「オーストリアの統治を私に任せてほしい、ナチスを追い返すために」その申し出は断られ、帝位継承者に死刑判決が下った

「オーストリアの統治を私に任せてほしい、ナチスを追い返すために」その申し出は断られ、帝位継承者に死刑判決が下った 歴史

「オーストリアの統治を私に任せてほしい。ナチスを追い返すために」——ドイツに併合される前のオーストリアで、そう申し出た人物がいる。オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝の息子、オットー・フォン・ハプスブルク。帝政はすでに終わっていて、彼は国外で暮らしていた。申し出は断られた。そしてドイツがオーストリアを併合したあと、ナチス政権は彼に死刑を宣告する。ただし、この話はそこで終わらない。

※注:「帝位継承者」は英語の pretender の訳語。王位や帝位への正統な継承権を持ちながら、実際にはその座に就いていない人物を指す言葉である。「詐称者」「なりすまし」という意味ではない。王政そのものが廃止されたあとでも、法的な継承順位の一番上にいる人はこう呼ばれ続ける。

今日の知ってた?

👑 オーストリアの帝位継承者だったオットー・フォン・ハプスブルクは、ナチス・ドイツを追い返すために、自らオーストリア政府を引き受けると申し出た。この申し出は断られた。そしてドイツがオーストリアを併合したあと、彼はナチス政権から死刑を宣告される。ただし当時の彼は国外におり、ナチスに捕らえられることは最後までなかった。彼が亡くなったのは2011年——死刑を宣告されてから、70年以上あとのことである。

背景:1918年に消えた帝国と、1938年の併合

ハプスブルク家は、ヨーロッパでもっとも長く続いた王家のひとつである。何百年にもわたって中欧を治め、最後にはオーストリア=ハンガリー帝国という多民族国家の頂点にいた。その帝国が消えたのが1918年。第一次世界大戦に敗れ、帝国は解体し、帝政は終わった。オーストリアは共和国になり、皇帝一族は国を出た。

オットーは、その最後の皇帝の息子である。帝政が終わったとき、彼はまだ子どもだった。生まれたときには「いずれ皇帝になる子」だったものが、物心つく前に「もう存在しない国の、存在しない王座の継承者」に変わっていたことになる。実権はない。領土もない。あるのは順位だけだ。

さらに1919年、共和国となったオーストリアは、王政そのものを否定する法律を作った。ハプスブルク家の人間は、王座への請求権を正式に放棄しない限り、オーストリアに入国することすらできなくなる。祖国は、彼にとって帰れない国になった。

※ この法律はコメント欄で「1919年の反王政法」として言及されていたもの。名称や条文の細部までは元スレでは語られていない。

そして1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合する。ドイツ語でアンシュルス(Anschluss)と呼ばれる出来事で、「接続」「合併」といった意味の言葉だ。これによってオーストリアという国はいったん地図から消え、ドイツの一部になった。オットーの申し出は、この併合を止めるためのものだった。

もう少し詳しく

申し出の中身と、断られた理由。「オーストリア政府を引き受ける」がどういう形の要求だったのか、誰に宛てて、いつ出されたのか——元スレではそこまで具体的には語られていない。断られた理由も伝わっていない。確かなのは、申し出があったこと、それが断られたこと、そして併合が起きたことの3点だけである。ただ、当時のオーストリアが「皇帝一族の入国そのものを法律で止めていた国」だったことを思い出すと、この相談がどれほど無茶な角度から飛んできたかは想像がつく。国を守るために王座に戻してくれ、という話を、王座を廃止した張本人たちに持ちかけたのだ。

死刑を宣告された男は、国外にいた。併合後、ナチス政権はオットーに死刑を宣告する。しかし彼はフランスにいて、のちにポルトガルへ移った。ナチスが彼を捕らえることは、最後までなかった。コメント欄には彼の国籍の変遷を並べた一覧が貼られていて、これがなかなか強烈である。オーストリア(1912〜1938、および1965年以降)、ハンガリー(1912〜2011)、ナチス・ドイツ(1938〜1941)、無国籍(1941〜1946)、モナコ(1946〜1965)、西ドイツ(1978〜1990)、ドイツ(1990年〜)、クロアチア(1990年〜)。死刑を宣告してきた政権の国籍を、宣告後も数年間は持っていたことになる。

