「古い本の匂いが好きだ」という人は多い。図書館の書架のあいだや、古本屋の奥のほうで、思わず深呼吸してしまう、あの匂いだ。ところがあれは、本が「古くなった証拠」として身にまとった匂いではない。紙がいままさに壊れていく、その途中で出ている匂いである。しかも壊れながら、バニラとアーモンドとカラメルの香りを放っている。
※注:この記事では、常温で空気中に飛び出しやすい小さな分子のことを「揮発性の物質」と呼ぶ。匂いとして鼻に届くのは、この種の物質である。
今日の知ってた?
📚 古い本の甘い匂いは、紙そのものが少しずつ分解して、揮発性の物質を放出しているために生まれる。木材から作られた紙に含まれるリグニンが壊れるとバニリン——バニラの香りの主役をつとめる、あの分子そのもの——が出る。紙の分解ではベンズアルデヒド(アーモンドを思わせる香り)やフルフラール(焦げたパンやカラメルに近い香り)も生じる。実際にはこれ以外にも数十種類の物質が混ざり合っていて、その総体が「図書館の匂い」として認識されている。つまり本は、朽ちながら甘く香っている。
※ リグニン:木を木たらしめている成分。植物の繊維どうしをつなぎ止める接着剤のような役割を持ち、木材のおよそ2〜3割を占める。香料のバニラを実らせるつる植物(ラン科)とは何の関係もないが、壊れるとバニラと同じ香りの分子ができる。
※ セルロース:紙の主成分になっている繊維。植物の細胞壁を作っている糖の鎖で、これが切れていくことが紙の劣化そのものにあたる。
背景:紙は、置いてあるだけで壊れていく
紙は永遠に持つものではない。本棚に立てて、誰も触らず、日にも当てず、ただ置いておくだけでも、紙は年単位で確実に変質していく。理由は大きく二つある。ひとつは加水分解で、紙に含まれる酸が後押しする形で、セルロースの長い鎖が水と反応して短く切れていく。もうひとつは酸化で、空気中の酸素と光が、セルロースやリグニンをじわじわと別のものに変えていく。黄ばみ、手触りのごわつき、めくったときに角がぽろりと欠ける感じ——あれは全部、この二つの結果である。
問題を大きくしたのは、19世紀の製紙革命だった。それ以前の紙は、麻や綿のぼろ布をほぐして漉いたものが主流で、原料の性質上リグニンがほとんど含まれていなかった。ところが読み書きのできる人が急速に増え、本の需要が跳ね上がると、ぼろ布ではとても供給が追いつかなくなる。そこで19世紀の半ばから、木を砕いて作る木材パルプの紙が一気に広まった。本は劇的に安くなり、そして劇的に短命になった。
木材パルプの紙には、二つの弱点がある。ひとつはリグニンが残っていること。リグニンは光と酸素で変質しやすく、新聞紙を窓辺に数日置いておくだけで黄ばんでくるのは、主にこのためだ。もうひとつは、当時のにじみ止め加工にある。インクが繊維に染み込んで広がらないよう、ミョウバンとロジン(松脂由来の樹脂)を使う方法が普及したのだが、この組み合わせは紙の内部でじわじわと酸を生む。紙が自分の中に、自分を壊す材料を抱え込んでしまった。これがいわゆる「酸性紙」の問題であり、19世紀後半から20世紀半ばの本が、それより300年前の本よりも先に崩れていく理由でもある。
そして、壊れた先に匂いがある。大きな分子が切れて小さな分子になると、そのうちのいくつかは軽すぎて紙にとどまれず、空気中に出ていく。鼻が拾っているのはそれだ。あの匂いは、紙の劣化の副産物である。言い方を変えれば、本は自分の傷み具合を、匂いという形で外に報告し続けている。
三つの分子は、どこから来るのか
バニリンは、リグニンの分解から生まれる。これがいちばんきれいに筋の通る話で、リグニンという分子の骨格の中には、バニリンとよく似た形の部品がもともと組み込まれている。だからリグニンが壊れる過程で、その部品が切り出されてバニリンになる。バニラの莢から採れる香気成分と、化学的にはまったく同じ物質だ。本の甘い香りは「バニラっぽい何か」ではなく、文字どおりバニラの香りである。
フルフラールは、糖の分解から生まれる。紙の繊維であるセルロースや、それに寄り添っているヘミセルロースは、糖がつながってできている。その糖が酸の働きで分解すると、フルフラールという物質になる。香りとしては焦がした砂糖や、こんがり焼けたパンの耳に近い。紙の劣化の進み具合を示す目安としても使われる物質で、酸性が強く傷んだ紙ほど多く出てくる傾向がある。
