「なぜそうなるのか」はまるで分かっていないのに、「どうすればうまくいくか」だけは正確に知っている。そういう知識の持ち方は、人類の歴史ではむしろ当たり前だった。西暦1世紀のローマで書かれた一冊に、その典型のような一文が残っている。ビールの醸造中に浮いてくる泡をすくってパン生地に混ぜると、軽いパンが焼ける——酵母という生き物の存在が突き止められる、およそ1800年も前の話である。
※注:以下で「パン種」と呼ぶのは、生地を発酵させて膨らませるための元になるもののこと。英語では leaven(リーヴン)といい、もともと「膨らませるもの」を意味する古い言葉である。
今日の知ってた?
🍞 西暦1世紀のローマの博物学者・大プリニウスは、著書『博物誌』の中で、ビールの醸造中に表面へ浮いてくる泡をすくい取り、それをパン種として使う人々のことを書き残している。そのやり方をする土地では、ほかより軽いパンが焼き上がるのだという。手順も結果もはっきり書かれているのに、なぜそうなるのかは一言も書かれていない。泡の正体が酵母という生き物だと決着がつくのは19世紀のこと。説明がつくまでに、まだ1800年ほどの空白がある。
背景:泡は昔から「使えるもの」だった
ビールを仕込んでいる容器の表面には、必ず泡が浮いてくる。酵母が糖を食べてアルコールと炭酸ガスを出しているためで、ガスに押し上げられた酵母が層になって液面を覆う。英語ではこの泡を barm(バーム)と呼ぶ。醸造の現場ではこれをすくって次の仕込みに回す習慣が古くからあり、パン生地に混ぜる使い方もその延長線上にあった。大プリニウスが書き留めたのは、この「すくった泡をパン種にする」というやり方である。
※ 大プリニウス=西暦23年ごろに生まれ、79年に亡くなったローマの人物。軍人・官僚として働きながら、当時知られていた自然・技術・医学・鉱物などの知識をひたすら集めて全37巻の『博物誌』にまとめた。ヴェスヴィオ火山が噴火したとき、逃げるどころか船を出して現地へ向かい、そのまま帰らなかったことでも知られる。
ただし、ここは正確に言っておきたい。発酵させたパンを焼く技術そのものは、大プリニウスより何千年も前からある。物として残っている発酵パンの痕跡は紀元前3700年ごろまでさかのぼるとされ、古代エジプトの遺跡からは、パン作りとビール作りが隣り合っておこなわれていた様子をうかがわせる資料が出ている。この一文は「発酵パンの起源」ではない。すでに何千年も続いていた習慣が、たまたま文章の形で残った例だと考えたほうがいい。
それでもこの記述が面白いのは、技術の中身がはっきり書かれているためである。泡をすくう。それを生地に入れる。ほかより軽く焼き上がる。手順と結果が並んでいるのに、その間をつなぐ理由だけがすっぽり抜けている。書いた本人にも分からなかったからだ。
もう少し詳しく
知らなかったのは「正体」だけで、扱い方は知っていた
当時の人がパン種について持っていた理解は、おそらく「一度うまく膨らんだ生地の一部を取り置いて次に混ぜると、また膨らむ」という手順の水準だったと思われる。それが生き物の増殖であることも、出てくるガスが気泡になっていることも知らない。それでもやっていることは現代のパン職人とほとんど同じである。種を絶やさないように継ぎ足す、温かい場所に置く、調子のいい種を大事に扱う。理屈を知らないまま、微生物の都合に合った作法だけが経験として積み上がっていた。
ビールの泡をパン種に回すのも、その延長にある合理的な選択だった。醸造のさかんな土地では、活きのいい酵母が毎日大量に手に入る。わざわざ一から種を起こして育てるより、隣で泡立っているものを分けてもらったほうが早いし確実である。「ほかの土地より軽いパンが焼ける」というのは、そういう地域差の話でもあったのだろう。
顕微鏡に映ってもなお、生き物だとは思われなかった
酵母の姿が初めて人の目に入ったのは1680年ごろとされる。自作の顕微鏡で微生物を次々に観察していたオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが、ビールの中に無数の小さな粒が浮いているのを見つけている。ただし彼はそれを生きているものとは考えなかった。デンプンか何かの粒だろう、という受け止め方で終わっている。見えていても、生き物には見えなかったのである。
そこからさらに150年ほどたった1830年代に、複数の研究者が独立して「発酵は酵母という生物の活動によるものだ」と主張した。ところが当時の化学界の重鎮たちはこれを本気で取り合わず、発酵はあくまで化学的な分解現象だと譲らなかった。決着がついたのは19世紀の半ばから後半にかけて、ルイ・パスツールの一連の実験によってである。泡の正体が生き物だと広く認められるまでに、『博物誌』の記述からおよそ1800年かかったことになる。