宣告を受けたまま、人を逃がしていた。自分の首に懸賞がかかっている状態で、彼は国外脱出の手助けを続けていたという。コメント欄では「1万人以上、その多くはユダヤ系の避難民」という話と、「オーストリア人1万5千人の脱出に関わった」という話の両方が出ていた。数字は語られ方によってばらつきがあり、どこまでが直接の関与でどこからが周辺の協力なのかも、元スレの範囲では確定できない。ただ、亡命先で肩書きだけになった継承権を、渡航書類を出させるための道具として使い倒した——という筋書きは、複数のコメントで一致している。

逃げ切れなかった親族もいる。同じ一族でも、全員が国外にいられたわけではない。コメント欄によれば、第一次大戦のきっかけとなった暗殺事件の被害者フランツ・フェルディナントの息子たち、マックスとエルンストはダッハウの強制収容所に送られている。ふたりは生き延びたが、収容所で主に割り当てられたのは便所掃除だった。それを不機嫌にやるのではなく、むしろ陽気にこなして他の囚人たちと仲良くやっていた、という話が伝わっている。また、大公カール・アルブレヒトは占領下で抵抗運動に関わり、秘密警察に逮捕され拷問を受けたとされる。

戦後、彼は「ヨーロッパの人」になった。王座は戻ってこなかった。代わりに彼が選んだのは、ヨーロッパを統合するという方向の仕事だった。パン・ヨーロッパ連合という、ヨーロッパの統一を掲げる団体の指導者を務め、欧州議会の議員も20年にわたって続けている。しかもその議席はドイツ選出だった。オーストリアの帝位継承者が、オーストリアを併合した国の代表として議場に座っていたわけで、皮肉といえばこれ以上ないほど皮肉である(選挙区はバイエルンで、オーストリアの隣ではあった)。祖国に帰れるようになったのは1966年のこと。その5年前の1961年に、彼が王座への請求権を正式に放棄したためだった。

1989年、ハンガリー国境のピクニック。晩年に近い時期、彼が関わった団体がハンガリーとオーストリアの国境でピクニックの催しを開いた。この日、数百人の東ドイツ市民が国境を歩いて越え、西側へ抜けている。ベルリンの壁に入った最初のひび、として数えられる出来事である。1918年に帝国の終わりを見た子どもが、1989年に冷戦の終わりの発火点に立ち会っている。

そして、三度のノック。2011年に彼が亡くなったとき、オーストリアでは大がかりな葬列が組まれた。軍まで参加し、帝国時代の国歌が演奏された。共和国の代表として参列した政治家たちにとっては、なかなか居心地の悪い時間だったらしい。最後に行われたのが、皇帝一族の納骨堂の入口で交わされる古い儀式である。扉を叩く。中の修道士が「そこにいるのは誰か」と問う。外の使者が、皇太子としての称号を延々と読み上げる——ハンガリー王子、トスカーナ大公、ロレーヌ公、といった調子で、とにかく終わらない。返ってくる答えは「その者を知らぬ」。もう一度叩く。今度は現世での肩書きを読み上げる。パン・ヨーロッパ連合名誉会長、欧州議会の長老議員、多くの大学の名誉博士。答えはまた「その者を知らぬ」。三度目に、使者はこう名乗る。「オットー。死すべき、罪深きひとりの人間」。ここで初めて扉が開く。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
このタイトル、けっこう大事なところが抜けてる。彼は当時フランスにいて、のちにポルトガルに移っていて、ナチスは最後まで彼を捕まえられなかった。死刑判決は出たけど、執行されないまま政権のほうが先に消えた。ちなみに彼が亡くなったのは2011年。判決から70年以上生きている。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
まあまあ、そんな細かいところにこだわらないで。この人は「オーストリア全土の支配者にしてくれるなら、ひょっとしたらナチスと戦うかもしれない」と申し出た偉大な人物なんだから。敬意を込めてフルネームで呼ぼう。フランツ・ヨーゼフ・オットー・ローベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・クサヴァー・フェリックス・レナトゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス・フォン・ハプスブルク。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
その皮肉はわかるんだけど、1938年のオーストリアで比較対象がナチスだった、というのが全部を台無しにしてるんだよな。「王政に戻すのはさすがにどうか」と「ナチス・ドイツに国ごと吸収される」を並べて後者が選ばれた年の話をしている。どっちも嫌だと言える立場の人が、あの時点でどれだけいたのか。

