歴史上もっとも有名な人物のひとり、ナポレオン。そのナポレオンが最初に葬られた墓には、なんと名前が刻まれていませんでした。墓碑銘が空白のまま放置された理由が、まさかの「呼び名のもめごと」だったと知ったら、ちょっと笑ってしまうかもしれません。
今日の知ってた?
📏 セントヘレナ島にあったナポレオンの最初の墓は、墓碑銘が空白のまま残された。イギリス側は「ナポレオン・ボナパルト」と刻むよう求めたが、彼の従者や支持者は「ナポレオン」だけを譲らず、双方が折り合えなかったからだという。
背景:セントヘレナ島とは
ナポレオンは1815年のワーテルローの戦いで決定的な敗北を喫し、皇帝の座を追われます。彼が最後に流されたのが、南大西洋にぽつんと浮かぶイギリス領の孤島、セントヘレナ島でした。最寄りの大陸からおよそ2000キロ。脱走の心配がいらないほど隔絶した、まさに「監視のための島」です。
フランスのナポレオン財団の解説によれば、ナポレオンはイギリスの軍艦ノーサンバーランド号で9週間の航海を経て、1815年10月15日に島に着きました。付き従ったのは、将軍ベルトランとモントロンの一家、将軍グルゴー、英語が完璧に話せた唯一の人物だったラス・カーズ伯爵とその息子、従者たちなど20人。イギリス本土には一度も上陸させてもらえず、イギリス側からは、皇帝ではなく「ボナパルト将軍」とだけ呼ばれるようになっていたといいます。墓碑銘のもめごとの芽は、すでにこのときからありました。
イギリスがここまで警戒したのには理由があります。ナポレオンは1814年に地中海のエルバ島へ流されたものの、1815年3月に島を抜け出して皇帝に返り咲いていたからです。セントヘレナでは3000人の兵が島を固め、4隻の船が絶えず海岸を見張っていました。同年12月10日から住まいになったロングウッドの屋敷は、島の東側の風が強く草木の少ない場所にあり、ナポレオンはいつも湿気に不満を漏らしていたそうです。日々は食事と乗馬、側近たちへの回想録の口述で過ぎていきました。財団は、総督ハドソン・ロウを「脱走の可能性に取りつかれた容赦のない看守」と書いています。
ナポレオンはこの島で5年半あまりを過ごし、1821年5月5日の夕方5時49分、51歳で世を去りました。翌日にはロウ総督が死亡を確かめに訪れ、7日には顔の石膏の型(デスマスク)が取られています。死んだのは敵国であるイギリスの管理下、しかもイギリス領の島の上。普通なら、墓に何と刻むかをイギリスが好きに決めてもおかしくない状況でした。ところが、ここで思わぬ綱引きが起こります。
もう少し詳しく
墓の場所は、本人が選んでいた。葬られたのは、住まいのロングウッドに近い谷でした。ナポレオンはこの谷を散歩しては「ゼラニウムの谷」と呼び、谷の泉の水を毎日くませていたそうです。島に葬られることになった場合に備えて、「いつも休んでいた柳の木陰、毎日水をくみに行く泉のそばに葬ってほしい」と言い残していました。葬儀は将軍の位に合わせた軍の礼式で行われ、島に駐屯するイギリス兵がひつぎの通る道に並びました。皇帝としてではなく、あくまで「将軍」としての見送りだったわけです。
墓そのものは、頑丈に造られた。ナポレオン財団が紹介している、ロウ総督が埋葬の5日後にイギリスの陸軍・植民地大臣バサースト卿に宛てた1821年5月14日付の手紙には、墓の中の造りが細かく書かれています。深さ12フィート(約3.7メートル)の穴の四方を厚い石積みで固め、底の石の台の上に白い石板で囲った石の棺のような空間を作ってひつぎを納め、すき間を石とセメントで埋めた。その上をさらに石積みと土で覆い、地表には縦12フィート、横9フィートほどの平たい石を敷き詰めた、という内容です。ひつぎは、石とセメントで何重にも封じられていたことになります。
「姓」を入れるかどうかが、政治そのものだった。流刑に付き従ったフランスの将軍モントロンは、墓石に「NAPOLEON」の名と生没年だけを刻むよう求めました。これに対してセントヘレナ総督のハドソン・ロウは「ボナパルト」を加えることにこだわり、拒みました。ナポレオン財団は、イギリス側が「ナポレオン」の名だけを刻むことを認めなかったため、墓石は何も刻まれないまま置かれたと説明しています。
