「令状を見せろ」と迫る市長に、彼は背後の兵士を指して「これが私の権限だ」と答えた…1906年、軍服を着た靴職人の話

「令状を見せろ」と迫る市長に、彼は背後の兵士を指して「これが私の権限だ」と答えた…1906年、軍服を着た靴職人の話 歴史

1906年10月16日、ベルリン近郊のケーペニック。中古の軍服を着た男が路上で兵士を集め、市庁舎に乗り込み、市長を逮捕し、金庫の現金を押収して立ち去った。彼は大尉ではない。前科を重ねた無職の靴職人だった。そして最後まで、その場の誰一人として彼を疑わなかった。

※注:ケーペニックは当時ベルリンの隣にあった独立した市で、1920年に大ベルリン市へ編入された。現在はベルリン市の一地区にあたる。

今日の知ってた?

🎖️ 1906年10月16日、57歳の無職の靴職人フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で少しずつ買い集めた中古の陸軍大尉の軍服を身につけ、ベルリンの路上にいた本物の兵士約10人を「陛下の命令である」と告げて指揮下に置いた。一行はそのまま列車でケーペニック市庁舎へ向かい、フォークトは市長ゲオルク・ランゲルハンスを逮捕、金庫にあった現金4,002マルク37ペニヒを押収し、かつて自分が服役した刑務所の所長の名前でサインした受取証を残して姿を消した。その場にいた誰も、彼が大尉でないことに気づかなかった。彼が逮捕されたのは10日後である。

背景:制服が身分証明書だった国

この事件の可笑しみは、当時のドイツ帝国で軍服がどういう扱いを受けていたかを知らないと、半分も伝わらない。1871年に成立したドイツ帝国は、プロイセンという「軍隊を持つ国家」ではなく「国家を持つ軍隊」と揶揄された国を核にしてできている。軍は行政や議会と横並びの一組織ではなく、社会全体の一段上に置かれていた。皇帝ヴィルヘルム2世自身、公の場ではほぼ常に軍服姿である。

この序列は市民生活の隅々にまで染み込んでいた。中流階級の男性にとって予備役将校の資格を得ることは、出世にも縁談にも効く一種の身分証明であり、大学を出るのと同じくらい重要だとされた。軍服を着た人間の言うことには、まず従う。道を譲る。口答えしない。役所の書類より、肩章のほうが強い。そういう空気が、法律ではなく常識として存在した。

兵士の側はさらに徹底していた。上官の命令には即座に、理由を問わずに従うよう訓練される。当時のドイツ語には、そうした服従ぶりを指す「屍のような服従」という言い回しがあったほどである。重要なのは、そこに身分を確認するという手続きがそもそも用意されていなかったことだ。将校が身分証を提示して命令する制度はなく、制服と口調と態度がそのまま権限の証明になっていた。制度に穴が空いていたというより、確認しないことが制度そのものだったのである。

だからフォークトの事件は、単なる愉快な詐欺ではなく、国家の急所を素手で押したような出来事になった。イギリスの新聞はこれを「ドイツ軍国主義の滑稽さの証拠」として大々的に書き立てた。一方ドイツ国内では、非難よりも「よくやった」という受け止め方のほうが圧倒的に多かったと記録されている。

もう少し詳しく

軍服は一着では買っていない。フォークトはポツダムとベルリンの古着屋を回り、上着、ズボン、帽子といった部品を別々の店で少しずつ買い集めている。一軒でまとめて買えば怪しまれるからだ。彼は職業軍人ではない。若い頃から窃盗や文書偽造で刑務所を出たり入ったりし、人生の半分近くを塀の中で過ごしてきた靴職人である。軍隊の作法は、自分で見て覚えたものだった。