ベンズアルデヒドは、アーモンドの香りの分子である。アーモンドエッセンスや杏仁豆腐の、あの独特の甘苦い香りの正体がこれだ。古い紙から検出される揮発性の物質のリストには必ず名前が挙がるが、紙の中の何がどう壊れてこれになるのかは、リグニンやフルフラールほど一本道では説明されていない。紙の劣化はひとつの反応ではなく、無数の反応が同時に進む混沌とした過程であるということでもある。
ただし、この三つだけで匂いができているわけではない。古い紙からは、実際には数十種類の揮発性の物質が同時に出ている。酢のような刺激のあるもの、油っぽいもの、およそ甘くないものも混ざっている。バニリンだけを嗅げばそれはバニラの匂いだし、フルフラールだけならカラメルの匂いだが、実際の本の匂いはそのどれとも違う。「古い本の匂い」という独立した匂いは、混ざり合いの結果としてはじめて立ち上がっている。
面白いのは、この匂いが保存修復の現場で道具として使われていることだ。紙から出てくる揮発性の物質の顔ぶれと量を分析すると、その紙がどこまで傷んでいるかが分かる。しかも、資料を切り取ったり削ったりする必要がない。貴重書を傷つけずに健康診断ができるということで、「匂いを嗅いで状態を測る」手法が実際に研究されてきた。保存に携わる人たちが経験で「この本は危ない」と嗅ぎ分けてきたことに、測定の裏づけがついた形である。
もう少し詳しく:新品の匂い、カビの匂い、そして「古すぎる本」
まず、新品の本の匂いはまったくの別物である。本屋で買ったばかりの本を開いたときの、あのシャープな匂い。あれは紙の分解とは何の関係もない。製本に使う接着剤、印刷インクに含まれる溶剤、それに紙を白くしたり表面を整えたりする加工の薬品——主にこの三つが出している匂いだ。古い本の匂いが「壊れていく匂い」だとすれば、新しい本の匂いは「作られたばかりの匂い」だ。同じ「本の匂い」という言葉でくくられているが、出どころは正反対である。
次に、カビの匂いは絶対に混同してはいけない。図書館や古本屋で感じる匂いには、実はもうひとつ別の系統がある。あの土臭い、押し入れの奥のような匂いだ。あれは紙が分解して出す匂いではなく、カビや細菌が出している匂いである。そしてこちらは、本にカビが生えているという明確なサインになる。紙の分解の匂いは本の内側から静かに出てくるものだが、カビ臭は保管環境が悪いという警告だ。湿気の管理や換気、状態によっては専門的な処置が必要になる。「甘い」と「かび臭い」を同じ「古い本の匂い」として一括りにしないほうがいい。
健康への影響については、断定できることが少ない。紙から出てくる物質の中には、工業的な規模で扱うなら注意を要するものも含まれる。ただし本棚の前で嗅いでいる量はきわめて微量で、それを「体に悪い」とも「体にいい」とも、この話から言い切ることはできない。はっきりしているのは、注意すべきなのはむしろカビのほうだということである。カビの胞子はアレルギーの原因になりうるので、かび臭い本をまとめて片づけるようなときは、換気に気を配ったほうがいい。
そして、「古い本」の範囲は思ったよりずっと狭い。元スレのコメント欄で説得力を持って支持されていたのが、この指摘だった——300年前や500年前の本は、あの匂いがしない。理由は上で見たとおりで、当時の紙はぼろ布から作られていてリグニンをほとんど含まず、酸を生む加工もされていない。つまり甘く香るのは、木材パルプと酸性紙の時代に大量生産された本、おおむね19世紀後半から20世紀にかけて刷られた本に限られる。皮肉なことに、あの匂いは「安く作られた本の匂い」でもある。数百年前の丁寧に作られた書物のほうが、状態がよく、そして香らない。
日本の紙は、この物語に別の角度から関わってくる。和紙の原料は木材パルプではなく、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)といった植物の、樹皮の内側にある繊維である。長くて丈夫な繊維を、灰汁で煮てリグニンなどを取り除いてから漉くため、木材パルプの紙とは劣化の道筋そのものが違う。奈良時代の文書が今日まで読める状態で伝わっているのは、保管に恵まれたことに加えて、この性質によるところが大きい。一方で、日本の近代の出版物は酸性紙の問題を世界と同じように抱えてきた。図書館の現場では、劣化した資料の中和処理や複製の作成が長く課題であり続けている。神保町の古本屋に漂うあの匂いは、和紙千年の話とは別系統の、ごく近代的な現象なのである。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
