1936年のベルリン五輪で、ジェシー・オーエンスは4つの金メダルを取った。100メートル、200メートル、走幅跳、そして4×100メートルリレー。当時としては前人未到の記録だった。その彼が帰国後に就いた仕事は、ガソリンスタンドの店員と、市営の遊び場の清掃係である。しかもそれは、何年もかけてゆっくり落ちぶれた末の話ではなかった。
※注:当時のオリンピックは「アマチュアであること」が出場条件で、競技で報酬を受け取ると資格を失った。プロ選手の参加が本格的に認められるのは1980年代以降のことである。
今日の知ってた?
🏅 ジェシー・オーエンス(1913〜1980)は、1936年のベルリン五輪で100m・200m・走幅跳・4×100mリレーを制し、金メダル4個を持ち帰った。だが帰国後の彼が就いたのは、ガソリンスタンドの店員、市営の遊び場の清掃係、クリーニング店の経営といった仕事だった。競技団体からアマチュア資格を取り消されて陸上の道が絶たれ、生活のために賞金を懸けて馬やオートバイと競走した時期もある。資格を失ったとき、彼は23歳。1939年には破産している。
背景:オリンピックが「アマチュアのもの」だった時代
今の感覚だと、金メダリストが翌日からガソリンスタンドに立っているのは異常事態に見える。だが1930年代のオリンピックでは、選手が別に仕事を持っているほうが当たり前だった。出場資格が「アマチュアであること」に限られていたからだ。競技で金を受け取った瞬間に資格を失う。賞金もなければ、スポンサー契約もない。選手は自前で生活を立てながら、空いた時間で練習していた。
オーエンス自身、大学時代からその中にいた。オハイオ州立大学で「バックアイの弾丸」と呼ばれた彼は、奨学金を受けられず、夜はエレベーター係として働きながら陸上を続けている。遠征では白人の選手と同じホテルに泊まれず、同じレストランで食事もできなかった。世界記録を塗り替えていた学生の日常が、そのまま当時のアメリカ社会の縮図になっていた。
※注:オーエンスは1935年5月、大学対抗戦のわずか45分間で3つの世界記録を更新し、1つに並んだ。陸上史では「スポーツ史上最高の45分間」と呼ばれる。ベルリンでの4冠は、その翌年である。
そしてベルリンでの4冠。ナチス・ドイツが国威発揚の舞台として用意した大会で、黒人選手が短距離と跳躍を総取りしたことは、世界中に報じられた。歓迎のパレードもあった。ただ、そこから先の話がほとんど伝わっていない。
もう少し詳しく
選手生命が終わったのは、ヨーロッパ巡業を途中で降りたからだった。閉幕後、アメリカ代表はヨーロッパ各地を回る招待試合の日程に組み込まれていた。報酬は出ず、移動と出走が続く強行軍だったと伝えられる。疲れ切ったオーエンスは、家族を養うための仕事の話がアメリカから届いていたこともあり、スウェーデンでの試合を前に帰国を選んだ。アマチュア競技連合(AAU)の反応は速かった。彼はアマチュア資格を取り消され、公式競技に出られなくなる。ベルリンの熱狂から、まだ数週間しか経っていなかった。
※注:AAUは当時アメリカのアマチュア競技を統括していた団体。資格を失うということは、五輪も国内の公式大会も含めて「走る場所そのものがなくなる」ことを意味した。
「金メダルは食えない」——馬と走った日々。陸上で稼ぐ道が消えた以上、残ったのは見世物として走ることだった。オーエンスは賞金を懸けて、馬、オートバイ、自動車、トラックと競走している。1936年の暮れにはキューバで馬と走った。のちに彼はこう語っている。「オリンピック王者が馬と競走するのは屈辱的だと人は言う。だが、私にどうしろというのか。金メダルは4つあった。だが金メダルは食えない」。別の場では、自分は「見世物」になったのだと、もっと苦い言い方も残している。
馬との競走は、あらかじめ距離のハンデをもらったうえで、号砲に驚いた馬が出遅れる間に決着をつける段取りだったと伝えられている。つまり興行としても仕込みがあったわけで、本人が屈辱と言ったのはそういう意味でもある。
五番街のパレードと、貨物用エレベーター。帰国したオーエンスは、ニューヨークの五番街で紙吹雪のパレードに迎えられた。歓迎されなかったわけではない。ただ、その夜に彼自身のために開かれた祝賀会の会場となったホテルで、彼は正面玄関から入ることができず、貨物用のエレベーターで会場まで上がったと伝えられている。自分のための祝勝会だった。そしてホワイトハウスからは、招待も祝電も届かなかった。
「ヒトラーが握手を拒んだ」という有名な話は、本人が否定している。オーエンスをめぐって最も広く知られているのが、この逸話だろう。だが当のオーエンスは、生涯にわたってこれを否定し続けた。
事実関係としてはっきりしているのは、大会初日にヒトラーが一部の優勝者だけを貴賓席に呼んで祝福し、それを見た国際オリンピック委員会が「全員を祝福するか、誰も祝福しないかにしてほしい」と申し入れた、というところまでである。以後ヒトラーは、公式の場では誰も祝福しなくなった。オーエンスが最初の金メダルを取ったのは、その翌日だった。つまり「オーエンスだけが素通りされた」という形にはなっていない。
