『イリアス』と『オデュッセイア』。古代ギリシャの叙事詩といえばこの2作の名前がまっ先に浮かぶ人がほとんどだと思う。ところがこの2作は単独の名作ではなく、もともと全8作からなる「トロイア叙事詩環(じょじしかん)」と呼ばれる一大シリーズの中の2本だった。残り6作は、ほぼ完全に失われていて、断片や要約しか残っていない。
※注:「叙事詩環(エピック・サイクル)」とは、同じ神話世界を扱う複数の叙事詩をひとつながりの物語群としてまとめた古代ギリシャの呼び方。日本でいえば源平合戦を題材にした軍記物のシリーズに近い。
今日の知ってた?
📏 『イリアス』『オデュッセイア』は全8篇からなる「トロイア叙事詩環」の一部。前日譚『キュプリア』、続編『アイティオピス』『小イリアス』『イリオウ・ペルシス』『ノストイ』、そして『オデュッセイア』の続編『テレゴニア』——残り6篇は中世までに散逸し、現代に残るのは引用や要約に基づく断片のみ。
背景:トロイア戦争と叙事詩環
トロイア戦争は、紀元前12世紀ごろにギリシャ連合軍がトロイア(現在のトルコ西岸)を10年攻めて落としたとされる伝説上の大戦。スパルタ王妃ヘレネがトロイア王子パリスに連れ去られたことが発端で、英雄アキレウスや知将オデュッセウス、有名な「トロイの木馬」作戦などが繰り広げられる。
この戦争の全貌を描くのに、古代ギリシャ人は1本や2本の詩では足りなかった。戦争前のいきさつから、戦中、陥落、英雄たちの帰還、そしてオデュッセウスのその後まで——全部で8本の叙事詩を時系列順に並べて、ひとつの「神話宇宙」として共有していた。
もう少し詳しく:失われた6篇の中身
『キュプリア(Cypria)』。トロイア戦争の前日譚。3人の女神(ヘラ、アテナ、アフロディーテ)の美の競い合いから始まり、ヘレネの誘拐、ギリシャ軍の出撃までを描く。要するに『イリアス』のプロローグにあたる超重要パート。これが失われているせいで、戦争のそもそもの原因を私たちは要約でしか知らない。
『アイティオピス(Aethiopis)』。『イリアス』の直接の続編。アキレウスがアマゾン族の女王ペンテシレイアやエチオピア王メムノンと戦い、最後にパリスの矢に倒れて葬儀が行われるところで終わる。アキレウスの死がここで描かれていたわけで、なくなって惜しい一作。
『小イリアス(Little Iliad)』。アキレウスの武具をめぐる英雄たちの諍いや、トロイの木馬作戦の起源を扱う。
『イリオウ・ペルシス(Iliou Persis、トロイア陥落)』。トロイの木馬がついに城内へ運び込まれ、街が一晩で焼け落ちる凄惨な夜を描く。「トロイの木馬」の中心エピソードはじつは『イリアス』ではなくこの失われた詩に書かれていた。
『ノストイ(Nostoi、帰還譚)』。戦争を終えたギリシャ英雄たちの帰国譚。オデュッセウス以外の将軍たちの末路がまとめられていたとされる。
『テレゴニア(Telegony)』。『オデュッセイア』の続編にして全8篇の完結編。古代の評者にも「蛇足」と酷評された問題作で、内容も大概だったらしい(後述)。
残っているのは、後世の文法学者プロクロスの要約と、各所に散らばった数行〜数十行の引用断片だけ。中世ヨーロッパでギリシャ語の読み手が約千年ほぼ絶えてしまった時期があり、写本が継承されなかった本は容赦なく消えていった。『イリアス』と『オデュッセイア』が残ったのは、古代の評者たちが「この2本だけは別格」と推していたから、というのが定説だ。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
失われた6篇のラインナップを並べておくと——『キュプリア』(イリアスの前日譚)、『アイティオピス』(アキレウスの葬儀で終わる続編)、『小イリアス』(アキレウス死後の側面譚、トロイの木馬の起源)、『イリオウ・ペルシス』(トロイア陥落の夜の詳細)、『ノストイ』(オデュッセウス以外の帰還譚)、『テレゴニア』(オデュッセイアの続編)。並べてみるとなかなか壮観だな。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
古代アテネ人も「またプロデューサーが同じIPの続編作ってるよ。たまには新しい話やれよ」とか文句言ってたんだろうか。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
これらは元々口承で、各地の吟遊詩人が宴の席で歌い継いだ伝統だから、いまの続編商法とはちょっと違うんだよね。ホメロスは「作者」というより「最終的に文字に書き留めた人」に近い。何世紀も口で伝わるあいだに、原型から相当変形してたはず。
4. 海外の名無しさん
プラス面の話をすると、古代の批評家たちは「ホメロスの2篇がシリーズで一番出来がいい」と口を揃えて言ってる。とくに最終話の『テレゴニア』には、ほめてる評者がほぼ皆無。だから残ってないのも案外ちょうどよかったのかもしれない。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
未来の世代が『ゲーム・オブ・スローンズ』の最終2シーズンを失う、みたいな話か。
6. 海外の名無しさん
こういうのこそタイムトラベルしたい案件だよ。ナポレオンに会いに行くより、アレクサンドリア図書館に行って一晩スクロール棚を読み漁りたい。
7. 海外の名無しさん
ギリシャとローマだけでも失われた名作は山ほどある。記録好きで知られた2大文明ですらこれなんだから、他の国や口承文化からはどれだけのお宝が消えたんだろう。考えるだけで切ない。
8. 海外の名無しさん
そもそも『イリアス』ってトロイア戦争全体じゃなくて、終盤のごく一部しか扱ってないんだよな。アキレウスが親友パトロクロスを殺された怒りでヘクトルを討つ→ヘクトルの葬儀で終わり。木馬作戦もアキレウス本人の死も『イリアス』には出てこない。学校で初めて知ったとき、けっこう衝撃だった。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