兵士は路上で調達した。当日、彼はまず水泳場から兵舎へ戻る途中の擲弾兵4人と軍曹に声をかけ、「陛下の命令だ」と告げて指揮下に置いた。軍曹は用済みとして帰らせ、その後さらに射撃場で6人を加えている。兵士たちにとって、目の前の大尉が本物かどうかを確かめる手続きは存在しなかった。フォークトは全員分の列車賃を自分の財布から払い、道中で食事とビール代まで出している。合流したばかりの部下に気前よく振る舞う大尉ほど、疑われにくいものはない。

市庁舎はあっさり落ちた。ケーペニック市庁舎に着くと、兵士に出入口を固めさせ、居合わせた警官には「1時間、外部への電話をつながせるな、市中の秩序を保て」と命じている。市長ゲオルク・ランゲルハンスが根拠となる令状の提示を求めると、フォークトは背後の兵士たちを指して「これが私の権限だ」と答えたと伝えられる。それで話は終わった。市庁舎の職員も警官も、誰も二の矢を継がなかった。

持ち去ったのは4,002マルク37ペニヒ。「市の金庫を丸ごと」と言うと大金の響きだが、実際にそこに置かれていた現金はこの額だった。当時としては小さくない金額ではあるものの、彼が当て込んでいた「役所には多額の現金が眠っている」という噂とは、桁がまるで違っていたとみられている。彼は金を受け取ると、律儀に受取証を書いて置いていった。しかもそのサインに使ったのは、かつて自分が服役した刑務所の所長の名前である。そのうえで市長と会計係を馬車でベルリンへ「護送」させ、残った兵士には「30分そのまま待機」と命じ、その隙に私服へ着替えて消えた。

結末。逮捕は10日後の10月26日。かつての服役仲間が懸賞金目当てに通報したと伝えられている。12月1日、文書偽造、官職の詐称、不法な逮捕監禁などの罪で懲役4年の判決を受けた。ところが1908年8月、皇帝ヴィルヘルム2世が恩赦を出し、彼は刑期の途中で釈放される。「陛下はお笑いになった」という言葉が残っている。

出所後、彼は有名人になった。自伝を出版し、蝋人形館には彼の人形が並び、各地の見世物小屋やレストランに呼ばれてサイン入りの絵はがきを売って稼いだ。後年はルクセンブルクに移って暮らしたが、第一次世界大戦後のインフレで蓄えを失い、1922年に亡くなっている。この事件からドイツ語には「ケーペニキアーデ」という単語が生まれ、辞書に載った。ありもしない権限を堂々と振りかざしてやってのける詐欺、という意味である。1931年にはカール・ツックマイヤーの戯曲『ケーペニックの大尉』が書かれ、1956年には人気俳優ハインツ・リューマン主演で映画化された。現在、ケーペニックの市庁舎前には彼の像が立っている。

動機については、今も議論がある。戯曲や映画を通じて広まったのは「身分証が欲しかっただけの気の毒な男」という筋書きだ。前科のせいで居住許可が下りず、住所がなければ職に就けず、職がなければ部屋を借りられず、部屋がなければ身分証も出ない。この堂々巡りから抜け出すために市庁舎へ乗り込んだ、という説明で、フォークト自身も自伝でそう書いている。ただし近年の研究では、これは彼が後から用意した物語ではないかとみられている。ケーペニック市庁舎にはそもそも旅券を発行する部署がなく、彼は事前に下見をしていた。当日も旅券を探した形跡はなく、金の在りかについてだけは明確な段取りを持っていた。さらに、何年も前に刑務所仲間へ「大尉のふりをして市庁舎に入る」という着想を話していた、という証言も残っている。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
この件で教訓として語り継がれているのは詐欺の手口じゃなくて、「小さな要求から始めて少しずつ大きくしていくと、人は途中で断れなくなる」という一点だと思う。一度「はい」と言うたびに、次に「いいえ」と言うのが難しくなっていく。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
だから自分は、ちょっとした頼まれごとの段階できっぱり断ることにしている。うっかり引き受けると、気がついたときには隣の国に攻め込む算段を手伝わされているからね。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
ドイツにちょうどそういうことわざがある。「小指を差し出すと、最後には手ごと持っていかれる」。今回の件で差し出されたのは小指ではなく市庁舎の鍵だったわけだが。

