「紀元47年、ローマ帝国の市民は600万人に満たなかった」——これを帝国の人口だと読むと、話が丸ごと逆になる

「紀元47年、ローマ帝国の市民は600万人に満たなかった」——これを帝国の人口だと読むと、話が丸ごと逆になる 歴史

「紀元47年、ローマ帝国全体の市民の数は600万人に満たなかった」。この一行を見て、ローマ帝国って思ったより小さかったんだな、と受け取った人はちょっと待ってほしい。600万というのは、帝国に住んでいた人の数ではない。市民権という身分を持っていた人の数である。そしてこの二つの数字は、桁がまるごと違う。

※注:ここでいう「市民」は、ローマの法のもとで市民権を持っていた人のこと。帝国の領内に住んでいる人、という意味ではありません。属州の住民の多くは、生まれてから死ぬまで市民ではありませんでした。

今日の知ってた?

🏛️ 紀元47年、クラウディウス帝のもとで行われた国勢調査が記録したローマ市民の数は、600万人にわずかに届かなかった。ただしこれは帝国に住んでいた人の数ではない。同じころ帝国領内で暮らしていた人の総数は、研究者によって見積もりの幅が大きく、およそ4,500万〜7,500万人という数字が並ぶ。市民はそのうちの一割前後を占めるにすぎない。さらに言えば「市民=自由な成人男性」という言い換えも正確ではなく、自由な成人男性の多くは市民ではなかった。

背景:ローマの「市民」は、住民のことではない

ローマ市民権は、帝国の領内に住んでいれば自動的についてくるものではなかった。法的な身分であり、資格である。持っていれば、ローマの法にもとづいて裁かれ、正式な婚姻を結び、遺言を残し、財産を法の保護のもとに置くことができた。持っていなければ、同じ町の隣の家に住んでいても、それらは適用されない。

だから国勢調査が数えていたのは、帝国の人口ではない。この身分を持っている人である。税をどう取り、誰を軍団に入れられるかという、行政上の必要から作られた名簿だった。属州で生まれ、属州で働き、属州で死んでいった大多数の人々は、この名簿に載らない。奴隷も当然載らない。

紀元47年の数字については、タキトゥスの『年代記』が5,984,072人という細かい数を書き残している。クラウディウス帝が監察官として行ったこの調査は紀元47年から48年にかけてのもので、文献によって47年と数えたり48年と数えたりする。アウグストゥスが自ら残した記録によれば、紀元14年の調査で数えられた市民は約490万人。三十数年で百万人ほど増えた計算になる。

問題は、この数字が何を数えた数字なのかが、いまだにはっきりしないことだ。共和政期のやり方をそのまま引き継いで成人男性の市民だけを数えたのか、それとも女性や子どもを含む市民全体を数えたのか。どちらを取るかで、当時のイタリアの人口推定は何倍も動いてしまう。初期帝政期のイタリアの自由人の人口は、女性と子どもを含めて600万人程度だったとする見方が現在は有力とされるが、それよりずっと多く見積もる立場もあって、決着はついていない。数字は一つ伝わっているのに、その一行が指しているものはまだ確定していない、という状態である。

もう少し詳しく

市民権は、いくつもの入り口から手に入った。市民の家に生まれるのが基本ではあるが、それ以外の道も揃っていた。奴隷が主人に解放されれば、その解放奴隷は市民になった。属州の都市がまるごと市民権を与えられることもあったし、市民たちの入植地が属州に作られることもあった。皇帝の裁量で個人に与えられることもあり、金で買うという手段さえあった。「イタリア半島の外に市民はいなかった」というのはよくある誤解で、47年の時点でも属州には相当数の市民が暮らしていた。

軍隊は、そのなかで最も確実な道だった。軍団(レギオー)は市民だけで編成された。一方、補助軍と海軍は非市民の自由民——ペレグリニ(注:市民権を持たない、帝国内の自由な住民)と呼ばれた人々——が担い、規定の年数を務め上げて除隊するときに市民権が与えられた。市民でない者にとって、軍務は身分を一段上げる現実的な手段だったわけである。しかも得た市民権は子に受け継がれるので、一人の除隊が一族の立場を変えることになる。ローマが辺境で兵を集められた理由の一つがここにある。