4. 海外の名無しさん
戦争の初期、自分の首に死刑判決がかかっている状態で、彼は1万人以上の国外脱出を手助けしていたらしい。大半はユダヤ系の避難民や、体制に追われていた人たち。渡航の書類を用意して、船に乗せて、海の向こうへ送り出していた。肩書きしか残っていない亡命者が、その肩書きだけで人を助けた話ではある。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
別のところでは「オーストリア人1万5千人の脱出に関わった」という数字も見た。この手の話は資料によって数がけっこう動くから、正確なところは慎重に見たほうがいい。ただ、どの数字を採っても「亡命中の元皇太子がやった仕事」としては相当な規模になる。

6. 海外の名無しさん
素朴な疑問なんだけど、彼は最後の皇帝の正統な後継者なんだよね。なんで「僭称」みたいな響きの言葉で呼ばれてるんだ。亡命中に彼が書いたものを読んだことがあるけど、ヨーロッパ統合のために相当なことをやった人だという印象しかない。

7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
pretender は「王座への正統な請求権を持っているが、現時点でその座に就いていない人」を指すだけの単語で、嘘つきという意味は一切入っていない。たとえば今のバイエルン公は、バイエルン王国の継承者であると同時に、ジャコバイト系の理屈でいけばイギリス王位の継承者でもある。つまり肩書きの上では二重の pretender。誰も彼を詐欺師だとは思っていない。

8. 海外の名無しさん
本人は逃げ切ったけど、一族全員がそうだったわけじゃない。第一次大戦のきっかけになった暗殺事件、あの被害者の息子たちはダッハウに送られている。ふたりとも生き延びたけれど、収容所で主に割り当てられた仕事は便所掃除だった。しかもそれを陰気にやるのではなく、むしろ陽気にこなして他の囚人たちと仲良くやっていたという。

9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
出自を考えれば、本人たちも「運がよかった」と思っていたんじゃないかな。原則として、有名人はナチスであってもあまり撃たなかった。戦争が終わったときに、ユダヤ人が大量に消えていることには誰も気づかないだろうと本気で考えていた一方で、元皇太子や有名なテニス選手を殺したら確実に問題になる、という計算はしていたわけで。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
ただしユダヤ系だと、有名でも助からないことは普通にあった。アルパード・ヴェイスはイタリアのリーグを3回制したサッカーの監督だったけど、アウシュヴィッツで亡くなっている。有名だから守られる、という法則が働いたのは、あくまで「殺すと外交的に面倒な相手」に限った話だと思う。

11. 海外の名無しさん
この流れを見ていると、ソ連がいなければ本当にハプスブルク復古はあり得たんじゃないかと思えてくる。ドナウ川流域の連邦構想にはイギリスの支持があって、それは実質的にイギリス型の立憲君主制を復活させる話だった。潰したのはスターリンだ。しかも現地の支持も相当あって、いくつものパルチザン集団が亡命中の彼を象徴的な指導者として担いでいた。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
どうかな。1910年代から20年代にかけての復古の試みが、それはもう見事に失敗しているのを踏まえると、第二次大戦後にチャンスがあったとは思えない。ソ連がいなくても、オーストリア国内の共和主義はすでに十分固まっていた。スターリンは最後のひと押しをしただけで、扉はその前から閉まっていたと思う。

13. 海外の名無しさん
少し冷めた見方をすると、彼が担がれたのは「王政に戻したい人が多かったから」ではなくて、「ナチスでもソ連でもない旗印」が必要だったからじゃないかと思う。占領下で抵抗する人たちには、共通の看板がいる。そこにたまたま、誰も現役ではないが誰もが知っている名前が空いていた。本人の思想がどうこうより、名前の使い勝手のよさで選ばれた面はあるはずだ。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
それはそうなんだけど、その「使い勝手のいい看板」に集まった人たちのうち、4千人から4千5百人が強制収容所に送られたという話もある。担いだ側にとっては象徴で済まなかった。旗印の実用性を論じるとき、旗の下に立った人がどうなったかまで込みで見ないとフェアじゃないと思う。

15. 海外の名無しさん
ひとつ誤解されがちなのは、戦後に彼が長いあいだ祖国に帰れなかった理由。あれはナチスの迫害が尾を引いたからではなくて、1919年に共和国側が作った王政否定の法律のせいなんだ。ハプスブルク家の人間は、王座への請求権を放棄しないとオーストリアに入国できない。ナチスが消えたあとも、その条文だけはずっと残っていた。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
そこは補足がいる。彼が請求権を放棄したのは1961年で、実際に入国が認められたのは1966年。5年の間が空いたのは彼自身にも原因があって、王座への請求権は放棄した一方で、息子のほうはドイツで大公として登録していたから。オーストリア人の多くが「この人の共和主義はどこまで本気なんだ」と首をかしげたのは、まあ無理もない。

