「船を降りた人の大部分はメキシコにとどまった」伊達政宗の使節団、子孫が今もメキシコにいるという話はどこまで本当か

「船を降りた人の大部分はメキシコにとどまった」伊達政宗の使節団、子孫が今もメキシコにいるという話はどこまで本当か 歴史

江戸時代の初め、伊達政宗の命を受けた使節団が太平洋を渡り、スペイン領だったメキシコに上陸した。海外の掲示板では「その一行の子孫が今もメキシコに住んでいる」という話が数千の賛成を集めたが、記録をたどると、確かめられていることと言い伝えの部分がはっきり分かれている。400年前の日本人がメキシコに残した足跡を整理してみた。

※注:ヌエバ・エスパーニャ(日本の史料では「ノビスパン」)は、16〜19世紀初めのスペインの植民地で、現在のメキシコを中心とする地域。当時の日本とスペインを結ぶ航路は、マニラ(フィリピン)とメキシコのアカプルコを往復するガレオン船の定期便だった。

今日の知ってた?

⛵ 1613年、伊達政宗が送り出した支倉常長らの使節団(慶長遣欧使節)は、180余人で月の浦(宮城県石巻市)を出て、約3か月でメキシコのアカプルコに着いた。ヨーロッパへ向かったのは常長ら約30人で、船を降りた人の大部分はメキシコにとどまった。17世紀のグアダラハラ(メキシコ西部の都市)には、商人として成功した日本人ルイス・デ・エンシオと、その娘婿フアン・デ・パエスが暮らした記録が残っている。ただし、この2人が使節団の一員だったか、また今の住民に子孫がつながっているかは、確かめられていない。

背景:慶長遣欧使節とは

慶長遣欧使節は、仙台藩主の伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇のもとへ送った使節団だ。目的は、ヌエバ・エスパーニャとの直接の貿易を開くことと、宣教師を領内に招くことにあった。正使格はスペイン人のフランシスコ会士ルイス・ソテロ神父、日本人を束ねる副使格が支倉常長である。

仙台市博物館の解説によると、一行は1613年10月28日(慶長18年9月15日)、月の浦から「サン・フアン・バウティスタ号」で出帆した。乗っていたのは多くの商人を含む180人あまり。偏西風と北太平洋の海流に乗って太平洋を横断し、日本を出て約3か月後にアカプルコへ着いた。ここで一行は二手に分かれる。常長が率いる約30人は1614年6月にスペインの艦隊に便乗して大西洋を渡り、同年10月にスペインへ上陸した。一方、船を降りた人の大部分はメキシコにとどまった。

ヨーロッパに渡った常長は、1615年1月にマドリードでスペイン国王フェリペ3世に謁見し、翌2月に洗礼を受けた。同年11月にはローマで教皇パウルス5世にも会っている。しかし貿易の交渉はまとまらず、一行は1617年にメキシコを経てマニラへ向かい、常長が日本に戻ったのは1620年。出発の前後から幕府はキリスト教の禁教を強めており、帰国したころには、使節の目的そのものが成り立たない国になっていた。常長は帰国の2年後に亡くなり、ソテロ神父は1622年に再び日本へ入ろうとして捕らえられ、1624年に火あぶりの刑に処された。

使節の存在は、その後の鎖国の中で250年以上も忘れられていた。日本人がこの使節を「再発見」したのは1873年、明治政府の岩倉使節団がローマを訪れ、現地で常長の足跡を教えられたときだったという。常長が持ち帰ったローマ市公民権証書や肖像画などは、現在は仙台市博物館に収められている。

もう少し詳しく

使節団より前に海を渡った日本人。この使節団には前段がある。1609年、マニラからアカプルコへ向かっていたスペインのガレオン船「サン・フランシスコ号」が房総半島の沖で座礁し、地元の漁民がフィリピンの前臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロら乗組員を助けた。ビベロは翌1610年、日本で造られた船「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」でメキシコへ帰るが、このとき徳川家康の命で同行したのが商人の田中勝介(勝助とも)ら20人あまりの日本人だった。田中は記録に残るなかで最初にアメリカ大陸へ渡った日本人とされ、1611年に帰国している(それより前の1587年ごろにも、スペインの船で太平洋を渡った日本人がいたことは知られている)。田中は1613年の支倉の船にも乗って、再びメキシコへ向かったと記録されている。