オーエンス自身は後年、ヒトラーの席の前を通ったとき向こうが立ち上がって手を振ったので自分も振り返した、と語っている。そして繰り返し口にしたのが、この言葉である。「ヒトラーが私を無視したのではない。無視したのはルーズベルト大統領のほうだ。大統領は祝電の一本もよこさなかった」
もっとも、ヒトラーが内輪の場でオーエンスの勝利に不快感を示したという側近の証言も残っており、「本人が否定したのだから差別はなかった」という話にはならない。確実に言えるのは、公の場面として長く語られてきた握手拒否について、当事者だけが一貫して「そんなことはなかった」と言い続けた、ということだ。彼が本当に語りたかったのはドイツのことではなかった、と読むこともできる。
ベルリンで彼を助けたドイツ人がいた。走幅跳の予選で、オーエンスは2回続けてファウルを取られ、あとがなくなった。このとき助言をくれたのがドイツ代表のルッツ・ロングだったと伝えられている。踏切板の手前から跳べ、という趣旨だったという。オーエンスは予選を通過し、決勝ではロングを破って優勝した。真っ先に祝福に来たのがロングで、二人は競技場を並んで歩いたと記録されている。オーエンスはのちに「ヒトラーの目の前で自分と親しくするのは、彼にとって相当な勇気が要ったはずだ」という趣旨を語った。ロングは第二次大戦中の1943年に戦死し、オーエンスは戦後も彼の家族と手紙のやり取りを続けている。
※注:ロングの助言の中身については、後世に脚色が加わっている可能性を指摘する研究者もいる。ただし二人が競技後に親しく振る舞ったことは、当時の写真と記録に残っている。
その後の四十数年。1939年に破産。第二次大戦中は自動車会社の人事部門で働き、戦後は講演の仕事で身を立てるようになった。1955年にはアイゼンハワー大統領から「スポーツ親善大使」に任じられ、各国を回っている。一方で1966年には所得税の申告漏れで訴追され、罰金を科された。1976年、フォード大統領から民間人への最高位の勲章である大統領自由勲章を受章。1980年、肺がんで死去した。66歳。1日1箱のたばこを35年続けていたという。1990年には議会名誉黄金章が追贈され、未亡人が受け取っている。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
今の時代に生まれていたら、スポンサー契約だけで一生分の稼ぎになっていただろうな。単独で4冠なんて、世界中の広告に出ていておかしくないレベルの話だぞ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
母校のオハイオ州立大は今でもオーエンスとのつながりを前面に出しているけど、当の本人には一銭も入っていない。名前そのものが資産になる仕組みが存在しなかった時代だから仕方ないんだが、なんとも言えない気持ちになる。
3. 海外の名無しさん
競技団体の処分がいちばん効いている。ベルリンのあと、アメリカ代表は無報酬でヨーロッパを回る招待試合の日程に組み込まれていて、彼は疲れ切って途中で帰国した。それだけでアマチュア資格を取り消されて、23歳で選手生命が終わっている。金メダル4個を取った直後にだよ。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
こういう話、犠牲になった側の名前はいつまでも残るのに、決めた側の名前は誰も覚えていないんだよな。それ、結局誰が決めたんだ。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
当時のアメリカ・オリンピック委員会の会長だったエイブリー・ブランデージが動いたと言われている。契約違反だという理由づけだったが、そんな契約は最初から存在しなかった、という指摘もある。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
その人、ベルリン大会をボイコットしようという議論を押し切って代表派遣を実現させた側でもある。選手からさんざん嫌われた末に、後年きっちり国際オリンピック委員会の会長になっているんだから、世の中よくできている。
7. 海外の名無しさん
「金メダルは4つあった。だが金メダルは食えない」って、聞いたことのある言い回しの中でいちばん重い部類だと思う。しかもこれ、比喩でもなんでもなく本当に食えなかったという話だからな。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
賞金を懸けて馬と競走していた時期がある、というのがまた効いてくる。本人も自分は「見世物」になったという言い方を残している。走る才能で世界一になった人間が、走る才能では食べられなかった。
9. 海外の名無しさん
馬との競走は、距離のハンデをもらったうえで、号砲に驚いた馬が出遅れる間に決着をつける段取りだったと伝えられている。スポーツですらなく、完全に興行の仕込みだったわけで、本人が屈辱と呼んだのも当然だと思う。
10. 海外の名無しさん
そもそも当時の五輪は「アマチュアであること」が出場条件で、競技で金を受け取った瞬間に資格を失った。だから選手はみんな別に仕事を持っていた。オーエンスに限った話ではなくて、制度がそういう作りだったんだよ。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
