「湖のベーコン」。1910年、ニューヨーク・タイムズはカバの肉をそう呼んだ。悪ふざけではない。当時アメリカの下院には、アフリカのカバを輸入してルイジアナ州の湿地帯に放ち、食肉として育てようという法案が本当に提出されていて、同紙はそれを後押しする側に回っていた。しかもこの案は当時の人々にとって、抱えていた二つの厄介な問題を一度に片づける妙案に見えていたのである。
今日の知ってた?
📏 1910年、ルイジアナ州選出の下院議員ロバート・ブルサードがアメリカ下院に提出した法案(H.R.23621)は、25万ドルを投じてカバなどの「有用な動物」を輸入し、ルイジアナの湿地帯で肉用に育てることを求めていた。後世「アメリカン・ヒッポ法案」と呼ばれるこの案を支持する記事の中で、ニューヨーク・タイムズはカバの肉を「lake cow bacon(湖の牛のベーコン)」と表現した。法案は僅差で成立に至らなかったと伝えられている。
※注:バイユー(bayou)とは、ミシシッピ川下流域に広がる、ほとんど流れのない沼のような水路のこと。ルイジアナ州の広い範囲がこの湿地帯で、水路がそのまま生活道路になっている土地である。
背景:「肉が足りない」と「水路が塞がった」が同時に起きていた
1900年代初頭のアメリカは、肉の値段に苛立っていた。都市の人口は移民の流入で膨れ上がる一方、牛を育てる西部の土地は開拓が一巡して伸びしろを失っていた。おまけに、かつて大平原を埋め尽くしていたアメリカバイソンは19世紀後半の乱獲でほぼ絶滅寸前まで減っている。数千万頭いたとされる動物が、1900年前後には保護区にわずかに残るだけという状態だった。新聞は連日「肉問題」を論じ、政治家はそれに答えを出すよう迫られていた。
もう一つの厄介事は、水面のほうから来た。南米原産の水草、ホテイアオイである。1884年にニューオーリンズで開かれた万国博覧会で来場者に配られた株が逃げ出したのが始まりとされ、そこから20年ほどでルイジアナ一帯の水路を覆い尽くした。この植物は分裂するように増えて水面を厚い緑の絨毯に変え、船は通れなくなり、日光と酸素を断たれた水中では魚が死んだ。工兵隊が刈っても、焼いても、薬をまいても追いつかない。「増えすぎた水草をどうするか」は、当時のルイジアナにとって笑い事ではない地元問題だった。
※注:ホテイアオイは日本でも「ウォーターヒヤシンス」の名で睡蓮鉢や金魚鉢に入れられる、ごくありふれた水草である。ただし野外に出ると挙動は同じで、西日本を中心に河川やため池の水面を覆う被害が出ており、環境省の生態系被害防止外来種リストに挙げられている。ちなみに、アメリカ南部を覆い尽くした侵略的植物としてもう一つ有名なクズ(葛)は、1876年のフィラデルフィア万博の日本館で紹介されたものが広まったとされる。19世紀の万国博覧会は、善意で配られた植物が数十年後に手のつけられない問題に育つ装置でもあった。
そこに現れたのが、二つの問題を掛け算で解く発想だった。カバを放てば、水路を塞いでいる水草を食べてくれる。そのカバ自身が肉になる。ルイジアナの水路は片づき、食卓には新しい肉が並ぶ。書き出してみれば、当時の人々にとっては筋の通った一石二鳥だったのである。
もう少し詳しく
証言台に立ったのは、かつて殺し合った二人だった。下院農業委員会でこの案を後押ししたのは、アメリカ人の斥候フレデリック・ラッセル・バーナムと、南アフリカ出身のフリッツ・デュケインである。二人はボーア戦争で敵味方に分かれて戦っており、互いに相手を仕留める任務を負っていたことさえあったとされる。その二人が十数年後、アメリカの議会に並んで座り、カバを輸入すべき理由を説明していた。ちなみにデュケインはのちにドイツのスパイとして活動し、1941年にアメリカで摘発されている。登場人物の経歴だけで小説一本書けそうな法案だった。
「湖のベーコン」は売り文句だった。この案の最大の壁は、技術でも予算でもなく、アメリカ人がカバを食べる気になるかどうかだった。牛肉と豚肉に慣れきった消費者に、アフリカの巨獣を食材として受け入れさせなければならない。そこで持ち出されたのが「湖のベーコン」という言い換えである。カバではなく「湖にいる牛」。得られるのは未知の肉ではなく、ベーコン。ニューヨーク・タイムズがこの表現を使った時点で、法案はすでに広報戦の段階に入っていた。名前を変えれば食べ物になる、という発想自体は、実はいまの食品業界とそう変わらない。
それでも法案は形にならなかった。結局この案は成立に至らなかった。ごく僅差で、あと一票足りなかったという話も語り継がれているが、いずれにせよカバがルイジアナに運ばれることはなかった。その後のアメリカの肉不足は、カバではなく牛の飼育の工業化——濃厚飼料と大規模な肥育場——によって解消されていく。水路のホテイアオイのほうは、いまも南部各州が予算を組んで刈り続けている。二つの問題は、結局それぞれ別々に、地味な方法で対処されることになった。