4. 海外の名無しさん
百科事典に「この事件はイギリスでドイツ軍国主義を叩く宣伝材料に使われたが、ドイツ国民の圧倒的多数はフォークトの行いを見事で愉快なものと受け止めた」と書いてあって二度見した。こんな一文が事典に載ることがあるのか。ドイツ人にユーモアがないと言ったのは誰だ。

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
しかも皇帝ヴィルヘルム2世本人が面白がって、刑期の途中で恩赦を出している。国家を丸ごとコケにされた側のトップが笑って許すというのは、なかなかお目にかかれない光景だと思う。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
ただ、あの笑いの中身はもう少し不気味だと思っている。皇帝が愉快がったのは「うちの臣民は、制服を着た男が来れば証拠も求めずに言うとおり動く」と実地で確認できたからだ、という見方がある。笑い話の顔をした点検報告みたいなものだ。

7. 海外の名無しさん
どんでん返しの可能性も捨てきれない。兵士たちは実は薄々おかしいと気づいていて、面白がって乗ってやっただけかもしれない。半日つぶせてビールと食事まで出るなら、自分だって黙って行進する側に回る。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
仮に気づいていたとしても、あの時代のあの軍隊で「大尉殿、失礼ですが証明できるものを」と言い出せる兵はまずいない。分かっていて黙るのと、疑いもせずに従うのとで結果が同じになってしまうのが、この話のいちばん怖いところ。

9. 海外の名無しさん
ドイツにはこの事件を題材にした『ケーペニックの大尉』という戯曲があって、50年代には人気俳優主演で映画にもなっている。事件そのものより、そっちの筋書きで話を覚えているドイツ人のほうが多いんじゃないかな。

10. 海外の名無しさん
面白いのは、その戯曲で広まった「身分証が欲しかっただけの気の毒な男」という筋書きが、今ではかなり疑われていることだ。市庁舎に旅券を出す部署はなかったし、彼は事前に下見をしていたし、当日は旅券を一度も探していない。金の置き場所についてだけ、やけに段取りがよかった。

11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
とはいえ、あの堂々巡り自体は当時実在した制度の問題だからね。住所がなければ職に就けず、職がなければ部屋を借りられず、部屋がなければ身分証が出ず、身分証がなければ町から追い出される。作り話だとしても、当時の読者が一発で納得してしまう作り話ではあった。

12. 海外の名無しさん
上官の命令に無条件で従う訓練の危うさが、これ以上ないくらい分かりやすい形で出た事件だと思う。ここでは笑い話で済んだけれど、同じように軍服を手に入れた男が40年後のドイツで同じことをやったときには、笑えない数の死者が出ている。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
その差は、手に入れた権限で何ができる時代だったか、という一点に尽きると思う。1906年の大尉に許されたのはせいぜい市の金庫までで、1945年にはもっと多くのことが許されてしまった。制服の効き目そのものは、どちらの時代も同じだった。

14. 海外の名無しさん
靴職人が兵士の一隊をまるごと仕立て上げたわけだ。まさに底上げというやつで、しかも履き潰されたのは市の会計のほうだった。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
見事なので座布団を差し上げたいところだが、この流れだと座布団まで「陛下の命令である」と言って持っていかれそうなので、いったん手元に置いておくことにする。

16. 海外の名無しさん
これ、現代でも本質はまったく変わっていない。蛍光色の作業ベストを着てクリップボードを持ち、迷いのない足取りで歩いていれば、たいていの建物には入れてしまう。誰も「あなたは誰ですか」と最初に聞く役をやりたがらないからだ。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
警備の世界では、あの蛍光ベストは半分冗談で「最強の通行証」と呼ばれている。人が確かめているのは身分ではなく、その場に馴染んでいるかどうかなんだよね。フォークトがやったのも、突き詰めれば同じことだと思う。