その制度で得をしたのは、働かなくても食える資産家と、代表選手を軍人や公務員として雇って給料を出した国だけどな。「アマチュア精神」って、要するに最初から金のある側に有利な仕組みだった。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
東側の国の選手は名目上アマチュアでも実態は国家が雇った職業選手で、当時から「アマチュアごっこ」だと批判されていた。この建前が1980年代まで持ちこたえたほうが不思議なくらいだよ。
13. 海外の名無しさん
同じ1936年のスターでも、野球のルー・ゲーリッグはシリアルやたばこの広告に出ていた。当時のアメリカで金になるスポーツは野球で、陸上はそもそも人の関心を集めていない。人種の問題と競技人気の問題が二重に乗っかっている。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
正直、後半のほうは今もあまり変わっていないと思う。前回の五輪の100メートルハードルで金メダルを取った選手、今テレビで見かけるかというと……。
15. 海外の名無しさん
五輪選手って、シーズンオフは普通の仕事をしているものなの?柔道とかレスリングとか、競技だけで生活が成り立つ種目のほうが少ない気がするんだけど。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
柔道家は普段から街で人を投げて回っていて、やめてほしければ金を払え、という商売をしている。ボクサーもレスラーも同じだ。れっきとしたフルタイムの職業だよ。
17. 海外の名無しさん(>>15への返信)
子どものころ習っていた水泳のコーチが五輪出場者だった。何年も経ってからシリアルの箱の裏に写真が載っているのを見るまで、まったく知らなかったよ。本人は一度も口にしなかった。
18. 海外の名無しさん
2000年シドニー五輪のつり輪で金メダルを取ったハンガリーの選手が、2010年代の大半をブダペストの小さなバーのカウンターで過ごしていた。自分はその店の常連だったんだよ。金メダリストにビールを注いでもらっていたことになる。
19. 海外の名無しさん
帰国したときの五番街のパレードのあと、彼自身のための祝賀会が開かれたホテルで、正面玄関から入れずに貨物用エレベーターで上がったと伝えられている。ガソリンスタンドの仕事は数年後の転落なんかじゃなくて、帰ってきたその時点から地続きなんだよ。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
そしてホワイトハウスからは招待も祝電も来なかった。国を代表して勝ってきた選手に対してこれなんだから、当時の扱いはこの一点でだいたい分かってしまう。
21. 海外の名無しさん
「ヒトラーが握手を拒否した」って学校で習った記憶があるんだけど、本人がずっと否定していたと知って混乱している。手を振ってもらった、無視したのは大統領のほうだ、と言い続けていたらしい。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
ヒトラーは外向けの見せ方が本当にうまかったからな。大会そのものが対外宣伝の場だったし、当時ドイツを訪ねた各国の要人も「話の通じる相手だ」と思って帰っていった。オーエンスの受けた印象も、その延長線上にあると思う。
23. 海外の名無しさん(>>21への返信)
ただ、側近の証言では内輪でかなり不快がっていたという話も残っている。だから「本人が否定したから差別はなかった」という結論にもならない。彼が言いたかったのは、たぶんドイツの話じゃなくて自分の国の話のほうだったんじゃないかな。
24. 海外の名無しさん
走幅跳の予選でファウルが続いて追い込まれたとき、助言をくれたのがドイツ代表のルッツ・ロングだったと伝えられている。決勝でロングを破って優勝したあと、真っ先に祝福したのもロングだった。ロングは1943年に戦死している。
25. 海外の名無しさん
後半生は講演で身を立てて、大統領自由勲章まで受けているから、最後まで報われなかった人という話ではない。ただ、いちばん速かった23歳のときに走る場所を取り上げられたという事実だけは、あとから勲章を何個積んでも埋まらないと思う。
まとめ
4つの金メダルを持ち帰った23歳が、数週間後にはアマチュア資格を失い、ガソリンスタンドに立ち、賞金を懸けて馬と走っていた。コメント欄では「今なら広告契約だけで一生食えた」という声から始まり、当時の五輪が資産家と国家に有利な「アマチュア規定」で回っていたという制度の話、五番街のパレードのあとに貨物用エレベーターで自分の祝賀会へ上がったという逸話へと広がっていった。有名な「ヒトラーの握手拒否」については、本人が生涯否定し「無視したのは大統領のほうだ」と語り続けていたことが繰り返し指摘され、話題は次第にドイツからアメリカのほうへ向かっていった。「金メダルは食えない」という本人の言葉が、いちばん静かに効いてくる。
元スレッド: 1936年ベルリン五輪で4つの金メダルを取ったジェシー・オーエンスは、帰国後にガソリンスタンドの店員と遊び場の清掃係として働いていた

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