1783年、ひとりの数学者が亡くなった。ところがその後およそ50年にわたって、その人の「新作」が世に出続けた。生前に書き上げたまま出版が追いつかなかった原稿が山のように残されていて、所属先だったサンクトペテルブルクの科学アカデミーは、それを刷り終えるのに半世紀近くを費やすことになる。名前はレオンハルト・オイラー。数学の授業で一度は見かける、あの「オイラー」である。
※注:レオンハルト・オイラー(1707〜1783)はスイスのバーゼル生まれの数学者・物理学者。人生の大半をロシアのサンクトペテルブルクとドイツのベルリンで過ごし、両国の科学アカデミーに籍を置いた。日本の教科書でも「オイラーの公式」「オイラーの等式」「自然対数の底 e(オイラー数)」といった形で、名前だけは必ずどこかで出てくる人物である。
今日の知ってた?
📚 レオンハルト・オイラーは生涯におよそ800点の論文・著作を残したとされ、1783年に亡くなったあとも、未発表のまま積み上がっていた原稿の山を刷り終えるのに、サンクトペテルブルクの科学アカデミーは50年近くを要した。つまり彼は死後半世紀にわたって「新作」を発表し続けていたことになる。
背景:たぶん、どこかで名前だけは見ている
オイラーという名前に、なんとなく見覚えがある人は多いと思う。心当たりを並べてみると、まず「オイラーの等式」がある。e の iπ 乗に 1 を足すとちょうど 0 になる、という例のあれで、数学の世界でいちばん美しい式はどれか、という話題になると必ず出てくる。次に、指数関数や対数で必ず登場する定数 e。日本語では自然対数の底と呼ばれるが、記号の e はオイラーに由来するとされ、英語圏ではそのまま「オイラー数」と呼ぶことも多い。
さらに、多面体の頂点の数から辺の数を引いて面の数を足すと必ず 2 になる、という「オイラーの多面体定理」。街の橋を一筆書きで全部渡れるかどうかを考えた「ケーニヒスベルクの橋」の問題も彼の仕事で、これがグラフ理論という分野そのものの出発点になった。理系に進んだ人なら、微分方程式をコンピュータで解くときの最も素朴な方法が「オイラー法」と呼ばれていることも知っているはずだ。
要するに、分野をまたいで名前が出てくる。数学の中だけでも解析・数論・幾何・組み合わせに散らばっていて、そこに物理と天文学が加わる。元スレッドで「どの分野を深掘りしても必ずこの名前に当たる」と書いている人がいたが、それはオイラーが器用貧乏だったからではなく、当時まだ誰も踏み固めていなかった土地が広く残っていて、彼がそのかなりの部分を一人で歩いてしまったからである。
もう少し詳しく
まず、亡くなったあとに何が起きたのか。オイラーは1783年、サンクトペテルブルクで76歳のときに急死している。脳出血だったと伝えられていて、前日まで普通に計算をしていたという逸話が残っているくらい、突然の最期だった。問題は、そのとき机の周りにあったものである。完成しているのに、まだ印刷されていない原稿。学術誌に載せる順番を待っている論文。アカデミーはそれを順に世に出していったのだが、量が量なので処理しきれず、結果として「オイラーの新しい論文」が学会に届き続ける期間が、彼の死後およそ50年も続くことになった。当時の数学者からすれば、亡くなったはずの人の名前が毎年のように目次に並ぶわけである。同時代の生きている数学者より、死んだオイラーのほうが年間の発表数で上回っていた時期があった、という言い方すらされている。
次に、いちばん有名な逸話。晩年の彼はほとんど目が見えていない。片方の目は若いころに視力を失い、1760年代のうちには両目とも見えなくなっていたとされる(時期については書物によって幅がある)。普通に考えれば、そこで生産量は落ちる。ところが実際には逆で、失明後の十数年こそ、彼がいちばん論文を量産した時期だった。頭の中で計算を組み立て、それを口述して、周囲の人間が書き取る。息子や助手、アカデミーの若手が筆記役を務めたと伝えられる。目が見えないぶん、紙に書いて確かめるという工程が省かれ、かえって思考の速度に手が追いつくようになった――そんな説明のされ方をすることもあるが、これは後世の解釈で、本当のところは分からない。確かなのは、見えなくなってから死ぬまでの間も、彼の発表ペースが落ちなかったという事実のほうである。
1771年には家が火事で焼けている。すでに老齢で、しかも目が見えない。逃げ遅れかけたところを、身の回りの世話をしていたペーター・グリムという人物が燃える家に飛び込んで助け出した、という話が残っている。元スレッドでは「グリムのほうにこそ賞をやるべきだった」という大学教授のジョークが紹介されていて、実際その通りだと思う。もしこの1771年で終わっていたら、その後に書かれたものは全部この世に存在しなかったことになる。そして先ほどの話の通り、彼の生産量がいちばん多かったのはまさにその後の時期である。
もうひとつ、彼の多作ぶりを物語る妙な副作用がある。数学の定理や概念には、実は「オイラーの次にそれを本格的に扱った人」の名前が付いているものが少なくない、という話だ。理由は単純で、全部にオイラーの名を付けたら区別がつかなくなるからである。元スレッドには「オイラーの定数にオイラーの定理を適用して、オイラーの原理に従ってオイラー数を掛ける」という、読んでいるだけで頭が痛くなる例文が投稿されていた。これは冗談としてよく言われる話で、命名の経緯を一つひとつ確かめたわけではないのだが、そういう冗談が成立してしまう程度には、この人の取りこぼしが少なかったということでもある。