グアダラハラの日本人商人。メキシコに残った日本人の行方は、ほとんどが記録から消えている。その中で例外的に足跡がたどれるのが、西部の都市グアダラハラで17世紀に暮らした2人の日本人だ。ルイス・デ・エンシオは商人として成功し、フアン・デ・パエスはその娘婿で、遺言執行人などの役目を任される地元の名士になった。グアダラハラ大学のメルバ・ファルク氏とエクトル・パラシオス氏は、2人の生涯を『グアダラハラを制した日本人』という本にまとめている。2014年、日墨交流400周年の行事として同大学で日本文化週間が開かれた際、常長から13代目の子孫にあたる支倉常隆氏が招かれてあいさつし、この2人が使節団と関係していたのかどうかは「今後の研究を待ちたい」と述べている。

「子孫が今もメキシコにいる」はどこまで本当か。海外の投稿は「使節団員の子孫の一部が今もメキシコに住んでいる」としているが、これは慎重に読む必要がある。確かめられているのは、①使節団の多くがスペインへは向かわずメキシコにとどまったこと、②17世紀のグアダラハラに日本人が暮らし、家族を持った記録があること、の2点までだ。そこから現在の住民まで系図がつながっていることを示した資料は、今回調べた範囲では見当たらなかった。メキシコに残った人々が現地で結婚し、社会に溶け込んでいったと考えるのは自然だが、「誰それが使節団員の子孫」と特定できる話ではない、というのが実情に近い。なお、支倉常長本人の家系は日本で続いており、常隆氏のように仙台で暮らす子孫がいる。

スペインの「ハポン」さんたち。同じような話はスペインにもある。常長らがセビリア近郊で滞在した町コリア・デル・リオには「ハポン(Japón=日本)」という姓の住民が多く、スペインの統計で調べると、この姓を持つ全国1,924人のうち711人が人口約3万人のこの町に住んでいるという。一行の一部はこの町に残り、うち1人は1644年まで30年ほど暮らしたと伝えられている。ただ、ここでも「使節団員の子孫」と言い切れるわけではない。住民の遺伝子を調べても日本人の祖先のはっきりした痕跡は見つかっておらず、地元の歴史家には、この姓は使節団より前に、アメリカ大陸で日本人と商売をしていた人物のあだ名から始まったとする説もある。それでも町は使節団とのつながりを大切にしており、2013年には訪問400年を記念して、当時皇太子だった天皇陛下が町を訪れた。町には常長の像や鳥居が立ち、毎年8月15日には川で灯籠流しも行われている。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
これで驚いてたら、日本の外で日系人がいちばん多い国がブラジルだって知ったらひっくり返るぞ。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
日本はその日系ブラジル人を労働者として呼び戻したこともあるんだよな。日本に来て、だいぶカルチャーショックを受けた人が多かったらしい。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
結局ブラジルに帰る人も多かったみたいだね。見た目は日系でも、中身は普通のブラジル人なんだから、日本の暮らしに合わなくても不思議じゃない。

4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
移民の第一陣がブラジルに渡ってからもう100年以上たってるしな。ひ孫の代になれば、日本の習慣がほとんど残ってないのは当然だと思う。

5. 海外の名無しさん
「これで驚いてたら〜」って返し、ここだと定番だけどちょっと意地悪じゃない?17世紀にメキシコへ日本の使節が来てたって話と、何百年も後のブラジル移民の話は全然別の話だよ。

6. 海外の名無しさん
もっと面白いのは、日本が開港地の外に住むことを最初に認めた外国人がメキシコ人だったって話。実際に移り住んだ人はそんなにいなかったらしいけど。

※注:1888年に結ばれた日墨修好通商条約は、日本が外国と結んだ初めての対等な条約とされる。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
400年前に漂着した船の乗組員を助けたのが日本との縁の始まり、ってメキシコの人から聞いたことがある。ずっと仲がいいんだな、この2国。

