「ディカプリオに話をして、主演を引き受けないよう説得した」その役に決まった俳優は、のちに彼女の継息子になった

「ディカプリオに話をして、主演を引き受けないよう説得した」その役に決まった俳優は、のちに彼女の継息子になった 音楽・エンタメ

ある映画の主演が決まるまでのあいだに、脚本でも演技でもないところから横やりが入った。入れたのは映画界の人間ではなく、アメリカのフェミニズム運動を長く率いてきた活動家である。話の中身は「その役は引き受けないほうがいい」。説得された俳優は本当に降り、空いた席には別の俳優が座った。そして数年のうちに、その別の俳優と活動家は家族になる。

※注:グロリア・スタイネムは、アメリカのフェミニズム運動を代表する活動家・ジャーナリスト。1972年に女性の視点から社会問題を扱う雑誌『Ms.』を共同創刊し、アメリカでは半世紀にわたって運動の顔として知られてきた人物である。

今日の知ってた?

🎬 グロリア・スタイネムは映画『アメリカン・サイコ』の暴力描写に強く反対し、主演候補だったレオナルド・ディカプリオに話をして、この役を引き受けないよう説得した。ディカプリオは降板し、パトリック・ベイトマン役はクリスチャン・ベールのものになる。そのクリスチャン・ベールは、のちにスタイネムの継息子になった。彼女が2000年に結婚した相手デヴィッド・ベールが、彼の父親だったからである。

背景:反対された映画のほうの事情

『アメリカン・サイコ』の原作は、ブレット・イーストン・エリスが1991年に発表した同名の小説である。1980年代のニューヨーク、ウォール街で働く裕福な若手ビジネスマンを主人公に据えた作品で、出版前の段階から内容が問題視され、当初の版元が刊行を取り下げるところまで揉めた。別の出版社から世に出たあとも、書店に並べるべきかどうかで議論が続いた。

擁護する側の読み方はおおむね一致していた。この小説は暴力を賛美しているのではなく、誰もが同じスーツを着て、同じ店を予約し、名刺の紙質で優劣を競っているような世界を、徹底的に馬鹿にしている——つまり1980年代の消費文化と、その中で空洞化した男性像への風刺だ、という立場である。反対する側は、風刺という枠があっても描写そのものが読者に届いてしまうことに変わりはない、と主張した。この対立は解けないまま、1990年代を通じて残り続けた。

そこへ映画化の話が来る。監督はメアリー・ハロン。批判の集中していた原作を、女性の監督が撮るという構図そのものが最初から注目されていた。そして主演候補として名前が挙がったのが、当時世界でもっとも売れていた若手俳優、レオナルド・ディカプリオだった。

もう少し詳しく

スタイネムが動いたのはこの段階である。彼女は作品の暴力描写に強く反対しており、主演候補だったディカプリオに話を持ちかけて、この役を引き受けないよう説得した。当時のディカプリオは大作の成功で桁違いの人気を得た直後にあたり、次にどの作品を選ぶかへ世界中の視線が集まっていた時期である。とくに若い観客の多くが彼を追いかけていたことを考えれば、その一本目に出版時から論争の絶えない作品が来るかどうかは、映画の外側にいる人間にとっても他人事ではなかった。

結果としてディカプリオは降り、パトリック・ベイトマン役はクリスチャン・ベールのものになった。そしてパトリック・ベイトマンは、ベールの当たり役として長く記憶されることになる。とくに男たちが名刺を並べて紙の色と書体を競い合う場面は、俳優が真顔で演じきったからこそ成立した種類の笑いで、今でも映画そのものの代名詞として引き合いに出される。

ここまでなら、単に「反対運動が配役を変えた話」で終わる。この話が今も掘り返され続けるのは、その先に続きがあるからだ。スタイネムは2000年にデヴィッド・ベールと結婚した。デヴィッド・ベールはクリスチャン・ベールの父親である。つまり彼女は、自分が反対した映画で主演を務めた俳優の、義理の母になった。血のつながりはないが、家族としての関係はそこから始まっている。