なぜそこまで揉めたのか。当時のヨーロッパでは、国王や皇帝といった君主は姓を名乗らないのが慣例でした。「ナポレオン」とだけ書けば、それは退位させられたとはいえ正統な「フランス皇帝」を意味します。逆に「ボナパルト」という姓を添えれば、彼を一介の個人——皇帝を僭称しただけの「ただのボナパルト氏」——として扱うことになる。つまりイギリスにとって姓を入れることは、彼の帝位そのものを否定する政治的なメッセージだったわけです。
結局、墓は無名のまま。どちらも譲らなかった結果、墓石には何も刻まれませんでした。遺体はその名のない墓に19年間眠ることになります。1840年、フランス国王ルイ・フィリップが遺体の返還を実現させ(「遺骸の帰還」と呼ばれます)、同年10月15日に島で掘り出された遺体は、12月15日にパリで国葬を受けました。
2つ目の墓は、完成までにさらに20年あまりかかった。パリでは1840年6月10日の法律で、廃兵院(アンヴァリッド)のドームの下に墓を造ることが決まりました。廃兵院は、ルイ14世が1670年に傷病兵の住まいと病院として建てさせた施設です。工事のあいだ、ひつぎはサン・ジェローム礼拝堂に仮に置かれ、赤い斑岩の石棺に納められたのは1861年4月2日、甥のナポレオン3世が立ち会ってのことでした。地下の墓所へ降りる青銅の扉の上には、今度は本人の遺言の一節「わが遺灰が、私がこよなく愛したフランスの人々のただ中、セーヌのほとりに憩うことを望む」が刻まれています。名前ひとつ刻めなかった最初の墓とは対照的です。
空白の墓は、今はフランスの土地にある。セントヘレナの墓所のある谷は、ナポレオン3世の政府が1854年に買い取りの交渉を始め、1858年に住まいだったロングウッド・ハウスとともにフランスのものになりました。今もフランスの外務省の管轄のもと、フランスの代表者が管理しています。中身のない墓は、今もイギリス領の島の上で、フランスの土地として静かに残されています。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
ほかの有名なナポレオンたちと混同されたら困るもんね……っていう冗談はさておき、理由を聞くと妙に納得してしまう。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
少なくとも皇帝が三人と、あとダンサーがひとりいるからな。区別は大事だ(適当)。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
あと架空の豚も一頭いるぞ。動物農場のあいつだ。
4. 海外の名無しさん(>>2への返信)
お菓子(ミルフィーユ)と、そこそこのブランデーと、いくつかの町と山と湖、ついでにサクランボの品種まである。もはやナポレオンという単語が渋滞している。
5. 海外の名無しさん
でも彼の名字ってボナパルトだよね? なんで姓を入れちゃダメだったんだろう。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
彼の統治が正統だったかどうかの問題なんだ。イギリスは「あいつは偽の皇帝で、名前はあくまでナポレオン・ボナパルトだ」と強硬に主張した。一方ボナパルティストにとって彼は退位させられた正統なフランス皇帝で、君主にふさわしい墓碑銘は「ナポレオン」だけ、というわけ。
7. 海外の名無しさん(>>5への返信)
彼は皇帝になったときに姓を捨てたんだよ。王族や君主は基本的に姓を名乗らないものだから。
8. 海外の名無しさん(>>5への返信)
支持者は皇帝として葬りたかったから即位名だけ、イギリスは平民として葬りたかったからフルネーム。墓石ひとつで身分の押し付け合いをしていたわけだ。
9. 海外の名無しさん
タイトルが「最初の墓」になってる理由がやっと分かった。今はもうそこに眠っていないんだよね。
10. 海外の名無しさん(>>9への返信)
1840年にフランスに運ばれて、いまはパリの廃兵院に安置されている。空っぽになった最初の墓だけが島に残ってるってわけ。
11. 海外の名無しさん(>>9への返信)
亡くなったのは二世紀も前だぞ。正直、もうどこにも本人の体なんてほとんど残ってないんじゃ……。
12. 海外の名無しさん(>>11への返信)
