1600年前のエジプトで、ある人物の遺体の腹の上に一枚のパピルスが置かれ、そのまま包帯で巻き込まれた。この種のパピルスに書かれているのは、普通なら「あの世で使う呪文」である。ところが今回そこにあったのは、トロイアへ向かった軍船の名前が延々と並ぶ、ホメロス『イリアス』の一節だった。
※注:『イリアス』=ホメロスの作とされる古代ギリシャの長編叙事詩。ギリシャ勢とトロイアの十年に及ぶ戦いのうち、最後の年のわずか数十日間を歌う。紀元前8世紀ごろに今の形になったとされ、ヨーロッパ文学のいちばん古い土台にあたる。
今日の知ってた?
📜 エジプトのオクシリンコス遺跡で、腹部にホメロス『イリアス』第2歌の断片を置かれた1600年前のミイラが見つかった。この遺跡でミイラに伴って出土するパピルスは、これまで呪文や儀礼の文書ばかりだった。文学作品がミイラ作りの工程そのものに組み込まれていた確認例は、これが初めてとされる。発掘は2025年11月から12月にかけて、スペイン・バルセロナ大学の古代近東研究所(IPOA)を拠点とするオクシリンコス考古学調査団が、第22区画の65号墓で行ったと報じられている。
背景:ゴミ捨て場から出てきた「古代の図書館」
オクシリンコスは、カイロの南およそ160キロにある古代都市の跡である。現在の地名はエル=バフナサ。ここが世界の古典学者にとって特別な場所なのは、王墓が豪華だからではなく、町のゴミ捨て場の跡から、およそ50万点のパピルス断片が出てきたからだ。
19世紀末から掘り続けられてきたその山からは、税の徴収記録、家賃の領収書、家族あての私信、そして誰も読めなくなっていた戯曲の断片までが混ざって出てくる。雨がほとんど降らない乾いた砂が、本来なら真っ先に腐るはずの紙を千年単位で保存してしまった。「古代の図書館」と呼ばれるのは、立派な蔵書庫があったからではなく、捨てられた紙くずがそのまま残ったからである。
時代の感覚も押さえておきたい。1600年前といえば、エジプトはとっくにローマの属州だった。ピラミッドが建てられた時代からは3000年近く下り、クレオパトラの死からも400年以上が経っている。それでも遺体をミイラにする習慣は、姿を変えながら細々と続いていた。今回の主人公も、ファラオの臣下ではなく、ギリシャ語が日常語として通じるローマ支配下のエジプトに生きた人物だということになる。
※注:ローマ支配期のエジプト=紀元前30年にクレオパトラの王朝(プトレマイオス朝)が滅び、エジプトがローマの属州になって以降の時代。その前のプトレマイオス朝はアレクサンドロス大王の後継者が建てたギリシャ系の王朝で、この300年ほどの間にギリシャの神々とエジプトの神々を重ね合わせる信仰が広く根づいていた。
もう少し詳しく
選ばれたのは「船のカタログ」だった。報道によれば、パピルスに残っていたのは『イリアス』第2歌の後半、通称「船のカタログ」と呼ばれる部分である。トロイアに集結したギリシャ勢の軍船を、出身地域ごとに指揮官の名と隻数を挙げて、およそ260行にわたって列挙し続ける箇所だ。物語としては何も進まない。ただ、古代の地理学者が土地の名を確かめるためにわざわざ引き合いに出すほど、具体的な地名が詰まった一節でもある。
「初めて」とされているのは何なのか。調査に加わった文献学者イグナシ=シャビエ・アディエゴは、この点を丁寧に区別している。ギリシャ語のパピルスが束ねられ、封をされ、ミイラ化の工程に取り込まれていた例そのものは初めてではない。ただしこれまで見つかったものは、中身が主に呪術的な文書だったという。「本当に目新しいのは、埋葬という文脈から文学のパピルスが出てきたことだ」というのが研究チームの説明である。
まだ決着していない問いもある。『イリアス』が意図して選ばれたのか、それとも単に手元にあった不要な巻物が材料として使われただけなのか、現時点では分かっていない。この遺跡のパピルスについて研究チームは「個人を守るための要素だったと考えている」としているが、それが文学作品にも当てはまるのかは別の話だ。発掘の指揮を執ったマイテ・マスコルトは、まだ修復中のパピルスが残っているとして「ほかの文学作品が出てくる可能性も否定できない」と述べている。分析は非破壊の手法で進められており、結論はこれからということになる。