そして、話には続きがある。死後50年の刊行ラッシュで全部が片付いたわけではない。彼の著作をすべて集めて出し直す「オイラー全集」の編纂は1911年に始まり、100年以上経った今もまだ完結していないと紹介されていた。巻数は80を超え、総ページ数はおよそ3万5000ページ規模になるという(数え方によって数字には幅がある)。つまり彼は、死後50年どころか、200年以上たった今もなお「刊行中の書き手」である。生前に書き切ったものを、後世が読み終えられていない。多作という言葉の意味を、これほど雑に押し広げた人もそういない。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
急死だったというのがまた効いてる。「そろそろ引退するから残りを整理しておこう」という時間が一切なかったわけで、机の上の状態がそのまま遺産になった。片付いていない机が半世紀ぶんの出版計画になるって、なかなかない事態だと思う。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
当時の記録の読み方によっては、死後しばらくの間、亡くなったオイラーのほうが生きている同時代の数学者より年間の発表数で上回っていた時期があるらしい。故人に出版数で負けるって、同業者としてどういう気分なんだろう。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
みんな書く側の話ばかりしてるけど、読まされる側と刷る側の身にもなってほしい。アカデミーの印刷担当が毎年「まだあります」と言われ続ける50年だぞ。就職して定年まで、ひとりの故人の原稿を刷って終わった人がいるはずなんだよな。
4. 海外の名無しさん
数学をやってると、そこそこの頻度で「これ、オイラーの次にやった人の名前が付いてるやつだ」という場面に出くわす。全部にオイラーと付けたら誰も見分けられなくなるからで、二番手として名前を残した人たちが実質的に恩恵を受けている構図になってる。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
実際に全部そのまま名付けていたら、「オイラーの定理をオイラーの定数に適用し、オイラーの原理に従ってオイラー数をオイラー数で掛ける」みたいな文章を毎日読む羽目になっていた。区別を放棄した先人の判断は正しかったと思う。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
ちなみにこのスレッドで「二番目の人の名前が付いてる」というコメントを見るのは、数えたかぎりこれで四回目です。オイラーの多作さの話をしているスレッドで、同じ豆知識が多作されているの、ちょっと構造として美しい。
7. 海外の名無しさん
いちばん驚くのはそこじゃなくて、目が見えなくなってからのほうが発表数が増えていることだと思う。普通は逆だろう。視力を失って、そこから亡くなるまでの十数年が生涯で最も生産的な時期だったって、事実として書かれると受け入れにくい。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
見えないぶん、頭の中に像を作る力が引き上げられたんじゃないかとよく言われる。紙に書いて確認するという工程が消えて、そのまま思考の速度で進めるようになったという説明の仕方をする人もいる。真偽は別として、話としては納得したくなる。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
その手の美談にする前に、口述を書き取っていた人たちの話も少しはしてほしい。数式まみれの原稿を、本人のしゃべる速度で正確に受け止め続けたわけで、記号を一つ聞き間違えたら全部が壊れる。あれは筆記というより共同作業の域だと思う。
10. 海外の名無しさん
1771年に家が火事で焼けている。老いていて目も見えない状態で、身の回りを世話していたペーター・グリムという人が燃えている家に飛び込んで助け出した。大学の教授が「グリムにこそ賞をやるべきだった」と言っていて、あれは冗談じゃなくて本気だったと今なら分かる。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
しかも助かった後のほうが書いた量は多い。つまりグリムは、その場で一人の命を救っただけじゃなく、これから書かれる予定の膨大な原稿ごと運び出したことになる。人類の資産という意味では、あの数十秒がとんでもない働きをしている。
12. 海外の名無しさん
念のため書いておくけど、Euler は「ユーラー」じゃなくて「オイラー」だからな。英語話者はかなりの確率で読み間違えるし、自分も大学に入るまでずっと間違えて覚えていた。授業で教授が発音したときに、聞いたことのある名前と結び付かなくて一瞬固まった。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