使徒パウロが「ローマ市民である」と書き留められている理由。新約聖書の使徒言行録には、パウロがローマ市民であることが繰り返し出てくる。鞭で打たれかけたときに市民だと名乗って相手をうろたえさせる場面があり、のちには皇帝への上訴を申し立てる場面もある。属州生まれのユダヤ人でありながら市民権を持っていたことが、わざわざ書き留められている。当たり前のことなら、書かれない。

ギリシャの都市国家は、逆をやっていた。アテナイをはじめとするギリシャの都市国家は、市民権をきわめて出し惜しみした。何世代その都市に住み続けていても、よそから来た家系には与えない。市民権が血統によって定義される、家族関係の延長のようなものだったからだ。ローマではその逆で、市民権は法によって与えたり与えなかったりできる仕組みだった。征服した土地の有力者に市民権を配り、自分たちの権力構造の内側に取り込んでいく——このやり方がローマの拡大を支えた、とはよく指摘されるところである。

そして212年、線が引き直された。カラカラ帝が、帝国内の自由民のほぼ全員にローマ市民権を与えた。アントニヌス勅法と呼ばれるものである。奴隷は含まれない。この一手で、47年の名簿を成り立たせていた線引きそのものが消えた。市民でない自由民が担っていた補助軍は存在理由を失い、軍団へと吸収されていく。動機については、相続税などの税収を増やすためだったという当時の見方が伝わっているが、研究者の評価は今も割れている。ローマ市民という身分に価値があったのは、それを持たない人が大勢いたからでもあった。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
この見出しはちょっと誤解を招く書き方だと思う。自由な成人男性は市民になる資格があったというだけで、実際にはその多くが市民ではなかった。だからこそ軍務が魅力的だったんだよ。務め上げれば、市民として除隊できるから。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
「兵役は市民権を保証する!」が頭の中で再生された。ローマがやっていたことをそのまま未来に置き直したのが『スターシップ・トゥルーパーズ』なんだな、と今さら気づいてしまった。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
あの映画は軍を出た者だけが参政権を持つ社会の話だけど、下敷きの一つは間違いなくローマの補助軍だと思う。除隊証書と引き換えに市民権、という制度が実在したと知ると、あの設定の見え方がだいぶ変わる。

4. 海外の名無しさん
正確には自由な成人男性ですらなく、自由な成人「イタリア人」男性だった。市民権がイタリア半島の外へ広がるのは、3世紀のカラカラ帝の時代まで待たないといけない。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
それは言いすぎ。属州でも市民権を手に入れる道はいくつもあった。軍務、市民の入植地の建設、皇帝が都市ごとにまとめて与えるもの、個人への授与、それに買うという手段まであった。212年のカラカラ帝は線を引き直したのであって、初めて外に出したわけじゃない。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
使徒パウロがいい例だよね。属州生まれのユダヤ人なのにローマ市民で、しかもそれが聖書にわざわざ書かれている。誰もが持っているものだったら、そもそも書く必要がない。

7. 海外の名無しさん
参考までに書いておくと、今のローマの都市圏の人口が450万人弱。帝国全体の市民の数と、現代の都市ひとつの人口が、そんなに変わらないということになる。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
都市ローマが帝国ローマとほぼ同じ人数を抱えている、という字面は確かにすごい。ただし前者は住んでいる人の数で、後者は市民という身分を持っていた人の数だから、並べているものが違うという点だけは押さえておきたい。

9. 海外の名無しさん
この時期の帝国の人口の見積もりは、研究者によってかなり違う。4,500万人という数字も7,500万人という数字も出てくるくらい幅がある。ただ、どれを取っても市民が全体に占める割合は一割前後にしかならない。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
「600万人=帝国の人口」と読んでしまった人がかなりいるけど、実際は「帝国の中で市民という身分を持っていた人の数」なんだよね。女性も、子どもも、属州の住民も、奴隷も、この数字の外側にいる。

11. 海外の名無しさん
そもそも、その600万人弱が何を数えた数字なのかで議論がある。初期帝政期のイタリアの自由人の人口が、女性と子どもを含めて600万人程度、という見方が今は有力で、そうなると「成人男性だけ」という前提のほうが崩れる。見積もりの流派が三つくらいあると思っておいたほうがいい。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
これは大事な指摘だと思う。古代の数字は一つだけ伝わっていても、その一つが何を指しているかが決まっていない。数え方の前提が変われば、イタリアの総人口の推定が何倍も動いてしまうわけで。