※注:カルトナージュ=古いパピルスや麻布を漆喰で貼り重ねて作る、ミイラの外装(棺やマスク)のこと。不要になった書類がそのまま材料に転用されることがあり、そこから古代の文書が見つかる例は珍しくない。「使い回しの紙くず説」が消えないのは、こうした前例があるからでもある。
海外の反応
1. 海外の名無しさん
同じ本の虫として、この気持ちはよく分かってしまう。自分が死んだら、いちばん好きだった話を何冊か一緒に入れておいてほしい。1600年後に誰かが掘り出して読んでくれるなら、それはもう最高の終わり方じゃないか。
2. 海外の名無しさん(>>1への返信)
つまりこれ、人類史上いちばん古い「推しと一緒に埋葬されたオタク」の実例ということになる。1600年前にも同じことを考えた人がいたと思うと、なんだか嬉しくなってきた。
3. 海外の名無しさん(>>2への返信)
オタクというより「ギリシャかぶれ」と言ったほうが近い気がする。当時のエジプトでギリシャの叙事詩を読めるというのは、それなりに気取った教養の証だったはずだから。
4. 海外の名無しさん
今日いちばん驚いたのは実はそこじゃなくて、「4〜5世紀のエジプトでまだミイラを作っていた」という部分だった。エジプト=ピラミッドで止まっていた頭を、思い切り叩き直された気分だ。
5. 海外の名無しさん(>>4への返信)
エジプトの宗教はギリシャ風に姿を変えながら、かなり後の時代まで生き延びている。テオドシウス帝が異教の神殿と祭祀の破壊を命じるまでは、細々とではあるが続いていた。
6. 海外の名無しさん(>>5への返信)
そのテオドシウスが、統一されたローマ帝国を統治した最後の皇帝でもある。彼が死んだあと帝国は東西に分かれたまま、二度と一つに戻らなかった。妙に出来すぎた並びだと思う。
7. 海外の名無しさん(>>6への返信)
その二つを因果でつなぐのは無理があると思う。分裂したのは宗教のせいというより、東と西それぞれに軍を指揮できる皇帝が要る、という単純な事情のほうが大きい。テオドシウスの場合は、出来の良くない息子二人にどちらも継がせたがった結果でもある。
8. 海外の名無しさん
古代エジプトの超ざっくり年表:古王国(ピラミッド)→第1中間期→中王国→第2中間期→新王国(ツタンカーメン)→第3中間期→プトレマイオス朝(アレクサンドロス大王に始まりクレオパトラで終わる)→ローマ属州エジプト。今回の話はいちばん最後。我々が「古代エジプト」と聞いて思い浮かべる時代からは、とんでもなく離れている。
9. 海外の名無しさん(>>8への返信)
その距離感を掴むのに便利な言い方がある。クフ王とクレオパトラの間はおよそ2500年、クレオパトラと今の我々の間はおよそ2000年。つまりクレオパトラは、ピラミッド建設よりスマートフォンの発売のほうに近い時代の人になる。
10. 海外の名無しさん
自分は「敵による嫌がらせ説」を推したい。呪文を入れてやったぞという顔をして、実際にはまったく関係のない詩を突っ込んでおく。「まっすぐあの世へ行くつもり? そうはいかない。まずはイリアスでも読んで、この先の長さを覚悟しておくんだな」
11. 海外の名無しさん(>>10への返信)
当時の書物の値段を考えると、嫌がらせに使うには高すぎる気がする。あの時代のエジプトにはギリシャ系の住民が大勢いて、信仰も生活習慣も混ざり合っていた。悪意より、素直に文化が溶け合った結果と見るほうが自然じゃないかな。
12. 海外の名無しさん
いちばん知りたいのは、あの長い詩のどこを選んだのかという点だ。全部を入れられるわけがない以上、切り取った一箇所に選んだ人の意図が出るはずで、そこが分かれば当時の死生観に近づける気がする。
13. 海外の名無しさん(>>12への返信)