ところで、カバはそんなに穏やかな動物ではない。この法案が今になって語り草になっているのは、カバという動物の実像が当時の議論とあまりに噛み合わないからでもある。カバは草食だが、縄張り意識が極端に強く、水辺で人間が近づくと躊躇なく突進してくる。オスは体重1.5トンを超え、大きい個体は3トン近い。あの体型で短距離なら人間よりずっと速く走る。アフリカでは大型動物による人間の死者数で最上位に数えられる存在で、年に数百人が犠牲になるとされている。「湿地に放って増やす」という運用が想定していた牧歌的な光景は、現実のカバとはかなり距離がある。
そして80年後、実験は南米で勝手に始まった。1980年代、コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルが私設の動物園のために4頭のカバを運び込んだ。1993年に彼が射殺されたあと、キリンやゾウなど他の動物は引き取り手が見つかったが、カバは大きすぎて誰も動かせず、そのまま放置された。天敵のいないマグダレナ川流域で数は増え続け、現在は170頭を超えるとも200頭近いとも推定されている。コロンビア政府は2022年にこれを侵略的外来種に指定し、不妊処置や国外への移送が進められているが決定打はない。1910年のアメリカ議会が真面目に検討した「カバのいる新大陸」という実験は、誰も望まない形で、別の国で実行されてしまったことになる。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
なるほど、当時のルイジアナの湿地に足りなかったのは「攻撃的で予測不能なことで世界的に有名な外来種」だったわけか。よく気づいたな、と言うしかない。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
それ、実際にコロンビアで起きてるからな。あの国の川ではもう現実の問題になっている。ルイジアナで起きなかったのは本当に運がよかっただけだと思う。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
しかもこっちのほうが間抜けなんだよ。コロンビアは事故だ。エスコバルが射殺されて、私設動物園の動物が放置された結果そうなった。アメリカのは議会が予算をつけて意図的にやろうとしていた。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
エスコバルが連れてきたのは4頭だ。それが今は200頭近いと言われている。4頭からこれだぞ。議会が予算をつけて計画的に放していたら、いまごろミシシッピ川下流はどうなっていたんだろうな。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
たった4頭でよく増えたな。あのサイズの動物なら、少数から始めると血が濃くなって行き詰まりそうなものだけど。遺伝的な多様性はかなり厳しいことになっていそうだ。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
怒ったカバと鉢合わせするより怖い状況があるとすれば、それは「血の濃い、怒ったカバ」と鉢合わせすることだな。何を考えているのか本当に読めない相手になる。
7. 海外の名無しさん
「湖のベーコン」の語感が惜しい。舞台がルイジアナのバイユーなんだから、そこは「バイユー・ベーコン」にすべきだった。頭韻を踏ませる機会を、記者は自分から捨てている。
8. 海外の名無しさん
生態系をめちゃくちゃにするにしても、ウサギやネコでやるよりカバでやるほうが格好いいというのは、正直なところ認めざるを得ない。規模が違う。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
落ち着け。その路線をすでに実行した人が南米にいて、いまも後始末が終わっていない。格好よさの代償は、川で漁をしている地元の人たちが払っているんだ。
10. 海外の名無しさん
これって、南部でクズを土壌流出対策として植えまくったのと同じ頃の話じゃないか? もし本当にカバまで入れていたら、南部は植物と巨獣の両方に占領されていたことになる。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
時期は少しずれる。クズが大々的に推奨されたのは1930年代で、1900年前後はまだ観賞用のツル植物として出回っていた段階だ。ただ発想の根っこは完全に同じで、外から便利そうな生き物を連れてきて問題を解決させようとしている。
12. 海外の名無しさん
縄張り意識が異常に強く、ワニ類をまったく意に介さない。ルイジアナのアリゲーターは初日から立場を失う。体格は普通のSUVくらいあって、人間にとっても十分に危険。素晴らしい提案じゃないか。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