※ ルイ・パスツール=19世紀フランスの化学者・細菌学者。発酵が微生物の働きによって起きることを実験で示したほか、加熱によって腐敗の原因となる菌を減らす「低温殺菌(パスチャライゼーション)」にその名前が残っている。
ビールとパンは、もともと同じ生き物の仕事
パンを膨らませる酵母と、エールビールを発酵させる酵母は、生物学的にはどちらもサッカロミセス・セレビシエという同じ種に分類される。ラテン語の cerevisia は「ビール」を意味する語で、学名がそのまま出自を語っている。同じ生き物が糖を分解して、アルコールと炭酸ガスを出す。違うのは、その二つのうちどちらを取っておくかだけである。
パンは炭酸ガスのほうを生地に閉じ込め、無数の気泡として固定する。焼くときの熱でアルコールは飛んでいく。ビールはアルコールを液体の中に残し、ガスのほうは抜けるにまかせる(あるいは最後に閉じ込める)。同じ工程の、どちらの出力を拾うかという分岐にすぎない。「ビールは液体のパン」という言い回しが古くからあるのは、比喩というより実態に近いからだろう。
この視点で見ると、ビールの泡をパン種に使うという行為が、ぐるりと回って元に戻っていることが分かる。穀物に酵母を働かせて液体を作り、その働き手を借りてきて、また穀物を膨らませる。原理を一つも説明できないまま、人類はこの循環をとっくに完成させていた。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
パン種そのものはもっとずっと古いだろう。ローマより何千年も前から、人類は膨らんだパンを焼いている。ここに書かれているのは「ビールの泡を使う」という特定のやり方の話であって、発酵パンの発明の話ではない。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
物として残っている一番古い発酵パンの痕跡は、紀元前3700年ごろまでさかのぼるらしい。文字の記録より土から出てくるもののほうが先を行っているという、考古学ではよくある構図だ。
3. 海外の名無しさん(>>1への返信)
そもそもパンは文字より古い。ヨルダンの遺跡からは1万4千年前の焼いたパンのかけらが出ている。膨らませていたかどうかまでは分からないけれど、粉を練って火で焼くところまでは、農耕が始まる前にもう到達していたわけだ。
4. 海外の名無しさん
というか、そのビール自体を酵母で作っていたわけだよね。パンの前のビールの段階で、すでに正体不明の何かを飼いならしていることになる。二重の意味で分かっていない。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
微生物学を理解すればいいだけの話なのに、なぜ誰もやらなかったのか。当時の人はバカだったのか?
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
レンズを磨くのがそんなに難しいか、というやつだな。ちなみにそのツッコミの意味が分かるようになるまで、あと千六百年ほどかかる予定です。
7. 海外の名無しさん
偶然から始まった発見って本当に多い。火薬は不老不死の薬を作ろうとした人たちが原料を混ぜたら燃え上がったのが始まりだというし、柳の樹皮を噛むと痛みが引くという言い伝えからアスピリンが出てきた。ペニシリンにいたっては、休暇から戻った研究者が、培養皿に生えたカビの周りだけ細菌が死んでいるのに気づいたところから始まっている。
8. 海外の名無しさん(>>7への返信)
面ファスナーは、服にびっしりくっついたゴボウの実を顕微鏡で覗いた人が思いついた。犬の散歩から帰ってきたところだったという話まで付いてくる。
9. 海外の名無しさん(>>7への返信)
瞬間接着剤もそうだ。戦時中に透明な照準器の材料を探していたチームが、触れたものすべてにくっついてしまう物質を作ってしまった。当時は使いものにならない失敗作として棚に戻されている。
10. 海外の名無しさん
個人的にすごいと思うのは、進化という考え方が形になるずっと前から、人類が延々と品種改良をやっていたことだ。欲しい性質を持つ個体を選んで掛け合わせれば形質が変わる、というのを実地で知り尽くしていたのに、そこから一歩先に踏み出すまでにあれだけ時間がかかっている。
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
しかも主要な家畜のほとんどは、紀元前の早い段階でおおむね出そろっている。犬にいたっては農耕より前だ。人類は農業を始めるより先に、生き物のほうを作り変え始めていたことになる。
12. 海外の名無しさん(>>10への返信)