18. 海外の名無しさん
押収額が4,002マルク37ペニヒという端数まで残っているのがやけに生々しくて好きだ。しかも彼は現金を持ち出すときに、わざわざ受取証を書いて置いていっている。それも、かつて自分が入っていた刑務所の所長の名前でサインして。

19. 海外の名無しさん
命令に従ってしまった兵士たちがその後どうなったのかが気になる。処罰されたのなら気の毒すぎるし、されなかったのなら、それはそれで軍隊が自分の矛盾を認めたことになる。上官の命令に従っただけの兵を罰したら、無条件の服従を求める建前のほうが崩れてしまうからだ。

20. 海外の名無しさん
出所後の第二の人生が一番おかしい。自伝を出し、蝋人形館に自分の人形が飾られ、あちこちに呼ばれてサイン入りの絵はがきを売って稼いでいる。国家を丸ごとからかった罪で、結果としてちゃっかり食っていけるようになったわけだ。

21. 海外の名無しさん
その晩年が、インフレで蓄えを失って終わりというのがなんとも言えない。制服一着で市庁舎を落とした男でも、紙幣が紙切れになっていくのだけは止められなかった。国家をからかうのと、経済に勝つのはまったく別の話だったらしい。

22. 海外の名無しさん
ドイツ語にはこの事件から「ケーペニキアーデ」という単語が残っていて、辞書にも載っている。ありもしない権限を堂々と振りかざしてやってのける詐欺、という意味だ。本人の名前ではなく、巻き込まれた街の名前のほうが単語として残ったのが少し可哀想でもある。

23. 海外の名無しさん
今これをやろうとしても、入口で身分証の提示を求められて終わりだろう。ただ制服が肩書きに置き換わっただけで、中身のほうは普通に生き残っている気がする。会議室に堂々と入ってきて指示を出す人に、全員が「あの人誰だっけ」と思いながら黙って従う光景は、今でも普通にある。

24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
結局この事件が示したのは、制服に権威があるということではなくて、権威を疑う役を誰も引き受けたがらない、ということなんだと思う。フォークトが着ていたのは確かに軍服だったけれど、彼が本当に利用したのはその場の空気のほうだった。

まとめ

1906年10月16日、無職の靴職人フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で買い集めた中古の大尉の軍服を着て路上の兵士を掌握し、ケーペニック市庁舎で市長を逮捕、金庫の現金4,002マルク37ペニヒを押収して姿を消した。10日後に逮捕され懲役4年の判決を受けたが、面白がった皇帝ヴィルヘルム2世の恩赦で刑期の途中に釈放され、その後は自伝を出す有名人になっている。コメント欄でまず盛り上がったのは、皇帝が笑った理由をどう読むかだった。愉快な話として片づける人がいる一方で、「制服を着た男が来れば臣民は証拠も求めず従う」と確認できたから笑ったのだ、という見方が出て空気が少し変わった。そこから、同じことを40年後にやった男は笑えない結末を残した、という指摘が続く。もう一つの流れは「今も同じでは」という話で、蛍光ベストとクリップボードがあればたいていの建物に入れる、誰も最初に「あなたは誰ですか」と聞く役をやりたがらない、という現代版の実感がいくつも並んだ。制服が強いのではなく、疑う役を引き受けたがらない空気のほうが強い。そこが百年以上変わっていない。

元ソース: 1906年、無一文で失業中のドイツの靴職人が中古の陸軍大尉の軍服を買い、路上で本物の兵士の一隊を掌握し、市庁舎まで行進させ、市長を逮捕し、誰も彼が大尉でないと気づかないうちに市の金庫を丸ごと持ち去った

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