関係ねえよ
ほんと勘違いしている外国人が多いね。日本人に向けて申し訳ないという行為。あと、勝った側だから戦争犯罪を問われていないだけで連合国側も十分に罪深いことをしている。中国の便衣兵は民間人を巻き込む目的で、十分に愚かしい行為。韓国人は捕虜を虐待した側、米国は言うに及ぼす。