図書館や古本屋のあの匂い、ずっと「時間が経った匂い」なんだと漠然と思っていた。まさか紙が壊れている最中の匂いだったとは。いちばん落ち着く匂いの正体が崩壊だったと知って、なんとも言えない気持ちになっている。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
見方を変えると、あれは本が自分の寿命を削りながら出している香りということになる。そう思うと書架のあいだで深呼吸するときの気分がだいぶ変わる。知る前には戻れない類の知識だ。
3. 海外の名無しさん
化学の側から補足しておくと、バニリンはリグニンが分解してできる。リグニンは木の繊維をつなぎ止めている成分で、木から作った紙にはこれが残っている。だから木材パルプの紙は、時間が経つと甘く香るようになる。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
それ、樽で寝かせたウイスキーとまったく同じ理屈だよ。オーク樽の内側を焼くとリグニンが壊れてバニリンが出る。だから熟成した酒からバニラの香りがする。本と酒が同じ分子でつながっているの、地味に感動する話だと思う。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
つまり書斎にウイスキーを常備するのは香りの一貫性という観点から正しい、ということでいいですか。長年の習慣にようやく理論的な裏づけが得られた。今夜さっそく実践する。
6. 海外の名無しさん
純粋な疑問なんだけど、この三つを混ぜれば「古本の匂い」の香水って作れるの? もし誰かが作ってくれたら普通に買うし、たぶん買う人はかなりいると思う。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
香りを作る仕事をしているけれど、それは思っているよりずっと難しい。ベンズアルデヒドは数分で飛んでしまうし、フルフラールは香料としての使用量に厳しい上限がある。残るのはバニリンだけで、それはもう普通にバニラの匂いだ。古本の匂いにはならない。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
図書館をテーマにした香水なら大手のブランドが出していたはず。たしか今は廃番になっている。嗅いだ人の感想が「本というより上等な木材と紙と、ちょっとした埃の匂い」で割れていたのを覚えている。近いところまでは行けるらしい。
9. 海外の名無しさん
ちょっと待ってほしい。みんなが言っている「図書館の匂い」って、単にカビの匂いなんじゃないの? うちの近所の図書館の地下書庫は、どう考えてもそっちだと思うんだけど。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
それは別物で、しかも区別する意味がある。かび臭さはカビや細菌が出している匂いで、紙の分解とは経路がまったく違う。そして本にカビが生えているというサインだから、そっちは湿気の対策なり何なりの手当てが要る。甘い匂いと一緒くたにしないほうがいい。
11. 海外の名無しさん
「古い」の基準が曖昧すぎると思う。この手の研究が対象にしているのは、だいたい1800年代以降に印刷された本だ。うちには300年から500年前の本が何冊かあるけど、あの匂いはまったくしない。むしろ無臭に近い。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
紙の作り方が違うからだね。昔の紙は麻や綿のぼろ布をほぐして漉いたもので、リグニンがほとんど入っていない。木を砕いて紙にする方法が広まったのは19世紀の半ばで、そこを境に本の値段と寿命が同時に落ちた。あなたの書棚にあるのは、そうなる前の世代の紙だ。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
図書館で働いているけれど、これは業界ではかなり深刻な問題になっている。19世紀後半から20世紀前半に刷られた本が、開いただけで角がぼろぼろ欠ける。中和の処置をする専用の設備を持っている施設もあるくらいだ。安く大量に刷られた本ほど先に寿命が来る。
14. 海外の名無しさん
記事に挙がっている三つは感じのいいやつだけど、紙の分解で出てくる物質はもっとたくさんある。中にはあまり嬉しくない種類のものも混ざっているはずだよ。全部が甘い香りというわけじゃない。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
(読みかけのページを口いっぱいに頬張ったまま顔を上げて)……ごめん、いま何て言った? もう一度言ってもらえる?
