映画『ロード・オブ・ザ・リング』の撮影現場には、原作を子どもの頃から読み込んできた俳優が何人もいた。だが「原作者に会ったことがある」という一点だけは、たった一人しか名乗れなかった。しかもその一度きりの対面で、彼が口にできたのは、ごく短い挨拶がひとことだけだった。
※注:J・R・R・トールキン(1892〜1973)は『ホビットの冒険』『指輪物語』を書いたイギリスの作家で、オックスフォード大学の言語学者でもあった。『ロード・オブ・ザ・リング』は『指輪物語』を原作とした映画三部作の邦題。
今日の知ってた?
📏 映画『ロード・オブ・ザ・リング』のキャストのうち、原作者J・R・R・トールキン本人に会ったことがあるのは、サルマン役のクリストファー・リーただ一人だった。二人が居合わせたのはオックスフォードのパブ「イーグル・アンド・チャイルド」。毎年『指輪物語』を読み返すほどの熱心な読者だったリーは、あまりの緊張に「はじめまして」と言うのが精一杯だったという。
背景:イーグル・アンド・チャイルドという店
オックスフォード市内のセント・ジャイルズ通りに、17世紀から続く「イーグル・アンド・チャイルド」というパブがある。店の名が記録に初めて現れるのは1684年。名前の由来は、ギリシャ神話でゼウスの鷲が少年ガニュメデスをさらった話とも、鷲の巣で見つかった赤ん坊の言い伝えを持つダービー伯爵家の紋章ともいわれる。地元では「バード・アンド・ベイビー(鳥と赤ん坊)」の愛称で呼ばれてきた。いまの建物は1840年ごろに建てられたもので、イギリスの指定建造物になっている。
この店が文学史に名を残しているのは、トールキンと『ナルニア国ものがたり』の作者C・S・ルイスを中心とする文学サークル「インクリングズ」の行きつけだったからだ。ただ、よく言われる「ここで原稿を読み合っていた」は正確ではない。書きかけの原稿を読み上げて批評し合う会は、1933年の終わりごろから木曜の夜に、ルイスが勤めるモードリン・カレッジの彼の部屋で開かれていた。パブのほうは、月曜か火曜の昼に奥の小部屋「ラビット・ルーム」に集まって語り合う、もっと気楽な場だった。木曜の朗読会は1949年10月に途絶えたが、パブの集まりはその後も続き、1950年6月にはルイスがここで『ライオンと魔女』の校正刷りを仲間に配っている。『指輪物語』の原稿が読み上げられたのは主にカレッジの部屋のほうだが、作品を生んだ仲間たちが通い続けた店であることに変わりはない。
リーがこの店でトールキンに出くわしたのは1950年代のこと。2015年の仏スレート誌の記事によれば、リー本人は英映画誌エンパイアにこう語っている。友人たちとビールを飲みながら話していると、誰かが「ほら、誰が来たか見てみろ」と言った。入ってきたのはトールキン教授で、リーは椅子から転げ落ちそうになった。「まだ生きていることさえ知らなかった」という。トールキンはリーの仲間の一人と知り合いで、呼ばれてテーブルまで来てくれた。ところがリーの口から出たのは、挨拶の言葉を言いかけてはつかえる声だけだった。米クリスチャン・サイエンス・モニター紙が引く別のインタビューでも、リーは「すっかり畏れ入ってしまって、『はじめまして』としか言えなかった」と振り返っている。
そのイーグル・アンド・チャイルドは、新型コロナの流行が始まった2020年3月に店を閉めた。オックスフォードの研究機関エリソン工科研究所(EIT)が2023年に建物を引き継ぎ、2025年10月には改修と再開に向けた計画の許可が下りた。EITによれば、インクリングズが集まったラビット・ルームと二つの古い小部屋は、なるべく手を加えずに残す方針だという。
もう少し詳しく
「毎年読み返す」を数十年続けた読者だった。クリストファー・リーは『指輪物語』を生涯にわたって毎年読み返していたことで知られる。ファン歴の長さでいえば、撮影現場の誰よりも古株だった。作品への理解の深さも知れわたっていた。リーによれば、共演者やスタッフは「フロドの父親の名前は?」といった細かい問題を出しては、なんとか彼をやりこめようとしていたという。リー自身は『指輪物語』を「自分が生きている間で最大の文学的偉業」と呼んでいた。