その点でダーウィンが新しかったのは「同じ種の中で形が変わる」ではなく「種そのものが分かれていく」と言い切ったところなんだよね。品種改良でどれだけ犬をいじり倒しても犬は犬のままだから、そこを地続きだと考えるにはたしかに飛躍が要る。
13. 海外の名無しさん
ビールは液体のパン、パンは固体のビール。原料も酵母も同じで、気体を残すか液体を残すかの違いしかない。この対称性、何度聞いても気持ちがいい。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
昔いた常連客が、ビールを頼むときにいつも「液体のビスケットをくれ」と言っていた。日によっては「飲むパン」に変わった。今にして思えば、あの人がいちばん正確な注文をしていたことになる。
15. 海外の名無しさん
シュメールでは労働者への給料がパンとビールで支払われていたらしい。こっちは現金でもらったあと自分でビールに換えているので、五千年かけて工程が一つ増えただけとも言える。
16. 海外の名無しさん
で、そのパンは実際うまかったのか。軽く焼き上がったのは分かったけれど、味の話が一言も出てこないのが気になる。パンの記録として、そこがいちばん大事なところだろう。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
今でもやろうと思えばできるよ。発酵の途中のエールから泡を少し分けてもらって生地に混ぜる。市販の乾燥酵母より力が弱いから膨らむまで時間はかかるけれど、そのぶんビール由来の香りが残る。焼き上がる頃には、パン屋というよりビールの匂いのする台所になっている。
18. 海外の名無しさん
そもそも酵母は自然界のいたるところにいる。サワードウの種おこしが「小麦粉と水を混ぜて置いておくだけ」で成立するのは、粉にも空気にも手のひらにも最初から酵母が付いているからだ。捕まえに行く必要すらない。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
土の中にも果物の皮にも、氷河にも砂漠にもいる。地球上でもっとも成功した生き物の部類だと思う。人間が「培養する」と言っているのは、実際には「すでにそこにいる連中に有利な環境を用意して待っている」だけなんだよな。
20. 海外の名無しさん
今日知った話:人類は仕組みを理解する何千年も前から火を使っていた。いやまあ、そういうものだよな。理屈が先に来る発明のほうがむしろ珍しい。
21. 海外の名無しさん
太陽の動きで時刻を測るのだって、なぜ太陽が空を動いて見えるのかを誰も説明できない時代からやっていたわけだ。使えるかどうかと、なぜ使えるのかを説明できるかは、まったく別の話なんだよ。
22. 海外の名無しさん
「原理を知らなかった」という言い方には少し引っかかる。彼らには彼らなりの説明があったはずで、それが後世から見て間違っていたというだけの話だ。説明を持っていなかったのではなく、いま我々が持っているものとは違う説明を持っていた。千年後の人間は、たぶん我々に対しても同じことを言う。
23. 海外の名無しさん
日本の話になるけれど、味噌も醤油も日本酒も、麹という菌の働きで作られている。顕微鏡で正体を確かめる前から何百年も職人が扱っていて、経験だけで温度と湿度を管理していたそうだ。ビールの泡と同じ構図が、まったく別の島でも同時に成立していたと思うと面白い。
24. 海外の名無しさん
結局、酵母が生き物だと決着がついたのは19世紀の半ばだ。ローマの記述から数えて1800年ちかく、人類は正体不明の泡に「よく膨らむから」という理由だけで信頼を預け続けていたことになる。落ち着いて考えると、なかなかすごい信頼の預け方だと思う。
まとめ
ビールの泡をパン種に使うやり方は、大プリニウスが書き留めるよりずっと前から各地でおこなわれていたはずで、彼はそれを記録に残した一人にすぎない。それでもこの一文が面白いのは、原理を一切知らない人間が、結果としては完全に正しい手つきで微生物を飼いならしていた証拠が、はっきり文章として残っているからだろう。コメント欄も似たところに落ち着いていた。「昔の人は無知だった」のではなく「順番が逆だっただけ」だ、と。考えてみれば日本も人のことは言えない。麹菌の姿を誰も見たことがないまま、日本酒も味噌も醤油も何百年と作られてきた。台所で膨らんでいくパン生地を眺めながら、そこで何が起きているのかをきちんと説明できる人は、いまでもそう多くない。
元ソース: 西暦1世紀、大プリニウスは「ビールからすくった泡を使うと、より軽いパンができる」と書き残していた——人類は酵母の仕組みが解明される2000年近く前から、酵母でパンを膨らませていた

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