ただし、順番には注意がいる。この話は「彼女が継息子に役を取らせるためにディカプリオを降ろした」という形で広まりやすいが、時系列はその逆である。ディカプリオを説得した時点では、二人はまだ何の関係もない他人だった。元のスレッドのタイトルにも「のちの継息子(future stepson)」と書かれている通りで、彼女が反対して空けた席に、まだ家族でもなかった俳優が座り、そのあとで家族になった、というのが実際の順序になる。狙ってできることではない。だからこそ、この話は繰り返し語られている。

海外の反応

1. 海外の名無しさん
この映画は何度も見ているのに、配役にそんな経緯があったことは初めて知った。作品の外側で起きたことが結果として一番の当たり役を生んでいたわけで、映画の歴史って本筋と関係ないところで曲がるんだなと思う。

2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
この話、いったい何回投稿されるんだろう。半年に一度くらいの周期で必ず回ってきている気がするし、そのたびに同じ流れで同じ盛り上がり方をしている。もはや季節の風物詩みたいになってきた。

3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
全員がずっと画面に張り付いているわけじゃないんだ。自分もこれを読んだのは今日が初めてで、素直に面白いと思った。誰かにとっては百回目でも、誰かにとっては一回目。今日その一回目を引いた側にいるだけの話だと思う。

4. 海外の名無しさん
何回目かは知らないけど、知識の話が出たついでにひとつ。グロリア・スタイネムが、継息子のクリスチャン・ベールに役を取らせたくて、ディカプリオにパトリック・ベイトマン役を降りさせたって知ってた?

5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
待って、それってあのレオナルド・ディカプリオのこと? グロリア・スタイネムに説得されて、実の息子クリスチャン・ベールに主役を譲るために、あの物騒な映画の主演を降りたっていう、あのディカプリオ? とんでもない話じゃないか。

6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
落ち着いてくれ、二行のあいだで話が三段階くらい壊れている。実の息子じゃなくて継息子だし、そもそも説得した時点ではまだ他人だ。この調子だと五回後には「スタイネムがベイトマンを演じた」ことになっている。

7. 海外の名無しさん
そこは本当に大事な点で、彼女が継母になったのは映画のあとなんだよな。役を取らせるために動いたのではなく、反対して空けた席に座った俳優と、そのあとで家族になった。狙ってできることじゃないぶん、話としてはこっちのほうがずっと面白い。

8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
つまり数年がかりの仕込みだったわけだ。まず主演候補を説得して降ろし、席が埋まるのを待ち、そのあとで相手の父親と結婚して義理の母の座に収まる。ここまで気の長い計画は聞いたことがない。

9. 海外の名無しさん
自分もこの話は初めて聞いたんだけど、正直に言うとその女性が誰なのかを知らない。映画の配役に口を出せるくらいだから相当な立場の人だとは思うんだが、どのあたりで有名な人なんだろう。

10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
アメリカのフェミニズム運動を長く引っ張ってきた活動家で、ジャーナリストでもある人。1972年に『Ms.』という雑誌を共同で創刊していて、こちらでは運動の顔として半世紀ずっと名前が通っている。映画界の人ではないから、日本で知らなくても不思議はないと思う。

11. 海外の名無しさん
結果論だけど、ベール以外にあの役はありえなかったと思っている。当時のディカプリオはまだ顔が幼くて、鏡の前で自分に見とれている中身の空っぽな男を演じるには線が細すぎた。ベールは体つきから表情まで、あの気味の悪さに全部はまっていた。

12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
名刺を並べて紙の色と書体で張り合う場面が、あそこまで語り継がれることになったかどうかも怪しい。あの数分は演技が少しでも軽いと成立しないやつで、この映画を映画たらしめているのは間違いなくあの手の場面だと思う。

13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
ベールの芝居は、本人が笑わせにいっていないのに笑えるのがすごい。ふざけているわけでもないのに、真顔のまま可笑しい。メイキング映像を見ると現場の空気は妙に気まずくて、共演者たちも彼が何を狙っているのか分からないまま撮っていたらしい。

14. 海外の名無しさん
ベールが良かったのは同意するけど、ディカプリオでも普通にやりきった可能性はあると思う。あの人はあの人で、明るい顔のまま平然と嘘をつく役をやらせると異様に上手い。まったく別の気持ち悪さの映画になっていただけで、失敗はしなかった気がする。