本当はガンダルフを演じたかった。リー自身が後年語っているところによれば、当初の希望は白の魔法使いガンダルフの役で、オーディションでも最初はガンダルフの場面を読んだ。本人は「ガンダルフを演じたかったが、ピーター・ジャクソン監督はその役に私を考えていなかったと思う。その頃にはもう年を取りすぎていた」と話している。実際、撮影が始まる時点で彼はすでに70代後半。馬に乗り、剣を振り、山を歩き回る役柄は体力的に難しく、結果として敵役サルマンに落ち着いている。皮肉なことに、そのサルマンこそ「作者に会った唯一の男」が演じることになった役だった。
俳優としての幅が異常に広い。リーは1958年の『吸血鬼ドラキュラ』で吸血鬼役を当たり役にして以降、007シリーズの敵役スカラマンガ(『007 黄金銃を持つ男』)、『スター・ウォーズ』のドゥークー伯爵と、半世紀以上にわたって悪役の代名詞であり続けた。出演本数は映画史でも屈指で、90代に入っても現役だった。身長196センチ、低く響く声、複数の言語を操る教養——サルマンという役に必要なものを、彼はほぼ生まれつき持っていた。
80代でヘヴィメタルのアルバムを出した。さらに彼は晩年、フランク王国の王シャルルマーニュ(カール大帝)を主題にしたヘヴィメタルのコンセプトアルバムを制作している。2010年に1作目、2013年に続編。80代後半から90代にかけての「新人メタルシンガー」である。第二次世界大戦中は英国空軍に従軍し、情報畑の任務に就いていたことも知られており、その時代の話になると本人がはぐらかすので、いまだに逸話が尾ひれをつけて流通している。
そんな経歴の持ち主が、憧れの作家を前にしては「はじめまして」で固まった。そこがこの話のいちばんいいところだと、海外の掲示板でも受け止められていた。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
クリストファー・リーって何人分の人生を生きてるんだろうな。吸血鬼も007の敵役もサルマンもやって、最後にはヘヴィメタルのアルバムまで出してるんだぞ。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
戦時中は特殊部隊にいたとか、いないとか、そういう噂まで立つ人が、憧れの作家を前にして「はじめまして」しか言えなかったのが最高にいい。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
その特殊部隊の話は盛られてるらしくて、確かなのは空軍で情報畑の任務に就いていたところまで、という説明をどこかで読んだよ。
4. 海外の名無しさん(>>3への返信)
本人が全部はぐらかすから話が大きくなるんだよな。従軍時代のことを聞かれて「秘密は守れますか?」と返し、記者が「もちろん」と答えたら「よかった、私も守れます」で終わらせた、という話が好きすぎる。
5. 海外の名無しさん
というかトールキン側も内心「うわ、クリストファー・リーがいる」ってなってた可能性はないのか。その頃にはもう吸血鬼役でかなり顔が売れてたはずなんだが。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
文学サークルの面々が原稿を読み合っているパブの片隅に、映画界の吸血鬼が黙って座ってる。絵面が強すぎて逆に落ち着かない。
7. 海外の名無しさん
毎年読み返すのを数十年続けたって、もうファンという言葉で足りる範囲を超えてる。撮影現場では原作の細部について彼が一番詳しかった、という証言もあるらしい。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
サルマンの最期の場面で「背中を刺された人間はこういう声の出し方をしません」と本人が現場で指摘した、という逸話を聞いたことがある。反論できる人がいなかったらしい。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
その指摘に説得力がありすぎるのは、たぶん本人が実際の音を知ってしまっていたからだ……という方向に話が進むのが、この人のエピソードの怖いところ。
10. 海外の名無しさん
本人は最初ガンダルフをやりたかったと語っていたはず。ただ馬に乗って山を歩き回る役は年齢的に厳しいということで、結局サルマンに落ち着いたと聞いた。
11. 海外の名無しさん
パブの名前が「イーグル・アンド・チャイルド」で、地元では「バード・アンド・ベイビー」と略されてるのが好き。鷲と幼子が、鳥と赤ん坊まで格下げされている。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