こちらだと「オイラーズ」は先にスポーツチームの名前として頭に入っている人が多いから、数学の授業で急に出てくると変な引っかかり方をする。石油由来のチーム名と18世紀の数学者が同じ音というのは、たぶん世界のどこでも起きている誤解じゃないと思う。
14. 海外の名無しさん
学校で名前だけは見た、という人が多いと思うけど、思い当たるところを並べると笑えてくる。指数関数の e、多面体の頂点から辺を引いて面を足すと 2 になるやつ、橋を一筆書きで渡れるかという問題。全部別々の授業で出てきたのに、全部同じ人だった。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
自分は「最も美しい数式」として紹介される例のあれを、いまだに一度も理解しないまま暗記だけしている。指数と円周率と虚数と 1 と 0 が一行に収まって答えがゼロになるのは分かる。分かるが、なぜそうなるのかは20年たっても分かっていない。
16. 海外の名無しさん
多作という一点だけで張り合えそうな人を挙げるなら、20世紀のポール・エルデシュだと思う。家を持たずに共同研究者の家を渡り歩いて、泊めてもらっては論文を書いて次の町へ行く、という生き方をした人。ただ影響の広さで比べると、やはりオイラーが上に来る気がする。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
逆の極にいるのがガウスで、あの人は完璧に仕上がるまで絶対に外に出さなかった。死後に遺稿を整理したら「それ、もう分かってたのか」という内容が次々出てきたという話がある。片方は出しすぎ、片方は出さなすぎ。両極端が同じ世紀の近くに並んでいるのが面白い。
18. 海外の名無しさん
亡くなったあとも新作が出続けるという構図、完全に音楽界のそれなんだよな。未発表音源が倉庫から出てきて何年もリリースが続くやつ。18世紀の科学アカデミーが同じことをやっていたと思うと、人間のやることは分野が違っても大して変わらない。
19. 海外の名無しさん
個人的に好きなのは、この人が普通にいい人だったらしいという話。若い数学者と大量に手紙をやりとりして、励ましたり、相手の論文を良くする助言をしたりしていた。研究が自分の仕事と重なったときも、優先権を主張して奪い合うより、相手の功績として認める側に回ることが多かったと言われている。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
サンクトペテルブルクにいた時期に、必要もないのにロシア語を覚えたという話もある。学生や周囲の人と話すのに、そのほうが礼儀だからという理由で。当時のアカデミーはラテン語やフランス語で回っていたはずだから、完全に本人の気遣いだけでやったことになる。
21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
同じ時代の巨人と比べると性格の差が際立つ。ニュートンは晩年、錬金術や神学の解読に膨大な時間を注いで、同業者とは優先権をめぐって派手にやり合った人だった。オイラーは死ぬ直前まで淡々と計算を続けていた。どちらが偉いかは別として、隣で仕事をするなら後者がいい。
22. 海外の名無しさん
死後50年の刊行ラッシュは、実は前座みたいなものらしい。全集を出そうという計画が1911年に始まって、100年以上たった今もまだ終わっていない。巻数は80を超えて、ページ数は3万5000ページ規模になるとか。半世紀どころか、いまだに現役で刊行され続けている書き手ということになる。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
そんなに時間がかかる理由が気になる。それと、仮に全部が当時すぐ世に出ていたら数学の進み方は変わっていたのか、それとも「やっぱり先を行っていたね」と後から確認するだけの話になるのか。専門の人がいたら聞いてみたい。
24. 海外の名無しさん
微分方程式をコンピュータで数値的に解くときの、いちばん素朴な手順に彼の名前が付いている。実務ではもっと精度の高い方法を使うにしても、考え方の骨組みはそこから伸びている。宇宙機の軌道計算みたいな話題が出るたびに、結局この名前に戻ってくることになる。
まとめ
1783年に急死したオイラーは、完成済みで未発表のままの原稿を山ほど遺し、サンクトペテルブルクの科学アカデミーはそれを刷り終えるのに50年近くを費やした。しかも全集の編纂は1911年に始まって今なお完結していないという。コメント欄は「故人に出版数で負ける同時代人の気持ち」から始まり、目が見えなくなってから生産量が増えたという逸話、火事から彼を助け出した召使いの話、そして「読み方はオイラーであってユーラーではない」という定番の指摘まで広がって、最後は口述を書き取り続けた無名の人たちを讃える流れになっていた。
元ソース: レオンハルト・オイラーはあまりに多作だったため、1783年の死後、サンクトペテルブルク科学アカデミーには未発表論文が膨大に積み上がっており、そのすべてを印刷し終えるのに50年近くかかった

コメント
おいらはオイラー
数学者のオイラー
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