17. 海外の名無しさん
第二次大戦から何十年もあとの話になるけれど、彼はパン・ヨーロッパ連合という統一ヨーロッパを掲げる団体の指導者になっている。さらに欧州議会の議員を20年やっていて、その議席はドイツ選出だった。オーストリアの帝位継承者が、オーストリアを併合した国の代表として座っている。ちょっと皮肉が効きすぎている。選挙区がバイエルンなので、半分くらいはオーストリアみたいなものだと言えなくもないが。

18. 海外の名無しさん
90年代の終わりに欧州議会で短期間働いていて、本人に会ったことがある。当時はバイエルン選出の議員で、息子さんはオーストリア選出の議員だった。記憶が正しければ、何十年か経ってオーストリア側が制度を変えて、彼は帰ろうと思えば帰れるようになったはずなんだけど、本人は「いや、今のままでいいよ」という感じだった。とても感じのいい人だった。

19. 海外の名無しさん
彼はとにかく全部を見届けて生き延びた人だ。1989年には、彼の団体がハンガリー国境で開いた催しの日に、数百人の東ドイツ市民が歩いて国境を越えてオーストリア側へ抜けている。あれが壁に入った最初のひびだと数えられている。1918年に帝国が終わるのを見た子どもが、1989年に冷戦が終わり始める場所に立っていたわけだ。

20. 海外の名無しさん
彼の心臓は、体とは別の場所に埋葬されている。ヨーロッパの王族には昔からある習慣で、バイエルンのアルテッティングの聖堂には、王たちや神聖ローマ皇帝のものを含めて28個の「著名な心臓」が納められているらしい。数え方まで決まっているのが独特だと思う。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
彼の場合は心臓がハンガリー、体がオーストリア。二重帝国の両方に属したままでいる、という意思表示だと解釈されている。もともとは埋葬までに時間がかかる王侯の遺体を保たせるための処置が、そのまま象徴的な意味を帯びたものらしい。教会の許可がいる特別扱いで、一般の人が同じことをやると当然ながら大問題になる。

22. 海外の名無しさん
オーストリア在住だけど、彼の葬儀はちょっとした大事件だった。歴史ある団体がいくつも参列して、軍まで加わった大規模な葬列が組まれて、帝国時代の国歌が演奏された。共和国を代表して来ていた大統領や閣僚たちの表情が、見ているこちらが申し訳なくなるくらい気まずそうだったのを覚えている。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
最後の納骨堂の儀式が本当にいい。扉を叩いて、中から「そこにいるのは誰か」。皇太子としての称号を延々と読み上げる。答えは「その者を知らぬ」。もう一度叩いて、今度は名誉博士だの議員だのを読み上げる。また「その者を知らぬ」。三度目にようやく「オットー。死すべき、罪深きひとりの人間」と名乗って、そこで扉が開く。あれだけの称号を全部剥がしてからでないと入れてもらえない、という設計を何百年も続けているのがすごい。

24. 海外の名無しさん
結局この話でいちばん引っかかるのは、彼の申し出が受け入れられていたら何かが変わったのか、という点だ。個人的には変わらなかったと思う。ひとりの継承者が首相の椅子に座ったところで、戦車の数は増えない。ただ、断られたあとに彼がやったこと——人を逃がして、戦後はヨーロッパをつなぐ側に回って、1989年の国境まで生きた——を並べていくと、あの申し出も本気だったんだろうな、とは思えてくる。

まとめ

ナチス・ドイツの併合を止めるために、帝位継承者が「政府を引き受ける」と申し出て断られ、併合後に死刑を宣告される。だがその男は捕まらず、宣告を受けたまま多くの人の国外脱出を助け、戦後はヨーロッパ統合の側に回って2011年まで生きた。コメント欄では「ソ連がいなければ復古はあり得たのか」という歴史のもしもと、「王政復古の名分に名前を使われただけでは」という冷めた見方が最後まで並走していた。旗印として担がれた側の思惑と、その旗の下に集まって収容所に送られた人たちの現実は、たぶん最初から別のものだったのだろう。それでも、称号を三度剥がされてようやく扉が開くという葬儀の儀式まで含めて、この人の一生はどこか出来すぎている。もし彼の申し出が受け入れられていたら、歴史は少しでも動いたと思いますか。

元ソース: オーストリアの帝位継承者オットー・フォン・ハプスブルクは、ナチスを追い返すためにオーストリア政府を引き受けると申し出た。申し出は断られ、ドイツによる併合後、彼はナチス政権から死刑を宣告された

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