それが意外と保つんだよ。きちんと埋葬されて防腐処理されていれば、二世紀後でも驚くほど状態のいい遺体はある。
13. 海外の名無しさん
正直に言うと、僕がナポレオンだったらセントヘレナの最初の墓のほうがいいな。あの場所、写真で見るとすごく静かで穏やかなんだ。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
廃兵院のほうも悪くないよ。あそこは元々が軍の病院兼療養施設だから、兵士たちと一緒に眠れる。彼にふさわしい場所だと思う人も多い。
15. 海外の名無しさん
イギリスが彼を倒し、イギリスの監視下で亡くなり、墓もイギリス領の島の上。それなのに支持者側の意見を少しでも聞き入れたこと自体、わりとすごいことだと思う。
16. 海外の名無しさん(>>15への返信)
支持者には家族も含まれるからね。たとえ敵であっても、墓石の文言については遺族の希望を半分くらいは尊重する、というのは普通にあること。
※注:墓に「ナポレオン」とだけ刻むよう求めたのは、流刑に付き従った将軍モントロン。島に付き従った約20人は、将軍ベルトランやモントロンの一家、側近、従者たちで、ナポレオン本人の家族はいなかった。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
プロイセンはナポレオンを処刑して名前のない罪人墓に放り込みたがってたくらいだから、イギリスが家族の声を聞く義務があったわけじゃない。それでも聞いたのは大人の対応だね。
※注:プロイセンが「名前のない罪人の墓に葬りたがっていた」という話は、確認できる資料が見つからなかった。
18. 海外の名無しさん(>>16への返信)
フランスでこれ以上の混乱を防ぐのもイギリスの利益だったしね。墓石のことで意地を張ってパリで反英デモが起きたら割に合わない。多少の譲歩で火種を消せるなら安いものだ。
19. 海外の名無しさん
別に支持者をバカにするような話でもないと思う。これは他の王家・貴族でもごく普通の慣例なんだよ。オルレアン派だってオルレアン家の王をその姓では呼ばなかった。家名であって苗字ではないからね。
20. 海外の名無しさん(>>19への返信)
ただの慣習ではあるけど、その慣習を重んじるなら、自分が支持する側にも同じルールを当てはめたくなる気持ちはよく分かる。
21. 海外の名無しさん
イギリスからすれば「ボナパルト」は侮辱でもなんでもなく、本人も実際に使っていた正真正銘の名前だったわけで。「ここに馬鹿野郎が眠る」と刻もうとしたわけじゃない。それでも揉めるのが名前の難しさ。
22. 海外の名無しさん
彼が亡くなった時点では、ナポレオン三世もまだ皇帝になっていなかった。だから本当は「他のナポレオンと混同する」なんて心配は無用で、イギリスはただ彼の治世を非正統なものに見せたかっただけなんだよね。
23. 海外の名無しさん
王族に苗字がないって言うけど、実際には家名があってそれが機能的には苗字みたいなものでしょ。今のイギリス王家はウィンザー、最後のドイツ皇帝はホーエンツォレルン。
24. 海外の名無しさん(>>23への返信)
公式な姓ではないんだ。チャールズ国王は「チャールズ・ウィンザー」ではなく、苗字なしの「チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ」。もちろんウィンザー家ではあるけど、それは姓そのものではないんだよ。
25. 海外の名無しさん
ボナパルティストがボナパルトと呼びたがらない——字面だけ見ると矛盾しているようで、中身を知ると完全に筋が通ってる。名前ひとつで墓が空白のまま放置されるって、歴史って本当に面白い。
まとめ
敵地で亡くなったナポレオンの最初の墓は、墓碑銘を「ナポレオン・ボナパルト」とするか「ナポレオン」だけにするかでイギリス側と支持者側が対立し、結局どちらも刻まれずに無名のまま残されました。コメント欄では、姓の有無が帝位の正統性そのものを意味するという歴史的背景に「なるほど」と唸る声が多く、王族に姓があるのかという脱線や、有名なナポレオン渋滞ネタで盛り上がっていました。


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