北米にはカバを倒せる捕食者がいないんだよな。大型のクマはずっと北にいて生息域が重ならないし、それに見合うサイズのネコ科動物もいない。天敵不在のまま増える条件が完全に揃っている。
14. 海外の名無しさん
気になって調べたんだが、カバの肉は普通に美味しいらしい。脂の乗った上等な牛肉に近い味だと書かれていた。当時の売り込みは、味の面ではそこまで無茶を言っていなかったことになる。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
まあ、あの体型を見れば脂が多そうだとは思う。脂身がたっぷりなら濃厚で柔らかいだろうし、美味しくないほうが不思議なくらいだ。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
それが逆なんだ。カバの体脂肪率は5%程度しかない。あれは見た目に反してほぼ全部筋肉で、だからこそあの巨体であれだけ速く動けるし、危険でもある。馬のほうがよほど脂肪が多い。
17. 海外の名無しさん
昔から考えていることがあって、はるか昔に絶滅した動物の中に、和牛や大トロみたいに滅茶苦茶に美味しいやつがいたんじゃないかと思うんだ。誰も味を知らないまま消えていった味というのは、確実に存在したはずだよな。
18. 海外の名無しさん
食肉不足が理由と書いてあるが、その不足を作ったのは自分たちだからな。バイソンをほとんど撃ち尽くしておいて、代わりの候補がカバとサイとアフリカスイギュウ。もっと手前に検討すべきことがあった気がしてならない。
19. 海外の名無しさん
今の常識で笑うのは簡単だけど、当時は生態学という学問がまだ形になっていなかったことは押さえておきたい。「空いている土地に有用な動物を置けば、その分だけ食料が増える」という考え方は、1910年の知識水準ではかなり合理的に見えたはずなんだ。外来種が生態系を壊すという発想が常識になるのは、もっと後の話になる。
20. 海外の名無しさん
メキシコ湾岸の湿地は、北米大陸の渡り鳥にとって最大級の中継地でもある。カバが入っていたら水草の構成も水路の形も川底の泥も全部作り変えられていたわけで、いま我々が知っているルイジアナはそもそも存在しなかったことになる。肉の値段のためにそこまでやるかという話だ。
21. 海外の名無しさん
コロンビアのカバは川の中でブルドーザーを一日中走らせているようなもので、泥の分布から川筋の形まで大きく作り変えてしまう。ただ面白いのは、あれを「更新世の終わりに人間が消してしまったバランスの復元」と見る生態学者もいることだ。かつて南米には、カバに近い大きさで湿地に適応した草食獣がいたらしい。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
その説は知ってるけど、提唱している側も「だから放置していい」とは言っていないはずだ。食べていた植物の中身も違うし、何より現に住んでいる人が困っている。考える価値のある論点ではあっても、結論をひっくり返すほどではないと思う。
23. 海外の名無しさん
この話が好きな人には『River of Teeth』という中編小説を勧めたい。19世紀のうちにカバが北米に導入され、一部が家畜化された世界の話で、カウボーイがカバに乗って湿地を移動する。読んでいる間ずっと、これが一票差で現実になりかけた設定だという事実が効いてくる。
24. 海外の名無しさん
アメリカの湿地にカバが一頭もいないという現状から逆算すると、この提案は通らなかったと見て間違いなさそうだな。安心していいと思う。もっとも、仮に運び込まれていたとしても、「湖のベーコン」という呼び名を聞かされた時点でルイジアナの住民が片っ端から撃っていた気もするけどな。
まとめ
1910年、アメリカ下院にルイジアナ州選出の議員が提出した法案は、25万ドルを投じてカバを輸入し、州内の湿地帯で肉用に育てることを求めていた。狙いは食肉不足と、水路を塞いでいた外来水草ホテイアオイの同時解決である。ニューヨーク・タイムズはこれを後押しし、カバの肉を「湖のベーコン」と表現した。法案は僅差で成立に至らず、カバがルイジアナに運ばれることはなかった。コメント欄で最初に伸びたのは「湿地に足りなかったのは攻撃的で予測不能な外来種だったわけか」という皮肉で、そこから話題は自然とコロンビアへ移っていった。麻薬王が残した4頭が200頭近くまで増えた現実の事例があるだけに、笑い話で終わらせない書き込みも多い。一方で「当時はまだ生態学が学問として成立していなかった」と発想そのものを擁護する声や、カバの体脂肪率が5%しかないという指摘、味は上等な牛肉に近いらしいという素朴な報告まで並び、最後は「アメリカの湿地にカバがいない時点で答えは出ている」という一言で落ち着いた。
元ソース: ニューヨーク・タイムズは1910年、ルイジアナの湿地帯にカバを導入する法案を後押しして、カバの肉を「湖のベーコン」と表現した

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