木馬作戦のいちばん詳しい記述は、じつはローマのウェルギリウスが書いた『アエネイス』のほう。トロイア側の生き残りアエネアス(後のローマ建国の祖)が、カルタゴの女王ディドに「あの夜何が起きたか」を語る形式で出てくる。ウェルギリウスが書いたとき、失われた叙事詩環のほうの写本もまだ参照できた可能性が高い。
10. 海外の名無しさん
ヘルクラネウム(ヴェスヴィオ火山で埋もれた古代ローマの別荘地)の炭化スクロールに望みをかけてる。あれは「灰の中の小さなアレクサンドリア図書館」みたいな存在で、失われたギリシャ・ローマの文学が眠ってる可能性がある。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
僕、その読解プロジェクトのチームにいる。スクロールは「燃え尽きた」んじゃなくて「炭化」してる状態で、高解像度CTスキャンを地道に解析して、層ごとに巻きを仮想的にほどいてインクを読み出してる。technology indistinguishable from magic(充分に発達した技術は魔法と区別がつかない)の世界。scrollprize.org に参加できるよ。
12. 海外の名無しさん
『テレゴニア』のあらすじを聞いて笑った。「オデュッセウスが帰宅、息子テレゴノス(魔女キルケとの間の子)がそうとは知らず実父の家畜を盗もうとして父と戦い、誤ってオデュッセウスを殺してしまう。最後にオデュッセウスの息子テレマコスとテレゴノスがそれぞれ相手の母(キルケとペネロペ)と結婚してエンド」。完全に昼ドラ。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
古代の評者が「これはひどい結末」と評したのも納得しかない。
14. 海外の名無しさん
失われたうちのひとつが、生き別れの双子の物語だったらしい。片方は強く美しく賢く正義漢、もう片方は小柄で醜く性根もねじれている。2人は手を組んで母を探しに旅に出る——って、これもう映画化されてないか?
15. 海外の名無しさん
人類は「歴史で残ってる部分」を過大評価しがち。先史時代になればなおさら。だから「シェイクスピアは実在しなかった、生前の一次史料がない」みたいな言説を聞くと笑っちゃう。その基準だと近世以前のほぼ全員が「実在しなかった」ことになる。修道士が本の余白に「西暦279年、TIL王、夏に死す」とだけ走り書きしてくれただけでも僥倖。
16. 海外の名無しさん
ソフォクレスの『オイディプス王』、初演された劇作コンテストで2位だったの知ってる? 優勝作のほうは現存していない。当時の人にはあれより面白い劇があったってことだ。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
その世代のエミネム的存在だったんだろうな、優勝作者。
18. 海外の名無しさん
つまり、古代ギリシャ版アベンジャーズの8部作のうち、キャプテン・アメリカ単独映画と続編の2本しか残ってないってこと?
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
しかも残った2本のなかにアベンジャーズの目玉だったはずのトロイの木馬の場面が入ってない、というオチ付き。「木馬は本編に出てくる」って思ってる人多いけど、じつは番外編にしか登場しない。
20. 海外の名無しさん
スター・ウォーズが全部失われて、唯一残ったのが『スター・ウォーズ・ホリデー・スペシャル』(1978年の悪名高いテレビ特番)だった——という未来を想像してほしい。それで後世の文明がスター・ウォーズを研究するんだ。
21. 海外の名無しさん
昔の音楽・文学・芸術が「やたら名作ぞろい」に見えるのは、当時のクソみたいな作品の99.99%が消えてくれてるからなんだよな。生存者バイアス。今のサブスク配信に山積みの凡作も、千年経てば淘汰されて「2020年代は黄金時代だった」と言われるかもしれない。
22. 海外の名無しさん
スティーヴン・フライの『トロイ』と『オデュッセイア』を最近読んで意外だった。読む前は『オデュッセイア』のほうが楽しみで、トロイア戦争編は退屈な政治パートだと思ってた。読み終わって逆だった。アキレウスの怒りと戦場の政治のほうが、オデュッセウスの島めぐりナンパ冒険記より圧倒的に深い。
23. 海外の名無しさん
良いニュースもひとつ。失われてる詩が6本もあるってことは、ハリウッドが「全8部作の実写化」みたいなのを今後30年でぶつけてくる余地もないってことだ。再構成しようがない。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
ノーラン監督が8本撮らされなくて済むの、本当に良かった。
25. 海外の名無しさん
ポンペイのスクロールがCTで読めるようになった話を聞いてから、まだ希望は捨ててない。地中のどこかから『キュプリア』の完本が出てくる日があるかもしれない。失われた文学が物理的に「もう一度読まれる」って、人類の長い歴史で見ても結構すごい瞬間だと思う。
まとめ
『イリアス』『オデュッセイア』が単独の傑作ではなく、全8篇のシリーズの中の「最も評価が高かった2本」だった、という事実。コメ欄では「映画シリーズの最終話だけが失われた」と現代的にたとえて笑う声、ヘルクラネウムの炭化スクロール解読プロジェクトに望みをつなぐ声、そして「古典が名作ぞろいに見えるのは駄作が淘汰されたから」という生存者バイアス論まで、知的な脱線が広がった。
元ソース: 『イリアス』『オデュッセイア』は全8篇からなるギリシャ叙事詩シリーズの一部で、残り6篇はほぼ失われ断片しか現存しない

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