15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
その場合はぜひポール・アレン役で見たかった。主人公が一番嫉妬している、そつがなくて感じのいい同僚。あの役をディカプリオがやっていたら、主人公の劣等感の説得力が跳ね上がっていたと思う。

16. 海外の名無しさん
この話になると配役の話ばかりになるけど、監督がメアリー・ハロンだという点はもっと知られていい。あれだけ叩かれた原作を、女性の監督が撮った。反対の声が集まっていた作品を誰が映像にするかという意味で、この人選自体がかなり踏み込んだ判断だった。

17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
それが効いていて、映画版は原作より風刺の輪郭がはっきりしている。主人公を怖い人として見せるより、この男が生きている世界のほうを笑いにいっている。同じ話でも、誰が撮るかで焦点が変わるという実例だと思う。

18. 海外の名無しさん
ある映画が嫌いだということと、その映画が作られること自体に反対することは別の話だと思うんだけどな。前者は誰にでもある感想で、後者になると急に別の性質を帯びる。この二つを混ぜてしまうと、批評という行為が全部同じ扱いになってしまう。

19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
とはいえ、主演候補の俳優に直接話をして降りるよう説得するのは、感想の域をもう超えている。作品を批判する自由はあるとして、配役の段階で個別に働きかけるのは別の力の使い方だ。そこは分けて評価したほうがいいと思う。

20. 海外の名無しさん
そもそもこの作品、「こういう男は最低だ」というのが主題のはずなんだよな。虚栄と見栄だけで動いている男を徹底的に馬鹿にしている話に、なぜ運動の側から反対が出るのかは、正直いまでもよく分からないでいる。

21. 海外の名無しさん(>>20への返信)
風刺として書かれていても、描写そのものは残って独り歩きする、という立場なんだと思う。作り手の意図と、受け取られ方は別物だという考え方。納得するかどうかは別として、当時この作品への反対はその線で語られていた。

22. 海外の名無しさん
これ、完全に定番ネタの仲間入りをしつつあるな。ヴィゴ・モーテンセンが『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』でヘルメットを蹴って足の指を折り、その悲鳴がそのまま本編に使われた話とか、スティーヴ・ブシェミが消防士の経験を持っていて、同時多発テロのあとに現場で手伝っていた話とか、あのあたりと同じ棚に並んでいる。

23. 海外の名無しさん(>>22への返信)
知ってた? グロリア・スタイネムは『ロード・オブ・ザ・リング』の撮影中に足の指を折ったんだ。ディカプリオを蹴ったときにね。そのときの悲鳴があまりに良かったので、クリスチャン・ベールが本編にそのまま残すことに決めたらしい。

※ 22番で挙がった逸話の登場人物を全部入れ替えただけの冗談。実際に『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』の撮影で足の指を折り、その悲鳴が本編に使われたのはヴィゴ・モーテンセンである。

24. 海外の名無しさん
結局この話が何度でも回ってくる理由は、誰も得をしようとしていないのに全部つながってしまったところにあると思う。反対した人がいて、降りた俳優がいて、代わりに演じた俳優がいて、そのあとで家族になった。台本にしたら「都合が良すぎる」と直される流れが、現実のほうで起きている。

まとめ

グロリア・スタイネムは映画『アメリカン・サイコ』の暴力描写に強く反対し、主演候補だったレオナルド・ディカプリオを説得した。ディカプリオは主演を辞退し、空いたパトリック・ベイトマン役はクリスチャン・ベールのものになる。その後スタイネムは2000年にデヴィッド・ベールと結婚し、その息子であるクリスチャン・ベールの継母になった。コメント欄では「継息子に役を取らせるための計画だった」という誤解がまず出て、すぐに「順番が逆で、説得した時点ではまだ他人だ」と訂正が入った。そこからは配役の議論に移り、ベール以外にありえなかったという声と、ディカプリオでも別の気持ち悪さで成立したはずだという声が並んでいる。一方で、映画を批判することと配役に直接働きかけることは分けて考えるべきだという厳しい指摘もあった。狙ってできない偶然だからこそ、この話は何度でも掘り返されるらしい。

元ソース: グロリア・スタイネムは映画『アメリカン・サイコ』の暴力描写に強く反対し、レオナルド・ディカプリオに主演を引き受けないよう説得した。その役に決まったクリスチャン・ベールは、のちに彼女の継息子になった

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