16. 海外の名無しさん
正直に言うと、自分はあの匂いが苦手だ。古本屋に入ると十分ほどで頭が重くなる。みんなが「落ち着く」と言っているのを見るたびに、自分の鼻がおかしいのかと思っていた。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
匂いの好き嫌いは記憶と結びつくから、同じ分子でも受け取り方は人によって変わる。あと単純に、本当にカビが回っている店というのも存在する。その場合はあなたの鼻のほうが正しいので、無理に好きにならなくていい。
18. 海外の名無しさん
電子書籍に完全移行したので、この話題にまったく参加できない。ただ、あの匂いだけは惜しいと思っている。読書体験の何割かは、あの匂いが担っていた気がするんだよな。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
昔「本の匂いスプレー」みたいなジョーク商品が話題になった記憶がある。電子書籍リーダーに吹きかけて使うやつ。冗談で作られたはずなのに、真顔で欲しがっている人がそこそこいたのが忘れられない。
20. 海外の名無しさん
バニラの話で思い出したけど、昔はビーバーからバニラの香料を採っていたって本当? 木を食べているから体の中で濃縮される、とかそういう理屈なんだろうか。急に気になってきた。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
よく「糞から採っていた」と言われるけれど、それは違う。尻の近くにある分泌腺から出る分泌物のほうで、甘い革のような香りがする。バニラに似た香料として使われていたのは事実だけれど、今はほぼ使われていない。わざわざ罠を仕掛けなくても、バニラを育てるほうがはるかに安いからだ。木を食べる習性と結びつけて説明されることも多いけれど、そこは話半分に聞いておいたほうがいいと思う。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
さらに一周する話をすると、今出回っているバニリンの大半は工業的に合成されたもので、その一部は製紙の工程で出るリグニンを原料にしている。古い本が甘く香る原因と、アイスクリームの香りづけが、同じ木の成分から来ているわけだ。
23. 海外の名無しさん
新品の本の匂いも好きなんだけど、あれは全然別の話らしいね。接着剤とインクの溶剤と、紙を仕上げるときの薬品の匂い。紙が壊れて出る匂いとは出どころが正反対で、同じ「本の匂い」でくくられているのが少し不思議になってきた。
24. 海外の名無しさん
日本の古本屋の匂いも同じ理屈なんだろうか。旅行で東京の神保町に行ったとき、古本屋が何十軒も並ぶ通りで、店ごとに匂いが微妙に違うのが面白かった。紙のほかに、木の棚と、埃と、冬場の暖房の匂いが混ざっているような感じだった。
25. 海外の名無しさん(>>24への返信)
日本の伝統的な紙は、木材パルプではなく楮などの樹皮の繊維から作られていて、奈良時代の文書が今も読める状態で残っている。同じ「紙」でも壊れ方がまったく違うわけだ。本の匂いというのは、その本がどう作られ、どう壊れていくかの記録でもあるんだな。
まとめ
古い本の甘い匂いは、紙が少しずつ分解して揮発性の物質を放出しているために生まれる。リグニンが壊れればバニラと同じ分子であるバニリンが出て、糖が壊れればカラメルを思わせるフルフラールが出る。ベンズアルデヒドのアーモンド様の香りも加わり、そのほか数十種類が混ざり合って「図書館の匂い」になる。コメント欄では、樽熟成のウイスキーが同じ理屈で香ることに驚く人、香水として再現したがる人、そして「あれはカビの匂いでは」と冷静に水を差す人が入り混じった。ちなみに甘い匂いとかび臭さは別物で、後者は本にカビが生えているサインなので、そちらは手当てが必要になる。もうひとつ、あの匂いが香るのは主に19世紀後半以降の安く作られた本で、数百年前の丁寧に漉かれた紙の本は、状態がよく、そして香らない。愛されているのは、いちばん壊れやすく作られた世代の本の匂いだった。
元ソース: 古い本の匂いは、紙そのものが分解してバニリン(バニラと同じ分子)、ベンズアルデヒド(アーモンド様)、フルフラール(焦げたパン・カラメル様)を放出しているために生まれる

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