記事によると第2歌の「船のカタログ」の部分らしい。トロイアに集まった軍船と、それを率いた家の名前が延々と並ぶ箇所だ。読み取れたのは一部だけで、残りは劣化で失われている可能性が高いという。
14. 海外の名無しさん(>>13への返信)
よりによってあの箇所か、と最初は思った。でも考え直すと納得できる。地名と家名の羅列は、聞いている側が「自分の土地の名前」を待っている種類の文章だから、聴衆にとってはむしろ盛り上がる場面だったはずだ。
15. 海外の名無しさん(>>14への返信)
今のバンドがライブで開催地の名前を叫ぶと客席が沸くのと、機能としては同じだと思っている。あの目録は、朗誦する人が観客を掴むための仕掛けとして使い込まれていたんじゃないか。
16. 海外の名無しさん
自分が気になるのは、それが今の『イリアス』と同じ本文なのか、それとも違いがあるのかという点だ。写本ごとの細かい異同が分かる資料は、こういう形でしか手に入らないから貴重だと思う。
17. 海外の名無しさん(>>16への返信)
オクシリンコスは19世紀末から50万点規模の断片が出てきている場所で、失われていた戯曲の一部もそこから見つかっている。今回のものも、修復が進めば細かい違いが見えてくるんじゃないかな。
18. 海外の名無しさん
逆に、普段入れられているという「呪文」のほうを読んでみたい。何が書いてあれば安心してあの世に行けると思われていたのか、そっちのほうが当時の人の頭の中に近い気がする。
19. 海外の名無しさん(>>18への返信)
『死者の書』が有名だけど、あれは一冊の本というより、あの世で必要になる呪文の詰め合わせに近い。門番の名前を言い当てる呪文とか、自分の心臓に不利な証言をさせない呪文とか、内容がかなり実務的で面白い。
20. 海外の名無しさん
呪文も儀礼文も文学だと思うんだけどな。詩は呪文にもなるし儀礼文にもなる。今「古典」と呼ばれているものだって、元をたどれば誰かが誰かのために書いた文章の断片でしかない。線を引く場所がちょっと恣意的な気がする。
21. 海外の名無しさん
素朴な疑問なんだけど、こういうものを取り出すときにミイラのほうは無事なのだろうか。昔はパピルスを回収するためにカルトナージュを薬品で溶かしていた、という話を読んだことがあって、そこが引っかかっている。
22. 海外の名無しさん(>>21への返信)
今回の調査団は非破壊の分析を使っていると説明している。ただ、過去に外装を分解して中の反故紙を回収した例は実際にあって、あれは研究者の間でも今なお賛否が割れている。急いで中身を読むか、資料を丸ごと残すか、という話だから簡単ではない。
23. 海外の名無しさん
数千年後の発掘で、骨壺の中からハリー・ポッターが出てくるわけだ。「当時の宗教文書と思われる」という説明札を添えられて、ガラスケースに並べられる未来が見える。
24. 海外の名無しさん
1600年前の誰かの腹の上で、トロイアへ向かった船の名前だけが眠っていた。船を出した人も、書き写した人も、置いた人も名前ひとつ残っていないのに、名簿だけが残る。ずいぶん『イリアス』らしい話だと思う。
まとめ
オクシリンコスのミイラから出てきたのは、あの世で使うための呪文ではなく、トロイアに集まった船の名前を並べただけの一節だった。「文学が埋葬に使われた確認例としては初」という位置づけは、あくまで現時点での話であり、修復中のパピルスがまだ残っている。意図して選ばれたのか、手近な紙を使っただけなのかも、まだ誰にも分からない。
コメント欄は、「自分も好きな本と一緒に埋めてほしい」というロマンから始まりつつ、すぐに「4〜5世紀までミイラを作っていたのか」という時代感覚の修正、ローマ支配下エジプトの信仰の混ざり方、そして「そもそも呪文と文学を分ける線はどこにあるのか」という定義の話へ流れていった。ひとつの断片から千六百年分の話題が出てくるあたりが、この手のニュースのいちばんの贅沢だと思う。

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