8. 海外の名無しさん
歴史って結局、地球の裏側まで旅した人がうっかり家系を残していく話の積み重ねなんだよな。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
ほんとそれ。極論すればそれ以外の何物でもない。残りは戦争と税金。

10. 海外の名無しさん
スペインにも使節団が行ってて、セビリアの近くの小さな町に何人か残ったんだよ。今でもその町には「ハポン(日本)」って名字の人がたくさんいる。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
名字が「日本」ってすごいな。ただ、DNAを調べてもはっきりした証拠は出なかったって記事を読んだことがある。ロマンは残しておきたいけど。

12. 海外の名無しさん
当時のヨーロッパ側の記録に、侍の刀は「柔らかい紙を刃に載せて息を吹きかけるだけで切れる」って書いてあるらしい。家の包丁を研いで試してみるわ。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
指まで試し切りしないようにな。こっちは紙より柔らかいぞ。

14. 海外の名無しさん
メキシコって外国人や外の文化を取り込むのが本当にうまい国だと思う。アメリカ人もドイツ人も中国人も日本人も、池に石を投げ込んだみたいに自然に溶け込んでいく。人種のるつぼと言えばアメリカだけど、あっちは混ざりきらないサラダボウルって感じ。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
そう言い切れるかな。1930年代のメキシコは中国系の住民を大勢追い出してるよ。シナロア州なんて2,000人以上いた中国系が165人まで減ってる。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
でも北部のメヒカリには何世代も続く中国系のコミュニティがあって、中華とメキシコ料理を合わせた料理が名物だよ。最近は工場の移転で、新しく中国から来る人も増えてる。

17. 海外の名無しさん
去年日本で働いてたとき、ブラジルと日本のハーフの女の子と知り合った。1歳になる前から日本で育ったから、日本語は完全にネイティブだったけど。

18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
いま日本でブラジル人がいちばん多い地域に住んでるけど、両方の人たちの性格が違いすぎて毎日驚く。それでもうまくやってるんだから、正反対のほうが惹かれ合うってやつを毎日実演で見てる気分。ただ、きつい仕事に就いてる人が多いのは見ていてつらい。

19. 海外の名無しさん
父が日本人で、ブラジルでサッカーのユニフォーム屋をやってる。ワールドカップのときの売り上げは1位がブラジル代表、2位が日本代表だったよ。

20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
2位が日本代表なのがいいね。日系の人が多い国ならではだ。両方勝ってくれたら店も大儲けだな。

21. 海外の名無しさん
「ブラジリアン柔術」って言葉を子どもの頃から聞いてたのに、ブラジルに日系人が大勢いることとつなげて考えたことがなかった。

22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
ブラジリアン柔術を作ったのは日系人じゃなくて、ヨーロッパ系のグレイシー兄弟だよ。そこは混ぜないほうがいい。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
でもグレイシー家に柔術を教えたのは、ブラジルに渡った日本人の前田光世だろ。根っこはやっぱり日本からの移民にある。

24. 海外の名無しさん
南米は日系人が本当に多いよね。ペルーなんて日系のフジモリが大統領になったくらいだし、評価は今でも真っ二つだけど。

25. 海外の名無しさん
400年前に地球の半分を船で渡って、言葉も通じない土地で商売して家族まで持ったって、どれだけ度胸があったんだろう。グアダラハラの日本人の話、映画にしてほしい。

まとめ

1613年に伊達政宗が送った支倉常長らの使節団は、メキシコで大部分が船を降り、17世紀のグアダラハラには日本人商人が家族を持って暮らした記録が残る。ただ、使節団員の子孫が今もメキシコにいるという話は、系図で確かめられたものではない。コメント欄はブラジルの日系人や柔術の起源へと脱線しながらも、400年前に海を渡った人々の度胸に感心する声で締めくくられていた。

参考資料

元ソース: 17世紀のメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)に日本の外交使節が来ていて、その一員の子孫の一部は今もメキシコに住んでいるらしい

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