13. 海外の名無しさん
正直なところ、2,000年前の統計をどこまで信用していいのかがわからない。属州に散らばった市民をどうやって漏れなく数えたのか、申告しなかった人がどれくらいいたのか。数字が細かいほど正確そうに見えるけど、細かさと正確さは別物だよね。

14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
同意する。ただ、ローマの調査は税と徴兵の土台だったから、当局の側にはきちんと数える動機があった。もちろん数えられる側には隠す動機があったわけで、結局どちらの方向に何割ずれているのかは誰にもわからない。

15. 海外の名無しさん
ギリシャの都市国家は市民権にとても厳しくて、何世代アテナイに住んでいても、よそから来た家系には与えなかった。ローマは逆で、征服した土地の有力者に配って自分たちの仕組みの内側に取り込んだ。この違いが、片方の「帝国」が短命に終わり、片方が数百年続いた理由の一つとしてよく挙げられる。

16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
解放された奴隷がその時点で市民になる、というのがローマの異様なところだと思う。血ではなく法で決まる身分だったから、外から人が入ってこられた。血で決まる社会には、そもそも入り口がない。

17. 海外の名無しさん
アテナイの話で好きなものがある。エジプトから大量の小麦が贈られて市民に配ることになったとき、急に「実は市民ではなかった人」が次々と見つかり始めて、2万人足らずだった名簿から5,000人近くが削られたという記録が残っているらしい。配る側の都合で定義が締まるところは、時代が変わっても変わらない。

18. 海外の名無しさん
現代人はローマを今の感覚の大都市だと思いがちだけど、カエサルの時代の都市ローマの人口は、今でいえば中規模の都市ひとつぶんくらいだったと言われている。この手の換算は毎回おもしろい。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
ただし面積は今の都市よりはるかに狭い。人数が同じでも詰め込まれている密度がまるで違うから、「古代ローマは過密だった」という話のほうは誇張じゃないと思う。

20. 海外の名無しさん
産業革命より前の世界は、とにかく人がいなかった。今の人口の感覚のまま地図を塗ると、だいたいどこかで間違える。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
とはいえ帝国の人口が4,500万から7,500万というのは、当時の地球全体の人口のかなりの割合にあたる。当時の世界人口の4分の1近くがあの帝国の内側にいた、という見積もりまである。人のいない世界の中で、あそこだけ異様に人が集まっていた。

22. 海外の名無しさん
補足しておくと、当時の基準では600万人弱の市民というのは、むしろとんでもなく多い。ローマが市民権を配り続けたからこそ届いた数字であって、ギリシャの都市国家のやり方では絶対に到達しない規模だよ。

23. 海外の名無しさん
212年にカラカラ帝が自由民のほぼ全員に市民権を与えたあと、補助軍と軍団の区別が意味を失って統合されていった、というのが個人的にいちばん腑に落ちる変化。制度の中身そのものが、身分の線引きに支えられていたことがよくわかる。

24. 海外の名無しさん
市民権に価値があったのは、持っていない人が大勢いたからでもある。全員に配った瞬間、その価値は薄まる。212年以降のローマで「市民」という言葉が持っていた重みは、47年のそれとはたぶん別物だった。

まとめ

紀元47年の名簿に載ったローマ市民は600万人弱。一方、帝国に暮らしていた人の数は、見積もりの幅こそ大きいものの、その十倍前後にあたる。コメント欄でまず起きたのは「帝国の人口が600万人だと思った」という誤読の訂正で、そこから「そもそも自由な成人男性が全員市民だったわけではない」という二段目の訂正が続いた。面白かったのは、話が数字の意味そのものへ降りていったこと。何を数えた数字なのかが決着していない以上、この一行は事実の提示であると同時に、まだ開いたままの問いでもある。最後は、ギリシャが出し惜しみしたものをローマは配り続けた、という話に落ち着き、212年についに配りきってしまった結果まで含めて、市民権とは何だったのかという方向へ流れていった。

元ソース: 紀元47年、ローマ帝国全体の市民(自由な成人男性)の数は600万人に満たなかった

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