トールキンとC・S・ルイスが毎週その店で書きかけの原稿を読み合っていたと考えると、密度がおかしい。隣の席で普通に酒を飲んでた客が一番うらやましい。
※注:インクリングズが書きかけの原稿を読み上げ合ったのは、主に木曜の夜、モードリン・カレッジのルイスの部屋でのこと。イーグル・アンド・チャイルドは、昼に集まって語り合う場だった(6のコメントの「原稿を読み合っているパブ」も同じ)。
13. 海外の名無しさん
憧れの人に会って一言も気の利いたことが言えないの、痛いほど分かる。頭の中で用意していた質問が、目が合った瞬間に全部消えるんだよ。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
そして家に帰ってから完璧な返しを思いつくまでが一連の流れ。三十年くらい経ってもふとした瞬間に思い出して、布団の中で足をばたつかせることになる。
15. 海外の名無しさん
80代後半でカール大帝を主題にしたメタルのコンセプトアルバムを出しているのが、何度聞いても意味が分からなくて好きだ。老後の過ごし方として振り切りすぎている。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
しかも1枚で終わらせずに続編まで出しているのが本当にすごい。普通は1枚出した時点で満足するだろうに、この人は次の構想に入っている。
17. 海外の名無しさん
同じ作品を毎年繰り返す人はけっこういると思う。自分は『クロノ・トリガー』を毎年最初からやり直してるから、この感覚はよく分かるよ。
18. 海外の名無しさん(>>17への返信)
疲れているときに開くと安心する本、という位置づけなんだろうな。結末を全部知っているのに読む。むしろ知っているから読める。
19. 海外の名無しさん
この人の伝記映画がまだ作られてないのが不思議だ。ただ演じられる俳優が思い浮かばない。身長196センチであの低音で、しかも何か国語も話せる人という時点で条件が厳しすぎる。
20. 海外の名無しさん
007の敵役スカラマンガも演じているし、原作者のイアン・フレミングとは親戚筋にあたるという話まである。一人の人間に集まる縁の量としておかしい。
21. 海外の名無しさん
吸血鬼から白の魔法使いから宇宙の悪役まで、ジャンルの幅が広すぎる。しかも90代まで現役で、出演本数は映画史でも指折りだというんだから恐ろしい。
22. 海外の名無しさん
好きな作家に会えたのに緊張で終わった、という話がいちばん人間味があっていい。しかもその作家が書いた魔法使いを、後年自分が演じることになるとは本人も思っていない。
23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
あの日パブで固まっていた自分に教えてやりたい案件だろうな。四十年後にあなたはその人の書いた白の魔法使いを演じます、と言われても絶対に信じない。
まとめ
映画『ロード・オブ・ザ・リング』のキャストで、原作者トールキンに会ったことがあるのはサルマン役のクリストファー・リーだけ。しかもその場所は、トールキンたちの文学サークルが集まっていたオックスフォードのパブだった。コメント欄では、吸血鬼役から晩年のメタルアルバムまで彼の桁外れな経歴を並べる流れと、「憧れの人の前では誰でもこうなる」という共感の流れが同時に走っていた。何百本もの映画で悪役を演じ切った男が、たった一度の対面では「はじめまして」で終わった——その落差こそが、この話が長く語り継がれている理由なのだろう。
参考資料
- クリスチャン・サイエンス・モニター「クリストファー・リー――新しい世代は『ロード・オブ・ザ・リング』で彼を知った」(2015年・英語)
- スレート(フランス版)「クリストファー・リーは1950年代にトールキンに会っていた」(2015年・フランス語)
- ウィキペディア英語版「イーグル・アンド・チャイルド」(英語)
- エリソン工科研究所(EIT)「EITとフォスター・アンド・パートナーズ、オックスフォードの名物パブ『イーグル・アンド・チャイルド』を修復へ」(2025年・英語)
元ソース: 『ロード・オブ・ザ・リング』のキャストで原作者トールキンに会ったことがあるのはクリストファー・リーだけだった


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